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2026. 3. 1. 礼拝メッセージ

【タイトル】

召しに相応しい歩み(1)

【聖書個所】

ルカ5:1~11:「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、5:2岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。5:3イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。5:4話が終わると、シモンに、『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。』と言われた。5:5するとシモンが答えて言った。『先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。』5:6そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。5:7そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。5:8これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』と言った。5:9それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。5:10シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。『こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。』5:11彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。」

【序論】

 今月からは暫く少し観点を変え、イエス様が弟子たちを召した時の聖書箇所から、神が私たちに求めておられる「召しに相応しい歩み」について学ぶ。今日はその1回目。

 この箇所は、イエス様がシモンと呼ばれるペテロ、ペテロというのはギリシャ語で石塊という意味の言葉で、イエス様がマタイ16章で、「…。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。…。」(V18)と言ったその時のペテロの名前のこと。しかし、彼の本名はヘブル語でシメオン、ギリシャ語で言うとシモンとなる。いずれにしろ、この箇所は、そのペテロと、彼の漁師仲間であるヤコブとヨハネがイエス様に弟子として召されたことが記されている箇所。そして、この召されたことが記されているこの箇所の興味深い点は、マタイやマルコの福音書にも、同じように彼らがイエス様によって、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」という召命の言葉によって召されている点と全く違っているということである。

 何が違っているのか?―それは、マタイやマルコの福音書では、イエス様が彼らに出会い、彼らにいきなり「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と呼び掛けているのに対し、ルカの福音書では、イエス様は先ずペテロの舟に乗り、ペテロに陸から少し漕ぎ出すように頼み、そしてイエス様はその舟に座り、舟から群集に向かって神の言葉を語り、語り終わってからイエス様がペテロに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」(V4)と言われた点です。この点が非常に興味深い点、重要な点です。何故イエス様はマタイやマルコの福音書でのように、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と言わず、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と初めに言われたのか?―そこに、今日私たちが学ぶ「召しに相応しい歩み」の重要な点がある。では本論に入る。

【本論】

 何故イエス様はペテロたちに、「わたしについて来なさい。」と初めに言わず、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われたか?―それは、ここに私たちが召された者として知らなければならない重要なことがあるからです。それを教えるために、「わたしについて来なさい。」と初めに言わず、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われたのです。ペテロは、イエス様から、そう言われた時、どうした?―彼は、Ⅴ5:「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言った。彼はガリラヤ湖のプロの漁師です。しかし、プロでも何も獲れない時がある。だから彼は諦めて、網を洗っていた。でも、そこにイエス様がやって来て、陸から少し漕ぎ出すようにペテロに頼んだ。ペテロは、もう疲れたから「他の舟に頼んでくれ。」と言うことも出来たけれど、そうしなかった。どうしてか?―自分のしゅうとめが高熱で苦しんでいる時、イエス様によって癒されたので、彼はイエス様に恩義があったからである。(ルカ4:38~39)それだけではなく、彼はイエス様のさまざまなみわざのことを見聞きしていたので、特別な感じをイエス様に持っていたのかもしれない。それで、「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」(Ⅴ5)と言った。そして、そうすると何が起こったのか?

V6~V7:「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。5:7そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。」

 ガリラヤ湖では漁は普通夜行なわれ、ペテロも夜通し働いたのにも拘わらず、昼に沢山の魚が掛かるという出来事が起こった。網が破れそうになり、仲間の舟が来ても、余りの大漁で2艘とも沈みそうになったと言う。つまり奇跡が起こったのである。しかし、そのことが初めにイエス様がペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言った理由、今日のポイントの「召しに相応しい歩み」に関する重要な点ではない。何が重要な点だったのか?―それは、ペテロの変化だった。ペテロが神の召しに相応しく歩むことが出来るための変化だった。もしこの時、ペテロがこの奇跡を体験して、「さすがイエス様、どうぞこれからもずって私と一緒に漁をして下さい。そうすれば、このようにいつでも大漁になるでしょうから。イエス様、お願いします。」と言ったら、どうだろうか?―恐らく、イエス様はペテロを弟子にはしなかっただろう。でも、イエス様は初めからペテロを弟子にすることを決めていたので、ペテロの舟に乗り、この奇跡を見せた。その目的は、ペテロが次にように言うほどに変えられるためだった。ペテロは奇跡を見て、何と言ったか?

V8:「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』と言った。」

 彼は、神でなければ出来ない偉大なみわざを見、神の御前にひれ伏した。これが、イエス様が初めに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた理由である。そして、イエス様は彼に、Ⅴ10c:「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と、言い方はマタイやマルコの福音書の言葉「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」とは違うが、彼らを、人間をとる漁師として召す召命の言葉を語り、彼らは召された者として歩み始めるのである。

Ⅴ11:「彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。」

【結論】

 ペテロやヤコブやヨハネや他のイエス様の弟子たち、また他の多くの人々のように、イエス様に出会い、奇跡やしるしを見ても、また召された者として歩み始めても、途中で歩みを止めてしまう人、離れてしまう人たちがいる。五千人の給食や4千人の給食の奇跡を体験した人たち、らい病を癒してもらった人たち等々、皆そうだった。それは結局、見えるしるしや奇跡に目が奪われ、本質的にその人自身が変えられていなかったからだった。しかし最後には、ペテロのように変えられた人たちは、肉によらず、御霊によって最後まで歩むのである。それが、召された者として、召しに相応しい歩みだからです。

―祈り―

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