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​今週(2025.11.16)の礼拝メッセージ

【タイトル】

霊的戦い(9)「真理を知ることに勝る武器はない」

【聖書個所】

ヨハネ8:31~32:「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」

【前置】

 前回の学びで、霊的戦いは闇と光の戦いであることを学んだ。そして、闇は光に打ち勝たない、つまり、光は闇に勝利する。だから、勝利するためには光を選択し、光の中を歩み続けようということを学んだ。今日も続けて、「霊的戦い」(9)として、霊的戦いにおける勝利の鍵について学んで行きたい。

【本論】

 「ディリーブレッド」(ディボーション誌:11月15日)の「御言葉を歌う」から。

―ジュリーは、日課のデボーションで、御言葉を歌うことにしました。歌っていると、頭でも心でも、そのことを信じ、行うようになったと言います。彼女は、御言葉を声に出して歌うことで、自分の外見に対するコンプレックスに、神の真理の光が当てられることを望んでいました。

 彼女は初めに、雅歌1章5節「エルサレムのおとめたちよ。わたしは黒いけれども愛らしい。」を歌いました。当時の農耕社会の文化では、日焼けした女性を美しいとは言いません。そのせいか、この一節を歌った時、不思議なことが起こりました。彼女は突然、理解したのです。「私は完璧じゃない。でも、神が『愛らしい。』と言ってくださる。」

 雅歌は旧約聖書にある美しい詩で、知恵文学の一つです。御民に対する神の愛を伝える寓話(ぐうわ)だと解釈する人もいますが、夫婦愛を祝う詩だと考える人も多くいます。夫婦の献身の麗しさを目の当たりにすると、「わたしたちもあなたと共に喜び祝います。ぶどう酒にもまさるあなたの愛をたたえます。」(4節)という「おとめたち」に誰もが共感します。

 どちらの解釈をしたとしても、神はご自分の選ばれた民を大いに喜んでおられる、と断言できます。神は、旧約聖書の他の箇所でこうも言われました。「わたしの目にあなたは値高く、貴くわたしはあなたを愛している。」

(イザヤ43:4)。 ―

 「御言葉を歌う」とは、「御言葉を告白する」、「御言葉を口にする」、「御言葉を自分のものにする」ということ。つまり「御言葉を知る」ということです。

※「御言葉を知る」ということには大きな力がある。霊的戦いの勝利のための大きな力がある。何故なら、「御言葉」そのものに力があるから。イエス様もその力を用いて悪魔との戦いに勝利した。「『・・・。』と書いてある。」と言って、3回悪魔を退けた。すると悪魔はイエス様から離れ去って行ったとある。3度目の箇所を見てみよう。

マタイ4:10~11:「イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」

 パウロも、御言葉は霊的戦いにおける力ある武具であり、鋭い剣であると言っている。

エペソ6:17:「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」

ヘブル4:12:「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

 ただ重要なことは、確かに神の言葉は霊的戦いの強力な武具だが、もし私たちがそのことを知らなければ、不十分な武具で戦い続けて、なかなか勝てない戦争をしているようなもの。だからウクライナのゼレンスキー大統領がアメリカにトマホークという強力なミサイルの供与を求めている。戦争の道具を宝と言って良いかどうか分からないが、強力な武具があるのに、それを使わなければ、宝の持ち腐れとなる。だから、私たちの霊的戦いにおいて「御言葉を知る」ということは非常に重要。そうしなければ貴重な宝の持ち腐れとなるのです。

 ディボーションの中のジュリーという女性も、雅歌1:5:「エルサレムのおとめたちよ。わたしは黒いけれども愛らしい。」という御言葉を歌う中で、突然理解したと言う。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)と言う御言葉があるが、彼女は御言葉を歌う中で悟りが与えられた。何を悟ったのか?―それは、神は自分をご自身の民として愛し、喜んでいる。自分は神に愛され、喜ばれているということを知り、自分に対するコンプレックスから自由にされたのです。

※だから、御言葉を知るということは、霊的戦いの大きな力であり、大きな武器なのである。霊的戦いは、ただ悪魔や悪霊と戦うという戦いだけでなく、戦いの相手は自分でもある。御言葉を知らないという自分でもある。そのため、多くのクリスチャンは敵である悪魔や悪霊たちに欺かれ、滅ぼされて倒されている。御言葉を知らないという無知が多くのクリスチャンを殺している。ホセアはこう言う。

ホセア4:6a:「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。」

 だから、御言葉を知ろう。この「知る」ということは頭で理解することではない。知性で理解することではない。御言葉は神の言葉、神の口から出る生きた言葉、神の霊だからです。霊は私たちの心に、私たちの霊の胃袋に入るのです。

ヨハネ6:63:「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」

 なので、御言葉である神の霊のことは、私たちの内なる人、私たちの内なる人の霊でしか知ることは出来ない。パウロはそのことを次のように言っている。

Ⅰコリント2:11~16:「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。いったい、『だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。』ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」

 何か不思議なことを言っているかのように思わないように!これは重要な霊的真理です。この真理を知ると、人は本当に自由になる。目からうろこが落ちて、霊の目が開かれて、真理を知るのです。

 今日の聖書個所に戻るが、イエス様はこう言った。

ヨハネ8:31~32:「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」

 この時、イエス様が語っておられたことを信じたというユダヤ人たちの信仰は、本物の信仰、つまり、目が開かれて、真理を知った信仰ではなかった。そのことは、この後のイエス様との問答の中、また、9章にある「生まれつきの盲人の目を開けられたイエス様のみわざ」に対するパリサイ人の反応に対するイエス様の言葉に見ることが出来る。

ヨハネ9:39~41:「そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」」

※皆さんの目を開いているか?霊的な目は見えているか?今日、私は霊的戦いについて重要なメッセージを語っている。ただ、「今日のメッセージは恵まれました。」と言って聖書を閉じ、日常の生活に戻り、また日曜が来ると、いつもの教会の席に座り、賛美の歌を歌って御言葉を聞いて、「今日も恵まれました。感謝します。」と言って、また日常の生活に戻る。そのようなことのために語っているメッセージではない。同じことを繰り返すために語っているメッセージではない。

※今日の多くの教会、クリスチャンの問題は、御言葉を神のことば、霊、いのちとして本当に信じていないこと、今日の多くの教会、クリスチャンが弱いのは、御言葉を神の言葉として信じて、その御言葉によって生きていないことではないか。「信じている」と言っても、頭で、気分で信じているだけで、魂で、心で、霊で信じていないのです。私たちの信仰の父であるアブラハムはそうではなかった。彼にも、恐れのためにサラを自分の妹だと偽るような弱さはあったが、一人息子であるイサクを神にささげるように言われた時、彼は躊躇することなく、神には息子をよみがえらせることが出来ると信じてささげた。その他、何人もの、御言葉を本当に信じる信仰によって霊的戦いに勝利した人々のことがヘブル11章に記されている。

 パウロは終わりの時代になると困難な時代がやって来ると言う。

Ⅱテモテ3:1~2:「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、…」そして4章に行くと、

Ⅱテモテ4:3~4:「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」

 その結果は、アモスの語った終わりの時代に起きる霊的飢饉です。

アモス8:11~13:「見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、【主】のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。 その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。」

(アマゾン川の干ばつ写真を見て)原因は、森林破壊(伐採)、気候変動、エルニーニョ現象だが、それらの元は、人間の貪欲という罪、無関心、放置という罪。

【結論】

 私たちはこうなってはならない。遅くならないうちに、御言葉に留まり、真理を知り、罪から離れて自由になろう。聖霊充満、信仰充満、御言葉充満、キリスト充満にされて行こう。

―祈り―

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