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​今週(2024. 5.12)の礼拝メッセージ

【聖書個所】

黙示録2:18~29

【タイトル】

黙示録(8)「テアテラ教会へのメッセージ」

黙示録2:18~19:「また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」

【序論】

 テアテラは、BC3世紀頃にシリアのセレウコス1世によって建設された町。この町の名前については聞き覚えがあると思うが、パウロがピリピの町で最初にバプテスマを授けたルデヤという女性の出身地。彼女はここで紫布を売る商いをしていた。紫布というのは、茜(あかね)草の根から取れる染料で染めた布で、その草はテアテラ地方に多く自生していて、他の毛織物や麻布と同様、テアテラの町の名産だった。テアテラの町についてはこの位にして今日のメッセージのポイントに入るが、これまでのように、各教会に対するメッセージのパターンに従って見て行く。

(1)キリスト像

V18:「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。」

 この姿は、既に黙示録1:14~15で見ている。神が7つの教会にメッセージを書き送るようにと、その啓示を与えた時にヨハネが見た神の子の姿。

黙示録1:14~15:「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。」

 この姿、特に「燃える炎のような目を持ち」という姿は、この後の箇所と関連するので、その時に語る。

 次に、(2)「私は知っている。」と、テアテラ教会の霊的状況をⅤ19~V23で語り、(3)主からのチャレンジをⅤ24~V25で語っている。そして最後に、Ⅴ26~V28で(4)そのチャレンジに応えた結果、「私はこうしよう。」と、神の祝福の約束が語られている。テアテラの教会に関し、何が良い点で、何が良くない点だったのか、またそれぞれの点に対して、主はどのようなチャレンジを与えられたのだろうか、そして、主はどのような祝福の約束を与えていただろうか?―それぞれを見ながら、私たちに対する神様のメッセージを受け取って行こう。

【本論】

(2)テアテラ教会の霊的状況

V19~V21:「「わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。」

 テアテラ教会の霊的状況はそれほど悪いものではなかったように思える。V19:「わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。」とあるように順調に成長しているように見える。しかし、どの教会にも良くない点と良い点があるように、テアテラ教会にも良くない点があった。それが、Ⅴ20~V21:「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。」であった。

 「イゼベルという女」とは、文字通り「イゼベル」という名の姉妹のことか、或いは、旧約聖書に登場する、あの悪名高いアハブの奥さんのイザベルのような女という意味なのか、恐らく後の方だと思うが、いずれにしてもあのアハブの奥さんのイゼベルの行状は、Ⅰ列王記18章、19章、21章を読めば分かるように、彼女はフェニキヤ人で、イスラエルの民と違って偶像礼拝を行なう国の出身のため、アハブと結婚した後、イスラエルにバアルやアシェラの偶像を持ち込み、偶像の神の預言者を養い、多くのイスラエルの神の預言者たちを平気で殺す、神を神とも思わない、また、夫のアハブのために、謀略によってナボテを情け容赦なく殺し、彼のぶどう畑を奪い取るような、人を人とも思わない女性であった。だから、その結果として受けた彼女の無惨な最期が、Ⅱ列王記9章の後半に描かれていた。

 旧約聖書のイゼベルについてはこのくらいにして、テアテラ教会のイゼベルはどうだったか?―彼女は、Ⅴ20:「預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。」とあるように、他の兄姉たちを誤りに導くような教えを語っていたというから、彼女は偽預言者であり、偽教師でもあった。そして、不品行(「ポルノ」の語源に当たる「πορνεία:ポルネイア」という言葉)を行なわせていた。その言葉通り、男女間で、同姓同士で不品行が偶像礼拝の行われる所で行なわれていたのである。それは礼拝の時だけでなく、日常的にも行われていた。エペソ教会にいたニコライ派や、ぺルガモ教会にいたバラムの教えを奉じている人々が、偶像の神にささげた物を食べさせ、不品行をさせていたのと同じこと。イゼベルという女は、神の恵みを侮って、自分でも罪を犯し、人にも犯させていたのである。

 今日の教会にこのようなイゼベルはいるだろうか?―誰がイゼベルであるかは別にして、そのような霊は今日の教会でも働いている。神の恵みを軽んじ、神を神とも思わず、人を人とも思わない、結局は自分が満足すれば良いという自分中心の信仰、自己充足のための信仰の霊が働いている。特にこの終わりの時代には、その霊が強く働いている。パウロはそのための注意をテモテに次のように与えていた。

Ⅱテモテ3:1~5:「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」

 だから神はヨハネに悔い改めるようにと、そして悔い改めなければこうなると、Ⅴ22~V23で語っている。

V22~V23:「見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。」

 そして、「こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。」とある。これが、初めにキリストの姿として描かれていた「燃える炎のような目を持ち」ということに繋がっているのである。神は燃える炎のような目を持って、人の思いと心を探る方。しかしだからと言って、神はただ裁きに厳しいだけの方ではない。次のV24~V25を見てみよう。

V24~V25:「しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」

 キリストは、このように続けてヨハネに、この教会の良い点について語り、そしてチャレンジも与えている。その結論が、Ⅴ26~V29。

【結論】

Ⅴ26~V29:「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」

 この結論には終末論的メッセージがある。主の再臨の時には、私たちには主と共に千年王国での支配権が与えられるという終末預言である。それは、ルカ19章の中のミナに関する譬え話で明らかにされている。V26~V27はそのことである。そして、神はそのためにも私たちに「明けの明星」を与えて下さるという。「明けの明星」とは、明け方、東の方に明るく見える金星のこと。何故、そのように明るく見える「明けの明星」を私たちに与えて下さるのか?―それは、「サタンの深いところ」のような、闇にあって、人を惑わす、肉の目には魅力的に見えるものではなく、明るくなって来ると、肉の目には見えなくなってしまうかもしれないが、しかし、霊の目で見るならば、私たちを導き教えるキリスト、また神の言葉として、私たちは目を留め続けることが出来る方である。

Ⅱペテロ1:19:「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」

 この終末の時代、ますます闇の力が働く中にあって、私たちは最後まで、何があっても、この神のことばをしっかりと握り、その光に目を留め続けて行こう!

―祈り―

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