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​今週(2024.11.11)の礼拝メッセージ

【聖書個所】

黙示録9:1~12

【タイトル】

黙示録(19)「第5のラッパのさばき―それでも悔い改めない人々―」

【導入】

 黙示録9章から、「第五のラッパのさばき」としてメッセージを語る。聖書を開く前に今日のメッセージの結論になるが、黙示録9章には、第五のラッパと第六のラッパが吹き鳴らされた後の地上での神のさばきが記されている。ここで今日私たちが結論として神から受け取ることが出来るメッセージは、ただそれらの裁き、災いの有様がどうであるかということだけでなく、そのような裁きがあるにも拘わらず、依然として悔い改めようとしない人がいるということを知ることです。

V20~V21:「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。」

 ここから私たちは神からのメッセージを受け取らなければならない。そのことを心に留め、みことばを開いて行きたい。今日は第五のラッパの箇所だけを読み、第六のラッパのことは次回にする。

【聖書個所】

V1~V12:「第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。また女の髪のような毛があり、歯は、獅子の歯のようであった。また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力があった。彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。」

【本論】

 第五の御使いがラッパを吹き鳴らしたら、ヨハネは「一つの星が天から地上に落ちるのを見た。」と言う。「一つの星」とは、「天から地上に落ちた」とあるので、天からの御使いのこと。黙示録ではしばしば「御使い」のことを「星」という。黙示1:20:「わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。」とイエス様が言われたように。

 そしてその星には「底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。」と言う。この「底知れぬ穴」とは、Ⅴ11:「彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。」というように、「破壊者」を意味する「アバドン」とか「アポリュオン」という者が王として居た。ある人は、これはサタンだと言うが、別の人はそうではなく、ただサタンのような者だと言う。いずれにしろ、この破壊者は「底知れぬ所」、Ⅴ1やV2の「底知れぬ穴」に王として君臨している者である。そこから、先ほど読んだように、いなごのような異様な生き物が出て来た。この「底知れぬ所」、「底知れぬ穴」とは何だろう?―そこは悪霊の巣窟である。

イザヤ14:12~15:「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」

 この「底知れぬ所」、「底知れぬ穴」とは、サタンと共に天から追い出された悪霊たちが落ちた穴である。サタンや悪霊たちは天で罪を犯した後、彼らは天から追い出され、ある悪霊たちは「空中の支配者」(エペソ2:2)として、ある悪霊たちは地上で、またある悪霊たちは「底知れぬ所」、「底知れぬ穴」に落とされたのである。だから、ある時イエス様がゲラサ人の地に行き、そこでレギオン、6,000の悪霊に憑かれた男から悪霊たちを追い出そうとした時、悪霊たちはイエス様に、ルカ8:31:「…、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。」それは、そこに落ちると、ずっとそこに居なくてはならないから。悪霊たちにもいろんなレベルがあるようだ。

 黙示録に戻るが、その穴が開かれると、Ⅴ2以降に記されていたように、いなごのような、しかし、いなごではなく、Ⅴ7~V10:「そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。また女の髪のような毛があり、歯は、獅子の歯のようであった。また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力があった。」とあるような、何か異様な生き物、もしかすると、それは生き物ではなく、今日で言うと、何か精巧なロボットのようなものかもしれないが、それらが、Ⅴ4:「そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。」とあるように、神のさばきのために、災いを与える働きをしたのである。その災いは、Ⅴ5b~V6:「その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。9:6その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。」というように、非常に耐えがたい苦しみであった。それも「死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。」というほどの苦しみだった。人は苦しみに遭うと、いっそのこと死んでしまいたいと思うが、それが出来ない苦しみだから、どれほどつらい苦しみであろうか!

 しかし、その裁き、災いも限定的であって、Ⅴ5a:「しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。」というものであった。確かに神は主権をもって、ご自分の計画のために、裁きのために御使いを遣わし、裁きのために異様な者、場合によっては悪魔(ヨブ1:12、2:6)や悪い者(箴言16:4)さえも用いるが、それは「殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された」という限定的なものであった。これが、第五のラッパが吹かれたことによって起きた神の裁きであり、災いである。

※神は、確かに私たちの目には「どうして」というようなことを為されるが、そこには神の御計画があり、またそれは限定的なものであることを知ろう!

 今日は残りの時間、初めに言ったように、このような災いが起きたにも拘わらず、まだそこには悔い改めようとしない者がいたということ。そこからのメッセージを語りたい。

 先ほど、サタンや悪霊たちは神に背いて罪を犯した後、天から追放され、地に落とされ、ある者は「穴の底」に落とされたと言った。ユダヤ人たちも、人は死ぬと「穴の底」のような、「よみ」、「墓」、「地の中」を意味する(ヘ)「シェオル」、(ギ)「ハデス」に行くと考えた。そして、罪を犯した者たちは「ゲヘナ」、永遠に苦しみの火が燃えている地獄に行くと考えた。

 ある時イエス様は、自分は正しいので、死んだらゲヘナになど行くことないと高を括って考えていたパリサイ人たちに、悔い改めに関連するある譬え話を離された。

ルカ16:19~26:「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」

 金持ちは、「ハデス」(墓の中)でゲヘナにいるような苦しみにあっていた。しかしラザロは、Ⅴ25d:「…。しかし、今ここで彼は慰められ、…。」。とあるように、「ここ」とは「ハデス」であって、またそこは同時に「アブラハムのふところ」であって、そこで慰められ、平安であった。ちょうどそこは、イエス様が一緒に十字架に架かっていた二人の強盗の内の一人に、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と言ったパラダイスでもあった。

 人は死ぬと、「ハデス」=「墓の中、地の中、地の深い所」に行くが、そこでは二手に分かれるようだ。一つは、あの金持ちが炎で苦しんでいたようなゲヘナのような所と、もう一つは、ラザロとアブラハムがいた、苦しみのないパラダイスのような所。でも、ユダヤ人たちは、またイエス様も、その二つの場所を一語で「ハデス」と言ったようだ。何故なら、イエス様も死んだあと、いきなり天に行ったわけではなく、「ハデス」、「墓の中」、「よみ」に下ったのだから。けれども、そこで、イエス様はその強盗とパラダイスにいた。「ハデス」、つまり「墓の中、地の中」は、義人も死んでよみがえるまで中間的に居る所。そして、イエス様が再臨される時、私たちはそこから、墓の中からよみがえるのである。

※では、人は死んだら、「ハデス」に行っても、ゲヘナのような所とパラダイスのような所に行くか行かないかを決める点は何か?その違いは何か?―それが今日のメッセージのポイント。それは、自分の今の状態で良しとせず、悔い改めて、神に頼り、神の国と神の義を求めるかどうかの違いである。神を求めるか、神の義、神が与えて下さる良いものを求めるかどうかの違いである。だから、イエス様はこの譬え話をする前に、「悔い改め」の大切さを語った。

ルカ16:14~16:「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。」

 自分を正しいとせず、良しとせず、もっと神に頼り、求めることの大切さ、それを知る者は、Ⅴ16:「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。」というような生き方をする。

 このラザロもそのような生き方をしていた。彼は、Ⅴ21:「金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。」「金持ちの食卓」=神の御国の食卓を求めた。犬までも、その食卓に預かろうとしているかのように、ラザロのおできをなめていた。しかし、この金持ちは、神の国にいるような生活をしていながら、それに気付かず、それに飢え渇かず、感謝もなく生きていた。だから、死んでゲヘナのような所に行ったのである。だから、悔い改めなければ、神を求めなければ、次のようになるとイエス様は譬え話の結論の中で金持ちに話した。

V27~V31:「彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

【結論】

 第五のラッパが吹いて、このような災いが起こっても、それでも悔い改めない人がいるという。神がそのことをここに書き残しているのは、私たちはそうなってはならないことを教えているからである。あの金持ちのようになってはならないのである。そうではなく、あのラザロのように、金持ちの食卓から落ちるものでさえも求めるように、神の国とその義に飢え渇いて、第一に求めて行かなければならないのである。それが、この箇所で、神が私たちに知らせようとするメッセージである。

―祈り―

 

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