キリスト教会
2026. 7.19 主日礼拝メッセージ
【タイトル】
エペソ(16)「キリストの教え④―愛のうちに歩みなさい。―
【聖書個所】
エペソ5:1~2:「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。5:2また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」
【序論】
今日の箇所は、エペソ4:17から始まった「キリストの教えに生きる」の延長線の箇所だが、これまでのように具体的な行ないに触れて語られてはいない。そうではなく、前回のV30「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」と同様、何故その教えがあるかという土台になっている、神との関係の中で語られている箇所である。
キリスト教は宗教Religionではなく、関係Relationshipであるということの中で語られている重要な箇所です。では、どういう関係だと言っているか?―それが今日のポイントであり、テーマです。
【本論】
聖書は、V1:「ですから、愛されている子どもらしく、」とあるように、私たちは神によって愛されている神の子どもであることを明確に語っている。「神の子どもである」というだけでもすごいことなのに、「私たちは神によって愛されている」という関係の中での「神の子どもである」と言うのである。このことは非常に重要なことである。
本来犯罪は年齢には余り関係ないが、少年が社会的問題を起こすと、例えば、凶悪事件などを起こすと、ワイドショーなどで取り上げられ、その中で、少年の家庭事情などに触れ、親の愛が不十分だったために犯罪を犯したかのように論じられることがある。人は誰にでも愛が必要だからである。しかし、同じ家庭で同じように親から愛を受けていても、ある兄弟は問題を起こし、ある兄弟は問題を起こさないことがある。それがよく分かるのが放蕩息子の譬え話です。
ルカ15:11~32:「またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。15:12弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。15:13それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。15:14何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。15:15それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。15:16彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。15:17しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。15:18立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。15:19もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』15:20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。15:21息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』15:22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。15:23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。15:24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。15:25ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。15:26それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、15:27しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』15:28すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。15:29 かし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』15:31父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。15:32だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
イエス様がこの譬え話をした理由は、「この人は、罪人たちを受け入れて、食事まで一緒にする。」(V1)と、イエス様に呟いたパリサイ人や律法学者たちに対し、「神の愛とはどういうものであるか」ということを教えるため、また、「その愛を知って、その愛に倣って生きること」を教えるためだった。
「神の愛がどういうものであるか」については、放蕩し尽くし続けた結果、我に返り、家に帰ろうと、家に向かい始めた弟に向けられた父親の姿と言葉にそれが描かれていた。(V20~V24)それは、「神の変わらない無条件の愛」です。もう一つの、「その愛を知り、その愛に倣って生きること」については、弟が家に戻り、父親が祝宴を設けている所に帰って来ても、その祝宴に加わろうとしないで腹を立てている兄に対して語った父親の言葉の中に示されていた。言葉の中というより、言外にである。その言外の言葉とは、「お前はいつも私と一緒にいて、私のすることをいつも見、私が語ることをいつも聞いて、私の愛がどういう愛であるのかを知っているはずなのに、どうして私の愛を知らなかったのか。」という、彼に対する父の心の言葉である。その言外の言葉は、父親の兄に対するⅤ31~V32に表れている。
Ⅴ31~V32:「父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部のものだ。15:32だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
だから、「仮に兄のお前が弟のようなことをしても、私は同じようにするよ。」ということ。これが神の無条件の愛です。しかし、兄はそれを知らなかった。また、パリサイ人や律法学者たちも知らなかった。だから彼らに教えるために語られたのである。
※聖書は、先ず私たちがその神の愛を知り、その「神にならう者になりなさい。」と教えている。神と同じ心、神と同じ性質、神と同じⅮNAを持った神の子どものように、神にならう者、神に従う者になりなさいと教えている。また、V2:「愛のうちに歩みなさい。」と教えている。何故なら、神は愛だからです。(Ⅰヨハネ4:8)
※「愛のうちに歩みなさい。」ということは、「神のうちに歩みなさい。」と同じこと。V1の「神にならう者となりなさい。」と同じことです。
私たちのクリスチャン生活は、観念的なもの、また知的なものでもない。勿論そういう部分もあるが、「生活」という言葉にあるように、それは生きること、歩むことです。だから、そこには必ず「しるし」、「現われ」、「証し」が伴う。聖書は、その「しるし」、「現われ」、「証し」というのは、私たちに対する「神の愛のしるし」、「神の愛の現われ」、「神の愛の証し」と言う。それが今日の個所が語っていること。
V2:「また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」
キリストの「神へのささげ物」、「供え物」、「香ばしいかおり」が、神の私たちのための「愛のしるし」、「愛の現われ」、「愛の証し」なのです。イエス・キリストは私たちを愛し、無条件の神の愛をもって、「私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」
ここに、神の愛が現わされている。しるしとなり、証しとされている。
Ⅰヨハネ4:10:「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
と言う通りである。イエス・キリストの贖いの死、神に対する宥めの供え物としての十字架の上での死は、私たちに対する「神の愛のしるし」、「神の愛の現われ」、「神の愛の証し」である。アーメン!
【結論】
私たちはそれを知ったので、イエス・キリストを信じ、神の子どもとされた。神に愛されている子どもとなった。だから私たちも、私たちの父である神にならい、神の愛のうちを歩んで行こう。あの放蕩息子の兄のようではなく、またパリサイ人や律法学者たちのようにでもなく、無条件の愛をもって、喜んで兄姉、また人々を愛して行こう。
Ⅰヨハネ4:11~13:「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。4:12いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。4:13神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」
私たちは、私たちのうちに御霊により、互いに愛し合うことが出来る。それは、今日のみことばに「キリストもあなたがたを愛し」とあったように、キリストはキリストの御霊である聖霊によって私たちを愛された。だから私たちも、内なる御霊により、互いに愛し合うことが出来るのである。それが、私たちの愛のしるしであり、現われであり、証しである。アーメン!
―祈り―