キリスト教会
2026. 2. 1. 礼拝メッセージ
【タイトル】
エペソ書(4)「パウロの祈り、私たちの祈り②」
【聖書個所】
エペソ1:19~23
【前置】
前回、エペソ章にはパウロのエペソの兄姉に対する祈りが2つあると言った。一つは1:15~23。二つ目は3:14~21。そして前回は、その一つ目の3つある祈りの内の2つの祈りについて見た。1つは、「神が神御自身を知るための知恵と啓示の御霊を与えて下さるように」という祈り(V17)、2つ目が、「それによって、知恵と啓示の御霊が与えられることによって、心の目がはっきりと見えるようになり、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、私たちの受け継ぐものがどのように栄光に富んでいるものであるかどうかを知ることが出来るように」という祈り(V18)。その二つの祈りであった。今日はその一つ目の祈りの内の3つめの祈りについて語る。それが1:19~23の箇所。
【聖書個所】
エペソ1:19~23:「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。1:20神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、1:21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。1:22また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。1:23教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
【序論】
この箇所の祈りの中心はV19。そこでパウロはエペソの兄姉に対し、「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」と祈っている。この祈りも前回の2つの祈りと並び、当時のエペソの教会の兄姉たちだけではなく、今日の私たちに対しても重要な祈りである。何故なら、私たちはもう「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか」をもう知っているだろうか?恐らく少しは知ってはいるだろうが、多くは知らないと思う。もしかすると、知っているつもりが、殆ど知っていはいないのかもしれない。聖書はこう言う。
Ⅰコリント8:2:「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」
だから知ろう。それが出来ることは何と幸いなことか。今年ももう1ヵ月経った。残りの11ヵ月、神様との交わり、祈りと御言葉との時間を充実させよう!
【本論】
パウロは私たちに、「ご自身の全能の力の働きによって私たち信じる者に働くご自身のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、私たちが知ることができますように」と祈っているという。皆さんは「神を信じる者」か?だとしたら、神は皆さんにそのことを願っている。皆さんは神にそのように願われている、だとしたら皆さんはどうか?当然そうなりたいと願うだろう!だから祈ろう!
パウロは神のすぐれた力について、ここではその3つの偉大さについて語っている。
①キリストのうちに為された神の力の偉大さ。具体的には、キリストの死者の中からの復活と、復活の後に、天の神の右の座に着くことによってキリストに与えられた王の王、主の主としての偉大さです。
V20~V21:「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、1:21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」
この姿を私たちは黙示録の中でも見た。1ヶ所を開いてみる。
黙示録4:8c~11:「『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。』4:9また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、4:10二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。4:11『主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。』」
24人の長老は自分に与えられた救いの冠を主の前に投げ出し、「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」と言った。つまり、「あなたは私たちの王の王、主の主です。」と賛美したのである。それは当然のこと。主は私たちの救いのために天の栄光の座を捨てられたのだから、私たちが冠を主の前に投げ出して、主をほめたたえ、礼拝をささげるのは当然のことである。そして主は、神の右の座に着いただけでなく、そこに贖われた私たちも共に着かせて下さったと言う。
エペソ2:4~6:「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、2:5罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──2:6キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
何ということだろう!だからこそ、尚のこと私たちは主をほめたたえよう。
②教会になされた偉大さ。そのキリストが教会にかしらとして与えられたということ。
V22:「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」
前の所では、「キリストは神の全能の力の働きによって復活し、天に上って神の右の座に座した。」とあった。ここではそのように一切のものがキリストの足の下に従わせられ、キリストはその一切の上に立つ王の王、主の主となったが、そのキリストが教会である私たちのかしらとなったという。これも何と言う偉大なことだろう!―この偉大さを私たちは本当に知らなければならない。何故なら、しばしば教会の中でそうではないかのような言動を見聞きするからです。キリストが私たちのかしらではなく、この世が私たちのかしらであるかのような不信仰な言動を見聞きするからです。しかし聖書ははっきりと言う。マルコ9:23c:「信じる者には、どんなことでもできるのです。」と。
この箇所は、変貌山での出来事の後、ひとりのおしの霊に憑かれた息子を弟子の所に連れて来たが、弟子たちにはおしの霊を追い出すことの出来なかったところの箇所。イエス様は、「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」(Ⅴ22)とイエス様に言った父親に対して「信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言ったのです。これは私たちに対する言葉でもある。だから、神を信じよう。私たちには、すべての支配の上に高く置かれている王の王、主の主であるイエス様が私たちのかしらとして与えられているからです!
③教会(私たち)の内には神が満ち満ち溢れているという偉大さ。
V23:「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
イエス様は私たち教会のかしらであり、私たちはそのからだです。聖書は、私たちのからだには、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」つまり「全知全能なる神が、完全なる、十全なる神が満ちている」と言うのです。これも何という偉大なことだろう!よく私たちは、「聖霊充満」と祈り求めるが、聖書は私たちに明確に語っている。それは、私たちには「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」である神、聖霊なる神、子なる神、父なる神が満ちているということを。
【結論】
神が私たちに、今日私たちが学んだ「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力の偉大さを知ることができますように」と願っているのは、それらのことがこれから起こることではなく、もう既に実現していることだからです。だから神はそのように願い、パウロもそう祈っているのである。これは重要な結論です!もう一度V20~V23に目を留めよう。
V20~V23:「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、1:21すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。1:22また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。1:23教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
すべて過去形、現在完了形で記されている。つまり、すべてもう実現したこと、実現していることなのです。このことを知ろう。そして、その霊的現実の中を信仰によって歩もう!
―祈り―