キリスト教会
今週(2025. 8.24)の礼拝メッセージ
【タイトル】
黙示録(38)「すべて新しくされた私たち」
【聖書個所】
黙示録21:1~8
【聖書個所】
黙示録21:1~8:「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』また言われた。『書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。』また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。』」
【序論】
ヨハネはこの箇所で、「新しい天と新しい地」の幻(V1)、また、「新しいエルサレム」の幻(V2)を見た。そして、御座から出る声が語るのを聞いた。その中の一つが、「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」(V5)と言う声である。
今日はこの、「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」と語っている言葉が何を意味するのか、また、「わたしは、すべてを新しくする。」と言う「新しく」というのは、何が新しくされるのかということについて、「すべてを新しくされた私たち」というタイトルでみことばを取り次ぐ。
【本論】
初めに、この箇所で重要な、土台になるべき聖句を見る。それはV2です。
V2:「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」
この聖句が言っている「夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来る」、「聖なる都、新しいエルサレム」とは誰のこと?―私たちクリスチャン、教会、ユダヤ人を含め、イエスをメシヤとしてキリストとして信じるすべての人です。
パウロは男女の結婚の奥義を通し、キリストとキリストを信じる者との関係を現わした。つまり、キリストが花婿であり、キリストを信じる者、メシヤを信じる者が花嫁であるということをである。
エペソ5:31~32:「『それゆえ、人(男)は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」
ヨハネは新天新地の幻を見る中で、最後の審判が終わり、死もハデスも火の池に投げ込まれ、ペテロがⅡペテロ3:12~13で語ったように、この天と地が火で焼き尽くされて跡形も無くなった後に到来する新天新地の現われの時に、正にパウロが語った私たちの究極の姿、「夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来る」のを見たのである。それは何のため?―結婚のためである。
※ここに、パウロが結婚の奥義として語っている私たちとキリストとの関係、そしてキリストによる私たちの贖いのゴールがある。
エペソ5:25~27:「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」
「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように」(V25)とは、キリストの十字架による贖い、つまり、キリストの血が私たちの贖いのために代価として払われたことを語っている。
ヘブル9:11~12:「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」とある通り、私たちはその贖いを信じることで聖なる者とされ、御前にキリストの花嫁として立つことが出来るのです。それが、結婚の奥義としてエペソ5:26~27で語られていること。私たちの贖いを現わすキリストとの結婚にはキリストの血が流されている。のである。それで、結婚式のヴァージンロードの赤はキリストの血を現わしているのです。
※キリストの血の代価が払われたということは重要なことであり、その結果として、私たちにとって新しくされたものが3つあるが、キリストの血は、そのすべての土台、根拠となるものである。その新しくされた3つのこととは?―
(1)新天新地という、私たちが置かれる新しい天と地。生きて行くための環境。
「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)とあるが、その天と地はアダムの罪により汚れてしまった。なので神は、「最後のアダム」(Ⅰコリント15:45)として来られたキリストにより、アダムの子孫である私たちを十字架で贖い、復活によって私たちを新しく造られた者として下さった。そして、私たちがキリストを信じた時にキリストと共に十字架で死んだように、最後の審判が終わった後、この天と地を火で滅ぼし、新しい天と新しい地を造って下さった。それがV1でヨハネが見た新天新地である。神がⅤ5で、「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」と言った「すべて」の中に、この新天新地も入っている。神は新しくして下さった私たちのために、新しい環境、新天新地を造って下さったのです。これが、私たちにとって新しくされた一つ目である。
(2)神の臨在、神との関係が新しくされた。
V3~V4:「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」
「神の幕屋」とは、幕屋の至聖所に神の臨在が常にあったように、神の臨在を表わす。
黙示録7:15:「だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。」
そしてその声は続けてこう言った。V3c~V4:「神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」
※何と言うことだろう!―神は私たちと共に住んで下さり、私たちをご自身の民として下さり、私たちの目の涙をすっかり拭い去り、死も悲しみも、叫びも苦しみもない者にして下さるというのである。ただ新天新地が与えられるだけでなく、私たちをそのようにして下さるというのである。ハレルヤ!
(3)神の子として新しく、すべてを相続する者として下さった。相続の更新。
V6~V8:「また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。』」
ここには私たちが神の子とされたことと、神の子としていのちの水の泉、これは天にあるすべての霊的祝福の源であるが、その泉からその祝福を自由に得ることが出来る子としての身分を相続したことが記されている。神の子になることにより、すべての恵みを相続する者となったということである。
しかし、この父と子の関係というのは、その前に夫婦の関係があって成り立つものです。この世の親子関係を見ても分かるように、親子の関係はその親と子の肉による血の関係であるが、夫婦の関係はそうではない。肉による血の関係は無いが、愛の関係である。それを私たちのキリストとの婚姻関係でみるならば、そこには私たちの贖いのために流されたキリストの血を見ることが出来る。そう!そこにはキリストの血が代価として払われているのである。なので、「これらのもの」という新天新地、神の臨在、その他の相続するすべてのものは、キリストの血の代価に基づいたことである。キリストの血はすべての相続の土台である。
なので、その血に預からない人たち、「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者ども」(V8)は、最後の審判における裁き、第2の死が相続となる。
【結論】
仮令これらのこと、救いと滅びに関することがこのように如何に信じがたいことであっても、それは、Ⅴ5で言うように、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」ということを覚え、また、私たちがいかに新しくすべてが変えられた者であるかを覚えて、主を賛美しよう。
―祈り―