キリスト教会
2026. 9. 6 主日礼拝メッセージ
【タイトル】:召しに相応しい歩み(6)「神の召しの確かさ」
【聖書個所】
マタイ4:18~20:「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。4:19イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』4:20彼らはすぐに網を捨てて従った。」
【前置】
この箇所は、ペテロとその兄弟アンデレの召命の箇所。この後のV21では、ヤコブとヨハネの召命のことが記されているが、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と、召命の言葉が語られているのはこの箇所だけである。今日はこの箇所から、「神の召しに相応しい歩み」という今年のテーマとして、この箇所、特にイエス様がペテロに語った召命の言葉、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」に焦点を当て、「神の召しの確かさ」についてみことばを取り次ぐ。
【本論】
発明王で有名なトーマス・エジソンは、小学校に入学し、算数で「1+1=2」を教わった時、先生に、粘土の塊を二つ持って来て、それをくっつけて一つの塊になるのを見せながら、「どうして『1+1=2』になるの?」と、何度も先生に訊いたり、英語の先生に、「どうしてA(エー)はP(ピー)と言わないの?」と、普通ならしないような質問をするものだから、先生たちから煩がられ、また、授業中もじっとしていないので、エジソンは問題児として、入学して3ヵ月で学校を辞めさせられた。その時学校から両親宛てに、「この子には知的障害があり、この学校ではこれ以上教えられないので、退学してもらいます。」と書かれた手紙を持って家に帰った時、母親のナンシーは、涙を流しながらも、息子のエジソンの前で手紙を読むふりをしてこう言ったと言う。「『あなたの息子さんは天才です。この学校の教師では能力不足で教えられないので、これからはお母様が先生になって教えてあげてください。』と書いてあるのよ。」と。そういうわけで、エジソンはその後、家で母親や父親から教育を受けた。今でいうホームスクーリングである。特に母親からは、いつも次のような言葉が掛けられていたと言う。
「良く出来たね。あなたは賢くなるわ」と、理解したり、テストでパスすると、それを褒め、また出来ない時でも、彼の可能性を肯定する言葉を掛け続けた。また、「戻って来られて偉いわね」と、勉強中に立ち歩いてしまっても、戻って来た時には、そのことを褒める言葉を掛け続けた。なので、後年、偉大な発明王となったエジソンは、母親が掛け続けてくれた言葉や愛情について次のように語ったと言う。「何があっても支えてくれた母がいたから、今の私がある。母だけは何があっても、あるがままの私を理解してくれた。どんなに苦しいときでも、母を喜ばせたくて私は努力を続けることができた。すべて母のおかげだ。」と。
何故このエジソンの話をしたかと言うと、あの発明王が誕生したのは、お母さんがエジソンに掛けた言葉があったからだということと、その掛けた言葉の持ち力というのはどれほど大きなものであるか、良い意味でも悪い意味でも、どれほど言葉というものには力があるか、ということを先ず知って欲しいから。それと共に、人の言葉にそれほどの力があるとするなら、神の口から出る言葉にはどれほどの力があるか!ということを知りたいからです。
ペテロはイエス様に掛けられた言葉により、彼は網をすぐに捨てて従って行った。実際に「人間をとる漁師」とは何か?ということも知らずに、すぐに網を捨てて従って行った。彼は召されたのである。しかし、ペテロはイエス様に召されて従って行ってはみたものの、彼の召命人生は順風満帆だっただろうか?―そうではなかった。多くの躓き、失敗があった。例えば、イエス様から「下がれ。サタン。」とサタン呼ばわりされたこともある。(マタイ16:21~23)また、最後の晩餐が終わり、イエス様と弟子たちがゲッセマネの園に行った時、イエス様がそこで、「今夜、あなたがたはわたしのために躓く。私が十字架に着けられるために祭司長たちに捕まると、あなたがたは私を捨てて逃げて行く。」というようなことを言うと、ペテロは、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」(マタイ26:33)と断言したが、結果はどうだったか?―彼はつまずいた。イエス様が彼に言ったように、3度「私はあの人なんか知らない。」と言った。そして彼は、イエス様の言葉を思い出して、激しく泣いたと言う。(マタイ26:75)しかし、そんなペテロだったが、その後どうなったか?―使徒の働きによるならば、彼は聖霊に満たされて、大胆にイエス様のことを語った。
一挙にそこに至るまでに、聖書はルカの福音書やヨハネの福音書の中で、ペテロのその後に関してのことが語られている。
ルカ22:31~32:「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。22:32しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
ヨハネ21:15~19:「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの小羊を飼いなさい。』21:16イエスは再び彼に言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を牧しなさい。』21:17イエスは三度ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』ペテロは、イエスが三度『あなたはわたしを愛しますか。』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい。21:18まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。』21:19これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。『わたしに従いなさい。』」
※これらは何を語っているか?―神の召しの確かさ、神の口から出る言葉の確かさです。
イザヤ45:22~23b、25:「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。45:23bわたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。」、「イスラエルの子孫はみな、【主】によって義とされ、誇る。」
まさに、パウロが召命について語る通りです。
ローマ11:29:「神の賜物と召命とは変わることがありません。」
神の召命、神の口から出た召しの言葉は決して変わらない、取り消されることはないのである。そして、これは私たち一人ひとりに対しても言えることである。私たち一人ひとりは、イエス様がペテロに「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と言ったのと同じように、私たちもイエス様からそのように言われているのである。そのための働きにはいろいろな働きがあるにしても、皆、イエス様によって神のために、これまでいろいろ学んで来たように、私たちはイエス様の為された働きをする者として召されているのです。
【結論】
私が救われて、そして献身した時、ある兄弟が私にこう訊いた。「金子さんは神様からどんな召命をもらったのですか?」と。私はその時、神学校の証し文にも書いたⅠコリント3:9:「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」のみことばを示して、「これがそうです。私は神の仕事の協力者になりたいと思っている。」と答えた。しかしこのみことばは、正確に言うと、召命の言葉として与えられたものではなかった。召命の言葉として、自分が選んだ言葉だった。私の献身には、神からポンと与えられたような召命の言葉は無かった。ただ、「これだ。」と言う思いだけだった。だから、彼にはこの時、「軍隊には召集兵と志願兵の二種類あるように、「私は志願兵です。」と言った。しかし、これは結局は同じなのである。志願も結局は、その背後に神の召命があるからである。
ピリピ2:13: 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」
志しを与えてくれるのは神だから。だから、
ピリピ1:6:「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」
志を与えてくれる神は、それを必ず完成してくれるのである。イエス様がペテロに、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われ、そうしてくれたのと同じように。
このように、私たちの召しには、神の確かなみこころ、御計画がある。そして、それは必ず変わることなく、成就するのです。
―祈り―