キリスト教会
今週(2025. 7.27)の礼拝メッセージ
【聖書個所】
Ⅱコリント10:4~6
【タイトル】
霊的戦い(5)「神への従順という力強い武器」
【聖書個所】
Ⅱコリント10:4~6:「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」
【序論】
今日はこの箇所から、霊的戦いの5回目の学びとして、「神への従順」という力強い霊的武器について学ぶ。パウロはこの箇所をここで書くに当たり、8章と9章で、エルサレムの貧しい聖徒たちへの献金について語り、10章に入ってあることを語り、今日のみことばにつなげている。なので、何故パウロは今日のみことばを、この箇所でこう言っているのかを理解するために、前の箇所で何を語っていたのかを見てみよう。聖書のみことばは、その前後箇所を含めて、その文脈の中で理解しなければならないからである。10:1~3である。
Ⅱコリント10:1~3:「さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です。しかし、私は、あなたがたのところに行くときには、私たちを肉に従って歩んでいるかのように考える人々に対して勇敢にふるまおうと思っているその確信によって、強気にふるまうことがなくて済むように願っています。私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。」
そして今日の箇所につながるのだが、何やら、パウロとコリント教会の間に、ある緊張関係があるのを感じる。それはどうしてか?―それは、コリント教会のある人たちが、「パウロは肉に従って歩んでいて、自分では立派なクリスチャン、キリストにある働き人のように言うが、実はそうではないのだ。」というような、パウロのことやパウロの働きについて誹謗中傷する人たちがいるので、それに対して弁明し、自分の立場、自分の働きを明らかにしようとして書いたのが、この手紙であり、この箇所だからである。どんな誹謗中傷かというと、「パウロが私たちに行なわせているエルサレム教会への献金は、実はエルサレムの教会に送るためのものではなく、自分の働きのため、自分の私腹を肥やすためにやっているのだ」とか、10:10にあるように、「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」と言うように、パウロのことを貶したり、パウロの使徒職についても、それを疑ったり、軽く見たり、ある人たちはパウロの言う言葉を使徒としての言葉として受け取らずに反抗的であったりしていたので、Ⅰコリント9章や15章、またⅡコリント11章、12章の中で、そうではないことの弁明を語っている。
そのように、パウロとコリント教会との間には霊的な緊張関係、霊の戦いの中にあったので、パウロはこの手紙を書き、その中でクリスチャンとしての私たちの戦いの武器とはどういうものであるのかを教えようとされた。これが、このみことばの背景である。では、本題に入ろう。
【本論】
そこでパウロはコリント教会にこう言った。V4:「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」と。
要塞とは、戦いにおいて、敵からの攻撃を防ぎ、自分たちの陣地をしっかりと守るために築かれた頑丈な砦、防衛施設のことだが、霊的戦いにおいては、それは「肉の物ではなく」(V4)とあるように、目に見えない、私たちの霊の世界の中での砦のこと。具体的には、私たちの知性、感情、意志などが働いている脳の世界の中で、私たちを守ろうとする思考のことです。だからパウロは、次のように言った。
V5~V6:「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」
以前、人には社会の中で生きるための3つの基本欲求があると言った。①受容欲求、②安心・安全欲求、③価値・意味欲求の3つである。人はそれが満たされないと、代替品で満足させようとする。代替品で誤魔化す、欺こうとするのである。依存症等はその一つだと言った。しかし、自分を欺くのは依存症の世界のことだけではない、宗教の世界、信仰の世界もそうである。
「何を信じるか?何を神とするか」ということに関しても、人は本当の神を知らないと、自分自身で神を作り、3つの欲求を満たすための砦を作る。安心のための防衛施設を作るのです。「こうすれば大丈夫だ。こうしておけば安心だ。これがあるなんて、我ながら大した者だ。」と、自画自賛するかのように自分の神を作り、自分の砦を作るのである。イエス様の一つの譬え話を見てみよう。
ルカ12:16b~21:「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
この譬え話の中の金持ちの砦は何だったか?何年分もの豊作?その豊作の作物や財産を蓄えておくための新しい大きな倉?―そうではない。そのように考えた考え、思いである。もう一度、彼がどうしたか見てみよう。ルカ12:17~19:「そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』」とあるように、彼の、考え、思い、思考が、彼の神であり、砦であった。
人はこのように、本当の神を知らないと、神ではないものを神とし、砦、要塞とする。だからパウロは、それらの考え、「思弁」や、間違った安心感、「神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」と、私たちが、私たちの内に作りやすい要塞を、私たちが打つ壊すことが出来るようにと、そのための戦いの武器が何であるのかを教えている。それは何か?―それが、「神への従順」です。
パウロはコリント教会との霊的緊張関係、戦いの中で、コリント教会が自分に対して持っている誤解、思い違いを正すために、「強気にふるまうことがなくて済むように願っています。」とあるように、弁明はするけれども、「肉に従って戦う」、向きになって、何が何でも考え方を変えてやろうとか、痛い目に合わせて思い知らせてやろうというようなことをせず、ただすべてを神に委ね、後は神がして下さるという信仰を持って、自分はただ神に従って行こうと選択しているのである。これが、「神の御前で、要塞をも破るほどに力のある」霊的武器なのです。先ほどの譬え話の結論を見ても、そのことが分かる。
ルカ12:22~23:「それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。」似た箇所はマタイ6章にもあったが、この結論は何だったか?
ルカ12:31:「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33:「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」)
※神を第一にする。神に従うということ。神に従順すると言うこと。これが、神が私たちに与えて下さった力強い霊的武器の一つなのです。これは私たちにとって、ただの言葉ではなく、イエス様ご自身もそのことを学び、体験し、そして私たちの良き模範として、私たちの力となり、私たちの助けとなって、私たちの中で働いて下さるのである。
ヘブル5:8~9:「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、(なった。)」
イエス様は、あのゲッセマネの園で、十字架の苦難に会う前に、霊的戦いをされて勝利された。イエス様はその戦いの中で、3度、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)と神に従順されたのです。
【結論】
私たちの戦い、霊的戦いの相手はサタンや悪霊だけではない。私たち自身の中の肉の働き、生まれながらの、罪を持った人間としての考え、思考、感情、意志が、多くの場合、私たちの戦いの敵になる。戦いは思考の中で起こっている。私たちの霊的戦いの戦場は、私たちの心、思考の中なのである。だから、私たちはあの譬え話の中の金持ちのように、何かがあった時「こうしよう。」と、自分の願い、思いを神として、それを第一にするのではなく、要塞にするのではなく、神御自身を、神御自身の思いを私たちの神とし、第一にし、要塞、砦として歩んで行こう。
ダビデはいつもそのように考え、告白して歩んでいた。
詩篇46:1~3、7:「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ」、「万軍の【主】はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ」
―祈り―