キリスト教会
2026. 5. 3. 礼拝メッセージ
【タイトル】
召しに相応しい歩み(2)「イエスについて行く道」
【聖書個所】
ルカ5:27~28:「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、『わたしについて来なさい。』と言われた。5:28するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」
【序論】
「この後」(V27)とは、カぺナウムでイエス様がある家にいた時、そこに中風病みの人が床に寝かされたまま、その家の屋根が剥がされ、仲間の男たちによってイエス様の前につり降ろされて癒された出来事の後のこと。「イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、『わたしについて来なさい。』と言われた。」
このカぺナウムにはローマに税を納めるための収税所があった。その収税所に「レビ」という人がいて、イエス様はその「レビという取税人に目を留めて、『わたしについて来なさい。』と言われた。」このレビという人物は、マタイ9:9では「マタイ」という名前になっていて、マタイの福音書を書いたマタイである。このレビはイエス様によって、「わたしについて来なさい。」と召された。すると、レビはどうしたか?―V28:「するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」とある。
今日は、この「するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」から、今年のテーマの「召しに相応しい歩み」について学ぶ。この「何もかも捨て、立ち上がって」ということはどういうことか、そのために、さらに次のみことばを見て行きたい。
ルカ9:23~25:「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。9:24自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。9:25人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」
このみことばに、「何もかも捨て、立ち上がって」とはどういうことかを解き明かす3つの鍵の言葉がある。①「自分を捨て」、②「日々自分の十字架を負い」、③「わたし(イエス様)について来なさい。」の3つである。
【本論】
(1)「自分を捨て」
この「自分」というのは、「自分、自分という自己中心性」、「自分中心の生き方、考え方」、つまり、救われる以前の「肉の性質によって生きる生き方」、「古い自分」のこと。聖書は、Ⅱコリント5:17:「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」。また、ローマ6:4:「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」と言う。だから、私たちは「新しく造られた者」、また「新しい歩みをする者」になったのだから、そのように歩んで行きたい。
しかしパウロは、そうではあっても、私たちは依然として古い者であるかのように、古い生き方をするものであることも知っている。それでパウロはこう言う。
ローマ6:16~21:「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。6:17(しかし)神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、6:18罪から解放されて、義の奴隷となったのです。6:19あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。6:20罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。6:21その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。」
※結局、救われた者であっても、召された者であっても、「どう生きるか」というのは選択の問題であり、救って下さった、召して下さったイエス様との関係の問題である。その関係の中で、どちらを選択して行くのかという問題だと言う。だから、私たちは新しく造られた者として、召された者として、聖書が言うように、もう「古い生き方」は十分であり、そこからは何一つ良い実を得ることはないので、そんな「古い生き方をする古い自分」を捨てて、新しい生き方を選び取って行こう。
レビ(マタイ)もそうしたのである。
(2)「日々自分の十字架を負い」
「自分の十字架を負う」ということは、この世の多くの人やクリスチャンでさえ、悩みや苦しみ、何かの問題を抱え込んだ中で、「これは私の十字架だから仕方がない、これを負って行こう。」と言う。しかし、それは間違った信仰であり、福音信仰ではない。福音は、むしろ反対で、そのようなものから私たちを救い、癒し、解放するもの。イエス・キリストがそのようなものから私たちを救い、癒し、解放して下さるために、代わりに十字架に架かって下さったからである。それを信じるのが福音信仰です。この世は、「十字架」というと、悩み、苦しみ、痛みと思うが、救われた私たちにとってはそうではない。
ローマ6:6~7:「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。6:7死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」
ハレルヤ!だから、私たちはそれを知って、救われた者、罪から自由にされた者として歩んで行こう。これが、自分の十字架を負って歩むということ。そして、そこにはもう一つの十字架がある。それは;
ローマ6:8~11:「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。6:9キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。6:10なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。6:11このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
罪に対して死に、「神に対して生きる」ということ。これが自分の十字架を負って歩むということ。そこには、キリストがそのようにされたように、福音宣教という使命に生きるということもあるだろう。だが、それだけではなく、神を愛すること、礼拝すること、従うこと、人々を愛すること、仕えること等、召された者としてのすべてのことである。だから、「日々自分の十字架を負い」とあるのである。
※私たちもそのように、日々、召された者として、神に対して生きる者として歩んで行こう。
(3)「わたし(イエス様)について来なさい。」
イエス様は、「わたしについて来なさい。」と言った。つまり、「ついて行く人」、「ファロワー」を求めていたわけです。この世の多くの人もファロワーを求めている。Facebookでも、Instagramでも、Xでも、Youtubeでも多くの人がファロワーを求めている。そして、ファロワーが多くなればなるほど収入が増え、それで生計を立てている人たちもいる。10万人のファロワーが居ると、1投稿で10~30万の収入になると言う。だから、誰が一番多くのファロワーを持っているか、誰が一番のインフルエンサーかを競っている。つまり、この世の名声、富、この世での影響力を多くを得るために、より多くを受けるためにファロワーを求めているのである。
しかし、イエス様はそうではなかった。むしろイエス様はこの世的な名声や影響力が自分の方に来ようとすると、いつもイエス様は姿を隠された。それは、自分が何者であり、何のために来て、みわざを為しているかを知っていたからである。
ヨハネ6:15:「そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」
私たちもそう。この世の名声や富、誉を得るためにイエス様について行くわけではない。私たちは、イエス様によって贖われた本当の自分、神の子としての自分を生きるために、イエス様について行く、従って行くのである。そのことをルカ9:24~25は言っている。
ルカ9:24~25:「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。9:25人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」
※「それ」とは「自分自身」のこと。そして、「自分自身」とは、マタイ16:26では「まことのいのち」と記されているが、それは本来の私たちの神の子としての姿、本来の自分自身のこと。イエス様は、その「まことのいのち」を私たちに与えるために来られた。だから、私たちは、何があってもこのいのちを失ってはならないのである。
【結論】
イエス様に救われて召されて歩む信仰生活は、イエス様との関係の中でどう歩むかと言うことです。私たちはいつもその関係の中で、この世ではなく、イエス様を第一にして、イエス様について行く者でありたい。
―祈り―