キリスト教会
今週(2025. 4.20)の礼拝メッセージ
【タイトル】
「安息日が終わったので」
【聖書個所】
マルコ16:1~6:「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、『墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。』とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。『驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。』」
【序論】
V1:「さて、安息日が終わったので、…」
この「安息日が終わった」という出来事は、この時、イエス様の体に油を塗りに行こうとやって来たマグダラのマリヤやヤコブの母マリヤ、またサロメにとって、また、私たちにとって、非常に大きな意味を持つ出来事です。
先ずマリヤたちにとって大きな出来事だったというのは、通常ユダヤでは人が死ぬと、墓に葬られる時に死んだ体に油を塗るが、イエス様の場合、十字架の上で息を引き取ったのが安息日の始まる3時間前だったので、そのままイエス様の体は油も塗られずに墓に葬られてしまっていた。なので、彼らは、イエス様の体に油を塗ることが出来る時、安息日が終わる時を待っていたからである。なので、ようやく安息日が終わったので、彼らはどんなにか嬉しかっただろうか、ほっとしただろうか、そんな思いで彼らは墓に向かっていた。
そして私たちにとって大きな意味をもつ出来事というのは、それが今日のメッセージのテーマだが、「安息日が終わった」という出来事は、私たちにとってだけではなく、世界のすべての人にとって、世界の歴史を二分するほどの画期的な出来事だった。どういう意味で画期的な出来事だったか?―ひとつの鍵になる言葉に焦点を当てたい。それは、彼女たちが墓にやって来る途中で、Ⅴ3:「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」と語っていた「石」のことである。この後、彼らが墓の所にやって来た時、もう既に転がされていた「石」のことである。その「石」に焦点を当てて見て行きたい。イエス様の復活に関連して、3つの石がそこにはあった。
【本論】
(1)イエス様の復活を証しする石
イエス様の映画を見ても、また実際にエルサレムに行ってみても、イエス様が葬られた墓の入口の脇には大きな石が転がされている。それは、この後彼女たちが墓の中に入って、墓の中にいた真白な長い衣をまとった青年から、Ⅴ6:「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」と語られたように、イエス様が確かによみがえられたことを示す証しの石である。しかしその石は、「安息日が終わった」という、ただ繰り返し来る安息日が終わったことを証しする石というだけではなく、永遠に安息日律法そのものが終わったということを証しする石でもある。
油を塗りに来たマリヤたちにとっては、その律法による安息日が終わったので、彼らは油を塗りに来ることが出来た、そのような安息日であった。しかし、イエス様の復活は、その安息日律法そのものを終わらせるためのものでもあった。イエス様は山上の垂訓の中で、弟子たちにこう言われた。
マタイ5:17:「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」
イエス様は復活をもって律法を成就された。イエス様は私たちを、御自身の復活によって、罪に定める律法から解放し、救いを与え、律法を成就してくださった。律法による安息日は終わり、信じる者に、御霊による永遠の安息の中に、永遠の救いの中に、永遠の自由の中に入れて下さったのである。
Ⅱコリント3:14~17:「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」
イエス様はよみがえられて、私たちの心に掛けられていた覆いを取り除いてくださった。この安息、救い、自由は、イエス様の復活によって実現したものである。マリヤたちが見た転がされた石はそのことを証明している。
(2)新しくされた私たちの心の石
この後マリヤたちは、イエス様の復活のことを聞いても、喜ぶどころが、恐ろしくなって、すっかり震え上がり、気も動転して、そこから逃げ去ったとある。
V8:「女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
そして、それは女たちだけではなかった。V9以降の挿入されている箇所にもあるように、この後、マリヤたちがイエス様の復活したことを弟子たちに伝えても、また、エマオ途上でイエス様に会った二人の弟子たちの報告を弟子たちは聞いても、彼らはそれを信じようともしなかったとある。
どうしてか?―それは、彼らも他のイスラエルの人々と同じように、心に覆いが掛かったままでいたからである。その覆いが取りのけられるのは、ペンテコステの日に彼らの上に聖霊が降ってから以降のこと。ペテロの説教でも分かるように、彼らは聖霊によって目が開かれ、心が開かれ、神様のみこころを悟り、新しくされて、彼らはイエス様の復活を大胆に証して行ったのである。その心の覆いが取り除かれることについて、エゼキエルはイスラエルの回復の預言の中で、次のように語っている。
エゼキエル36:26:「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」
※イエス様の復活により、約束通り主は私たちに聖霊を注いで下さって、鈍い、固い、不従順な心の中の石を取り除いて下さり、神に聞き従うことの出来る柔らかい肉の心を与えて下さった。それも、イエス様の復活によるところからである。
※イエス様の復活によって、その後、私たちの心に聖霊が注がれ、私たちは新しい肉の心を持つ石になった。
(3)私たちの教会の土台の石
イエス様はある時、過越の祭りが近づいて来たのでエルサレムに上った。そして宮に入ってみると、そこには祭りのために、牛や羊や鳩を売る商売人や両替商など、商売をする人で溢れかえっていた。それでイエス様は細縄でむちを作って動物たちを宮から追い出し、商売している人々の台をひっくり返して、「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ2:16)と言って、人々を宮から追い出した。所謂、宮清めをした。それを見ていたユダヤ人たちがイエス様に、Ⅴ18:「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」と、問い質した。その言葉にイエス様は次のように答えた。
ヨハネ2:19~21:「イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」
この時イエス様は、御自分の復活によって、御自分の体、つまり、本物の神殿を建てる宣言された。本物の神殿とは、本当に神様が臨在し、聖霊様が宿られる神の教会、私たちのことである。だから、イエス様はペテロにこう言われた。
マタイ16:18:「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
「ペテロ」とは「ペテロス」、小さな石のこと。イエス様はその小さな石であるペテロに向かって、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」と言われた。「この岩」とは、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(V16)と、イエス様への信仰の告白をもたらした啓示の御霊である聖霊様のこと、また、啓示そのものである神のみことばのこと。
※神様は、そのような啓示の御霊の働きによって私たちに信仰を与え、それによってご自身の教会を建てられるのである。私たちもペテロのように、ただの小石に過ぎない、しかし、そんな小石でも、聖霊の働きによって神を信じる信仰の共同体である教会に、神の家に建てられて行くのである。
アブラハムもイサクもヤコブもモーセも、またダビデも、神によって特別に選ばれる何かの資格があったわけではない。しかし、神が一方的にご自分の恵みの選びによって彼らを選び、信仰の民としたのである。
【結論】
私たちもそう、日本のクリスチャンもそうである。どんなに小さな群れ、どんなに少ない数のクリスチャンであっても、私たちは神によって、恵みによって選ばれたペテロのような石です。でもそんな石のような私たちに、神様は信仰による救いの恵みを下さった。だから、この方の恵みの中を、選びの中を、救いの中を歩んで行こう。
特に私たちBCFは、神の啓示の御霊の働きによって、「人手によらずに切り出された一つの石」(ダニエル2:34)とされた者。そして、その神の啓示の御言葉によるならば、私たちはやがてこの世を支配する権威、悪魔サタンの力を打ち破り、「大きな山となって全土に満ちる」教会、キリストの体、神の国になるのである。ハデスの門もそれには打ち勝つことは出来ないと言うのである。ハレルヤ!
―祈り―