キリスト教会
今週(2025.10.19)の礼拝メッセージ
【タイトル】
「今日も安息に入っていますか?」
【聖書個所】
ヘブル4:1~10
【聖書個所】
ヘブル4:1~10:「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです。『わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。』と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、『そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。』と言われました。そして、ここでは、『決して彼らをわたしの安息に入らせない。』と言われたのです。こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、神は再びある日を『きょう。』と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。4:9したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」
【序論】
「休息する、安息する」ということは本当に重要です。時々、働き過ぎて倒れたり、体に不調が起きるのはそのため。倒れたり不調がもたらされるのは、働き過ぎの結果だが、またそれは、「働き過ぎているから、少し休め、少し安息しろ。」ということを教えるサインでもある。今日は、この「休息、安息」ということについて聖書から学んで行く。私たちが学ぶ「休息、安息」は、ただの「休息、安息」ではない。神を信じる信仰者として持つべき「休息、安息」です。
今日の聖書個所では、神を信じる信仰者として選ばれた民であるヘブル人、ユダヤ人であったにも関わらず、その「休息、安息」を持ちそこなった人たちを例に挙げ、ヘブル書の記者は、ユダヤ人クリスチャン、ヘブル人クリスチャンに対し、信仰者として「休息、安息」を持つことの重要性を語っている。
V1~V2:「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」
V2の「彼ら」とは誰のこと?―3章からの続きで、それは神によってエジプトから救い出されたにも関わらず、その神を信じることが出来ず、荒野を40年の間彷徨ったイスラエルの民のことである。
ヘブル3:17~19:「神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」
だからヘブル人の記者(以降は短く詰めて、「聖書は」という)、聖書は、Ⅴ1:「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」つまり、神に対する信仰を失わないようにしようではないか、と言っているのです。そうして、「神の安息に入るための約束は残っているのだから」(Ⅴ1)、Ⅴ3a:「信じた私たちは安息に入るのです。」というのです。
【本論】
これからが今日の本題です。では、その私たちが信仰によって入る安息、つまり、神を信じる信仰者として持つべき、或いは持つことの出来る安息とはどんな安息なのか?―ヘブル書の記者は今日の箇所で、二人の人物の名を挙げながら、その安息について語っている。二人の人物とは、ダビデとヨシュアです。
V7~V10:「神は再びある日を『きょう。』と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」
聖書は、Ⅴ8:「もしヨシュアが彼ら(荒野を40年間、その不信仰のゆえに彷徨った民の子供たち、つまりイスラエル人たち)に安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のこと(ヨシュアの世代から約400年後に現れたダビデが、Ⅴ7:「『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』と語られたのです。」(ということを)話されることはなかったでしょう。」と言っている。
つまり聖書は、確かにヨシュアたちは約束の地、安息の地には入ったが、彼らは安息そのものには入ることが出来なかった、安息を持つことは出来なかったと言っているのです。彼らはその後のダビデがこのことを言った時までの400年間も、ダビデがいた時も、イスラエルの民にはこの安息がなかった。だからダビデは、Ⅴ7:「『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』と語られたのです。」と言ったのである。この言葉は、詩篇95:7~11の中の言葉である。
詩篇95:7~11:「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。『彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない。』と。それゆえ、わたしは怒って誓った。『確かに彼らは、わたしの安息に、入れない。』と。」
このようにダビデは、出エジプトを果たした民、ヨシュアと共に安息の地に入った民、その後のダビデがこの言葉を語る400年間の間に現れた民、またダビデの世代のイスラエルの民が持つべき安息について、その安息を持つためには、聖書は、「心をかたくなにしてはならない。」、Ⅴ1の「神を恐れる心」、つまり、真の信仰が無くては、神が「わたしの安息」と呼んでいる「全き安息、完全な安息」を持つことが出来ないというのである。V2:「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」とあるように。
そのため、荒野を40年間彷徨った第一世代の人々は滅んだが、その後の世代の人々はヨシュアによって安息の地に入ることが出来た。しかし、それでも彼らはその地で完全な安息を持つことは出来なかった。ダビデまでの400年間、またダビデの世代でも、ダビデ以降のすべてのイスラエルの民も、信仰者たちも完全な安息、全き安息を持つことが出来なかった。今日でもそうである。
※しかし、だからこそ神はこう言うのである。
V6~V7:「こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、神は再びある日を『きょう。』と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』と語られたのです。」
これが結論です。
【結論】
今日、皆さんは神の安息に入っているか?―鍵は、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」ということです。これは、神に対する全き信仰、完全な信仰のこと。
ヘブル11:1:「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
この信仰は、また「望んでいる事がら」と言うのは、勝手に私たちが望む事がらではなく、神によって与えられる望みです。この信仰は、「もし御声を聞くならば」とあるように、御声を聞くことから生まれる信仰です。
「御声」とは御言葉、生きた神の御言葉。私たちがその御言葉と交わることにより、御声はそこから聞こえて来る。祈りを通し、御言葉を繰り返し繰り返し黙想することを通し、神の御言葉、神の御声は聞こえて来るのである。そうして私たちは神の安息に入ることが出来る。だから、そのようにして、神の安息に入ろう。神の安息を持とう。
次回は、続けてこの箇所からもう少しみことばを掘り起こして、深堀して、「神の安息」そのものについて語る。
―祈り―