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2026. 6.14 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

  • 4 日前
  • 読了時間: 6分

【タイトル】

エペソ書(13)「キリストの教えに生きる①」

【聖書個所】

エペソ4:17~24:「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。4:18彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。4:19道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。4:20しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。4:21ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。4:22その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、4:23またあなたがたが心の霊において新しくされ、4:24真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」

【序論】

 パウロは前の箇所で、教会が持つ働きの多様性について語り、しかし、その多様性は、教会が神の愛によって一つのキリストの体として建て上げられるために用いられて行くという、教会の唯一性について語った。パウロは、それに続けてエペソの教会の兄姉、また私たちに、今日の箇所以降で、「このように歩んで行きなさい。」と、幾つかの勧めをしている。今日はその一つ目についてのメッセージです。

【本論】

 先ずパウロは私たちに、異邦人のように歩んではならないと言っている。

V17:「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」

 この勧めは非常に重要なものである。何故なら、パウロはこのことを言うに当たり、こう言っているからです。「主にあって言明し」とは、「主にあって、言葉を持ってはっきり言いますよ。」ということ。分かっても分からなくてもどっちでもいいのではなく、「はっきり言いますよ。」と、それだけ明確に勧めをしていることが分かる。「おごそかに勧めます。」は、「厳粛に、まじめに勧めますよ。」ということ。言うことに妥協の余地がないということです。こんな風に言われたら、従うほかない。

 そして、何を言明し、何を勧めているのか?というと、「もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」ということです。では、その「異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」とはどういうことか?―「異邦人」とは、ここではユダヤ人と異邦人という対立関係にある一方の「異邦人」のことでなく、「罪赦されていない人」つまり「罪人」を指す言葉です。しかし、むなしい心で歩む人は罪人でなくてもいる。では、この「むなしい心で歩む」とはどういうことか?―それが、Ⅴ18~V19で語られている。

V18~V19:「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。4:19道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。」

 ここに、異邦人(罪人)の歩みに関する3つの特徴が挙げられている。①「知性の暗さ、つまり無知」、②「かたくなな心」、③「道徳的無感覚さ」である。①「知性の暗さ、無知」とは、詳訳聖書によると、「知識と知覚力の欠如、故意の盲目」となっている。つまり、「知識、知覚力が欠けているだけではなく、知ろうとしたがらないこと」。②「かたくなな心」とは、文字通り「悔い改めて、変わろうとしない心、頑固な心」のこと。そのために知性が欠け、故意に盲目になっているのだろう。そして、③「道徳的無感覚さ」とは、同じく詳訳聖書によると、「霊的無関心、霊的無感動、霊的無感覚」と訳されていて、それは単に行いや態度における「道徳的無感覚さ」だけでなく、もっと内面的な「霊的無感覚」のことである。何が良いのか悪いのか分からない。分かってもそれとは無関係にしたいことをする、或いは、全く感情のない人間のように何かをするというような、霊が死んでいる状態のことである。

 「トクリュウ」(匿名・流動型犯罪)に関するある番組で、あるコメンテイターが、その犯罪に手を染める若者たちのことを語っていた。その人によると、以前の青少年による犯罪は分かり易かった。多くの犯罪が、いわゆる不良少年とか非行少年によるものだったからである。しかし、最近のトクリュウ犯罪は、どこにでもいる普通の少年や若者によるものなので、分かりにくくなったと言う。彼らは、以前の青少年と違い、道徳的無感覚、何が良いのか悪いのか判断がつかずにやってしまっていて、手加減の知らない所に怖さがあると言う。

※パウロの言う異邦人(罪人)の「むなしい心」とは、まさにそのような心なのではないか。

 パウロは、そのように先ず異邦人(罪人)の「むなしい心」について語り、エペソの兄姉、また私たちに対して、「このように歩め」と、私たちに対する勧めを語っている。命じている。それが、Ⅴ20~V24で、その中心になっているのが、「キリストの教え」です。パウロはその中で、「キリストの教え」とは何だと言っているだろうか?

V22~V24:「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、4:23またあなたがたが心の霊において新しくされ、4:24真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」

 もう少し説明を加えるために、詳訳聖書で読んでみよう。祥訳聖書では「どのように歩め」と教えているだろうか?

祥訳聖書:V22~V24:「あなたがたは、以前の生活の様式を特徴づけていたものであり、また、錯覚から生ずるところの元の性質を脱ぎ捨てなさい<あなたがたの古い、新しくされていない自己を捨て去りなさい>。4:23そして、あなたがたの心の霊において絶えず新しくされなさい<生き生きとした精神的また霊的態度を持ちなさい>。4:24そして、真理の義と聖を具備した神の像<神のかたち>として造られた新しい性質<新生した自己>を着なさい。」と命じている。

 これらの教えを聞き、心に何か引っかかるものがあるか?―私たちの内に、「異邦人」(罪人)として生きていた時に持っていた古い性質がまだあるだろうか?―もしあれば、聖書が言うようにそれを捨て去ろう!同時に、救われた者として、神が私たちのために贖って下さった神のかたち、キリストの姿を着よう!

【結論】

 これがキリストの教えです。今日(こんにち)、また以前からもそうではあるが、トクリュウ型犯罪に手を染めてしまった少年や若者たちだけではなく、すべての人が「むなしい心」で歩んでいる。かつては私たちもそうとは知らずに歩んでいた。しかし主は、そのように歩んでいた私たちの暗かった心の目を開いて下さった。だから、私たちはいつもこのことを覚え、古い人を脱ぎ捨てて、キリストに似せられた新しい人を着て行こう。

エペソ2:11~13:「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、2:12そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。2:13しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」

 「近い者とされた」とは、何に対して近い者とされたのか?―神の姿へと、キリストの姿へと、「近い者とされた」のです。

Ⅱコリント5:17:「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

 神は私たちを、全く新しい者として下さり、神の姿へと造り変えて下さるのです。

―祈り―

 
 
 

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