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​今週(2025. 9.28)の礼拝メッセージ

【タイトル】

霊的戦い(7)「祈りと断食の力」

【聖書個所】

マタイ17:14~21

【導入】

 人は誰でも行ないが大事だと考える。特に信心深い人、宗教的な人ほどそう考える。だからいろいろ修行をしたりする。聖書でさえも、「行いのない信仰は死んでいる。」(ヤコブ2:14~17)と言う。 確かに、「私は信じます。」と言いながら、それを証しする行ないがないなら、その信仰は死んでいると言える。しかしまた逆に、行ないがあればその信仰は本物だと言えるのか?そうだとも言えない。何故なら、本当の信仰がなくても行ないは出来るから。それは、毎年恒例の初詣を見れば分かる。信仰が無くても人々は賽銭を投げて手を合わせている。中にはクリスチャンでさえも、クリスマスになると礼拝に来る人もいる。だから、このような人たちの信仰は本当の信仰と言えるのだろうか?でもそれは、その人たちだけの問題ではない。私たちの場合でも、私たちは何かあれば祈るが、祈った後、祈ったことに疑いを差し込むような言葉を途端に口に出す人がいる。例えば、何かの病気の癒しのために祈った時、「…癒されますように!主の御名によってお祈りします。アーメン。」と言って、「先生、祈ってもらってありがとうございます。でも、そうならなくてもいいんです。医者は難しいと言っていますから。」と。たった今祈っておきながら、祈ったことをそのまま受け取らないのです。その人たちにとって、医者と神様とどちらが有能なのか?どちらが全能だと信じているのか?―神様は私たちの体のひとつひとつの細胞から始まって、全宇宙を造られた方。すべての出来事も、すべての時間も、すべてを造り治めておられる方、神様に出来ないことなど何一つないのにも関わらずに、どうして信じることが出来ないのか?!-これも霊的戦いである。なので、今日はその戦いにおいて無くてはならないものについて学ぶ。それは、今日のタイトルにあるように「祈りと断食の力」です。

【聖書個所】

マタイ17:14~21:「彼らが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」」

【本論】

 この箇所に、初めに触れた、クリスチャンでも陥りやすい不信仰と、行ないに関する陥りやすい誤解、勘違いのことが記されている。私たちが経験する霊的戦いのことです。それは、一人の悪霊に憑かれていた男の子の癒しに当たって起きた霊的戦いの出来事です。弟子たちの言葉と行ないに現れた、彼らの不信仰と、その不信仰から来る行ないに関する霊的誤解、勘違いです。どんな出来事が起こったのか?―

 イエス様はペテロとヤコブ、ヨハネを連れて変貌山に上り、変貌山での出来事が終わって山を下りて来た。すると、一人の男がてんかんの病で苦しんでいる自分の息子を連れて、弟子たちに癒してもらおうとしたが、出来なかったところにやって来た。そこでイエス様はその子を叱り、その子を叱るというより、その子を支配している癲癇の霊に対して叱り、悪霊を追い出して癒された。(V14~V18)

 すると弟子たちがイエス様のところにやって来て、Ⅴ19b:「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」と訊ねた。弟子たちはこれまでにイエス様から権威を受けて、病院を癒し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出す働きをしていた。(マタイ10:1~8)だから、彼らにはこの男の子を癒すことが出来たはずだったのだが、何故かこの時は出来なかった。それで弟子たちはイエス様に訊ねたわけである。するとイエス様は次のように答えられた。その答えに、今日私たちが求めている霊的力に関する答えがある。それは、イエス様が最後に言われた、Ⅴ21:「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。」という答えである。

 皆さんはこの答えを聞いてどう思うか?―恐らく、「えっ?イエス様はそう言うけれど、この子の悪霊追い出しに関し、イエス様が祈り、断食をしたということなどどこにも書いていない。イエス様は祈ることも断食することもなく、この子は癒された。だとしたら、どうしてイエス様はこのことを言われたのか?この言っていることの意味は何なのだろうか?―イエス様は御自分が神であり、癒し主でもあったからこの子は癒された。勿論、そうだけれど、だとしたら、弟子たちにこのことを語る必要もなかったはず。ではどうして言われたのか?

 答えは、イエス様のみことば通り、「この種のものは、祈りと断食によらなければ」出て行かないからです。実際に、この悪霊が出て行ったのは、イエス様の祈りと断食によったから出て行ったのである。 イエス様は誰よりも多く祈り、また多く断食をされた。(マタイ14:23、マルコ6:46、ルカ6:12、マルコ1:35、ルカ5:16、…)しかし、それは祈り貯め、断食貯めのことを言っているのではない。祈りや断食という霊的なことは、荒野のマナと同じように貯めることが出来ないものである。それは毎日間断なく行い、受けるものだからです。

 ではどうしてイエス様はそう言われたのか?―それは、イエス様は神ではあったが、人としても生まれたので、毎日、間断なく祈りと断食をしなければならなかったからである。というのは、イエス様ではあっても、人には弱さがあって、その弱さのゆえに霊的な試みに会うということ、人には霊的戦いがあるということを知っていたからです。そのことをヘブル書の記者は次のように言っている。

ヘブル4:15:「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

 だからイエス様は祈りをし、また断食をした。祈りをし、断食しなければ、人は霊的戦いに勝つことが出来ないことを知っていたからです。「この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。」ということを知っていたからです。続けてヘブル書の記者、主は次のように言っている。

ヘブル4:16:「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

※ここに、祈りと断食の意味するもの、祈りと断食のうちにあるものが何であるのかがある。それは、神の憐れみ、神の恵み、神の助けという、恵みの御座にある神からの力です。人の力ではなく、神の力です。

 最近よく私は言うが、祈りは単なる嘆願や願いではなく、神につながることであると。断食もそうである。断食は飲食のことではなく、自分の力、肉の力に頼ることなく、神の力に頼ること、神の知恵、神のあわれみ、神の恵み、神の助けに頼ることです。それが、祈りと断食の本質です。だから、私たちが祈りと断食によって神に頼るなら、「この種のもの」と呼ばれるような霊的戦いにおいても、またどんな戦いにおいても、勝利をするのである。それが、Ⅴ20b:「まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」ということでもある。

【結論】

 私たちは信仰生活の中でさまざまな霊的戦いをする。戦いを免れることは出来ない。しかし、ここにグッドニュースがある。それは、わたしたちは神様につながった信仰、神様に頼る信仰があるなら、たとえそれがからし種ほどの信仰であっても、私たちはどんな霊的戦いであっても勝利するのである。祈りと断食という行ないではなく、実際に行なってもいいが、本質的な意味の祈りと断食という、私たちの弱さのゆえに神に頼る、神にすがる、神に求める、神につながることにより、その信仰を通して働く神の力により、私たちはどんな霊的戦いであっても、勝利をするのである。アーメン!

―祈り―

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