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2026.11. 1 主日礼拝メッセージ

【タイトル】

召しにふさわしい歩み(8)「一つとされること」

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【聖書個所】

エペソ4:1~4:「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。4:2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、4:3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。4:4からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。」

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【前置】

 この4章を読むと、特に前半のV1からV13には、「一つ」という言葉や、「一致」という言葉が何度も出て来る。「一つ」という言葉では、Ⅴ4に「からだは一つ」、「御霊は一つ」、「召しのもたらした望みが一つ」という風に3ヶ所、Ⅴ5では「主は一つ」、「信仰は一つ」、「バプテスマは一つ」の3つ。V6では「父なる神は一つ」の一つ。計7回。「一致」という言葉では、Ⅴ3の「御霊の一致」の一つ、Ⅴ13:「信仰の一致」、「神の御子に関する知識の一致」の2ヶ所。計3か所。これだけ何回も語られているように、「一つになること」、「一致すること」に焦点が当てられている。問題は、何に対して一つになるように、何に対して一致するようにとこの箇所は語っているかということ。今日はそのことについて、メッセージを語る。

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【本論】

 パウロはV1で、「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」と言っている。

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 「召し」には、「召す人」と「召される人」の2者がいる。片方だけでは「召し」は成立しない。「召し」は「Calling」、つまり呼ぶことですが、例えば、私が家で、妻が出掛けていていないのを分かっているのに、妻の名前をどんなに大きな声で呼んでも、応答はないので、それは成立しない。それはただの独り言のようなものである。だから、「召し」というのは、このように必ず「召す人」と「召される人」の2者がいて、そして応答できる関係にあるということが重要である。それはちょうど「信仰」にも似ていて、信仰は「信じる人」と「信じられる人」、私たちにとってはそれは神だが、その神に対して、私たちは「信じる人」として、神に対して応答することがなければ、「信じる、信じる。」と言っても、それは「信じていない。」のと同じことである。

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 そのように、「召し」も、「召す人」と「召される人」との関係において、「召す人」である神に対して、その「召し」に応答して歩まなければ、「召し」にふさわしく歩んでいることにはならないのである。

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※今日の箇所で、その「ふさわしい歩み」を表わすための鍵の言葉が、「一つ」であり、「一致」という言葉です。何故なら、「ふさわしい歩み」の「ふさわしい」という言葉自体に、「一致」或いは「一つになる、一つとされる」という意味が含まれているからです。V1の「ふさわしい」は、原語ギリシャ語では、「アキシオス」という言葉で、「同じ重さ、同じ価値、つり合いが取れている」という意味のあり、だから、Ⅴ1は言い換えるなら、「…。召されたあなたがたは、その召しに同じように、つり合いをとって、一致して、一つになって歩みなさい。」となる。

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 そのためにパウロは、Ⅴ2~V3:「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、4:3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」と、具体的な勧めをしているが、今日は、「どうすれば一つになるのか?」についてのメッセージではなく、「一つになるとは、何に対して一つとなるのか?」ということのメッセージなので、この箇所は飛ばし、次に行く。次の箇所に、その答えが記されている。

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V4:「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。」

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 聖書はこう言う。「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。」と。特に後半では、「あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。」と言っているが、これは何を言っているのか?―それは、「私たちが召された時、私たちを召して下さった神にはある望みがあって、その望みが一つであったのと同じである。」と言っているのです。

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※「望み」とは、神が私たちに対して抱いている望み、希望、計画、ヴィジョン、目的のことであって、神は私たちに、「こうなって欲しい。」或いは、神は「私はこうする。」と言うように、ある望みをもって、計画をもって、目的をもって、私たちを召して下さったと言うのです。では、その望みとは何か?―それが、このエペソの4章で、Ⅴ4:「からだは一つ、御霊は一つです。」、Ⅴ5:「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」、Ⅴ6:「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」と、私たちは召されて一つのからだ、ひとつの教会、一つのキリストの体にされるということ。そして、そこには「キリストの賜物の量りに従って」、さまざまな働きがあるが、Ⅴ13:「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあるように、最後には、私たちは「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」とあるように、神は私たちを、限りなくキリストの姿へと造り変えて行くという、そのような望み、計画、目的が神にはあるということです。それが「召しのもたらした望み」なのである。

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 パウロは、この望みについて、コロサイ1:3~6で、私たちの神に対する信仰、また互いの間における愛、そして、福音を宣べ伝えることの大切さを語る中で語っている。つまり、何故私たちは神を信じるのか、何故私たちは互いに愛し合うのかということを含めて、どうして福音は語られなければならないのか?ということを語っている。

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コロサイ1:3~6:「私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。1:4それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。1:5それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。1:6この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」

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 ここに、私たちが福音宣教をする目的がある。福音の中には、神が私たちを救い、贖い、召して下さって、私たちをどのような者に造り変えたいと望んでいるのか、ということが含まれているからです。

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【結論】

 世界は、神を信じたり、互いに愛し合ったりということから遠く離れている。むしろ、真逆の世界となっている。多くの人が神ではないものを神と信じ、互いに愛し合うよりも、自己愛、自分中心の中にある。それはキリストのからだ、教会、私たちの信仰からは遠く離れているものである。私たちもかつてはそうだった。しかし、そのような私たちを、神は一つとなることが出来るようにと、望みをもって救い、贖い、召してくださったのである。だから、私たちもその召しに相応しく、その召しに一致して、歩んで行こう。そうすれば、私たちは主の御計画、望み、ヴィジョンの中に歩み、豊かに実を結んで行くことが出来るのである。

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―祈り―

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<考えてみよう>

1.次の聖句の(   )に、適切なみことばを入れてみよう。

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 「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しに(       )歩みなさい。・・・。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした(   )が一つであったのと同じです。」(エペソ4:1~4)

 

2.神はどのような望みを持って私たちを召してくださったか、と聖書は言っているか?それに対して、

 自分は今どうであるかを考えてみよう。

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(1)神はどのような望みを持って私たちを召してくださったか?

 

 

 

(2)それに対して、今の自分はどうだろうか?

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