キリスト教会
2026. 8.16 主日礼拝メッセージ
【タイトル】
エペソ書(18)「教会に対して:主に従うように、互いに従いなさい。」
【聖書個所】
エペソ5:18~33:「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。5:19詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。5:20いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。5:21キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」
【序論】
今日の箇所は前回に続き、「主のみこころは何か?」ということで、その御心について語っているところ。しかし、聖書はすべて「主のみこころとは何か?」についても語っているものであるので、今日の箇所からエペソ6:9までを(エペソ6:10以降は、既に霊的戦いのメッセージの時に済んでいるので、)何度も繰り返して読むと、主の御心として、読む人の心に響いて来るメッセージがある。それは、「主に従うように、互いに従いなさい。」というメッセージです。V19:「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」、V21:「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」、V22:「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」とあるように。
そして、その「互いに」という言葉と、「主に従うように」という言葉がそのままの言葉で出て来なくても、同じ意味をもって、Ⅴ22~V33では、夫と妻との関係の中で、6:1~4では、親と子との関係の中で、6:5~9では、主人と、主人に仕える人、聖書では奴隷となっているが、それは今日的に言うなら、雇う人と雇られている人という関係の中で語られている、「主に従うように、互いに従いなさい。」というメッセージである。このメッセージが、これらの関係の中の共通のメッセージとして語られている。
今日はその4つの関係の初め、教会の兄姉の関係の中での、「主に従うように、互いに従いなさい。」というテーマでメッセージを取り次ぐ。
【本論】
V18:「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」
「放蕩」は、辞書では「酒や女遊びにふけり、しまりがないこと」となっている。しかし、放蕩の対象は酒や女性だけとは限らない。また、女遊びということから、男性に向けた言葉だけとも言い切れない。ルカ15章の放蕩息子の箇所を読んで分かるように、具体的な放蕩の内容については何も書いていない。ただ、「放蕩して、湯水のように財産を使ってしまった。」(V13)としてしかない。もし、当時競馬や競艇、パチンコやカジノなどがあったら、それらに嵌り、持って出て来た財産の分け前を全部使い切っていたかもしれない。そして、そこでは放蕩息子となっているが、放蕩娘であっても良い。酒や不健全な男女関係は、典型的な意味では男性に多いかもしれないが、女性にもないわけではない。
そして、これは今日のメッセージに直接関わるが、放蕩は教会の外のことではなく、教会の中のことでもあるということです。
Ⅰコリント11:17、20~22:「ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。」、「しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。11:21食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。11:22飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。」
パウロはコリントの教会で、本来、聖餐また愛餐のために集まる場所が、またその時間が、そのためにではなく、放蕩のように、自分の欲を満たすためになってしまっていることを嘆き、また戒めている。
初代教会では、「主の晩餐」つまり「聖餐」は「愛餐」と共に行われていた。「聖餐」が「愛餐」であり、「愛餐」が「聖餐」だった。そのためにコリント教会では、「愛餐」また「聖餐」のために集まっても、他の兄姉のことなどを考えずに、我先にとパンを裂いて食べ、杯からぶどう酒を飲んでしまい、酔ってしまっていた人がいたという。パウロは、そのような本来の聖餐が意味するもの―裂かれた御体と流された血潮が意味する主の十字架の愛―など考えもせず、(聖餐式で、「わたしを覚えてこれを行いなさい。」(Ⅰコリント11:24、25)ということはそのこと)我先にと、自分の欲を満たすために「聖餐」、「愛餐」に集まっていた兄姉を戒めたのである。
ところで、このような問題のためか?今のような聖餐式の形式になり、「聖餐」と「愛餐」が分離したのは2世紀半頃である。また何事でも、目に見えないものを目に見える形式にする時、キリスト教における洗礼式や聖餐式などがそうであるが、それが固定化された形式になり、伝統となって行くということがある。この時、もうそのようになりかかっていたのであろうか?
今日の箇所に戻る。エペソの教会にも同様のことがあったのか分からないが、パウロはエペソの兄姉に対し、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」と言った。そして、「御霊に満たされなさい。」と言った。つまり、「放蕩」、自分の欲を満たすために生きるのではなく、そのことにふけるのではなく、「御霊に満たされなさい。」つまり、「神に満たされなさい。神に従いなさい。主に従いなさい。」と言ったのです。
※「御霊に満たされる。」―これが主に従うことです。主に従う時、私たちは御霊に満たされるのです。
車にガソリンを入れることを考えてみよう。車はガソリンが満たされると、ガソリンの持つ力で、ガソリンがもたらす目的、つまり、エンジンが動いて、車を走らせるということが出来る。つまり、車はガソリンに従ったのである。
私たちもそう。私たちは元々は御霊に満たされて、御霊に従って生きる者として造られた。
創世記2:7:「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」
しかし、善悪を知る知識の木から取って食べた結果、自分中心に生きるようになった。神の霊ではなく、自分の善悪、自分の考え、自分に従って生きることが出来なくなってしまった。しかし、神はそのような私たちを、御子イエス・キリストの十字架の贖いによって救って下さった。それは、自分中心にではなく、御霊に満たされて、御霊に従って生きるためです。だから、
V19:「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」
「詩」とは、(ギ)プサルモイス。詩篇のことである。ここから、(英)Psalmが生まれた。ユダヤ人は詩篇をよく歌った。初代教会も同じ。そして「賛美」とは、(ギ)ヒュームノスで、讃美歌のことで、(英)Hymnの源である。今日も多くのワーシップが作られているように、当時も賛美のための歌が作られていた。「霊の歌」とは、讃美歌、聖歌、ワーシップソングのように、歌詞のある歌もあれば、歌詞のない、御霊に自由に導かれて歌う歌のことである。
それらの歌をもって、「互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」と言う。これは贖われた者としては相応しいことである。
「互いに語り」については、Ⅴ21の「互いに従いなさい。」と関連させて、結論で語る。
V20:「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」
これも、贖われた者として、このようにすることは相応しいこと。
V21:「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」
「キリストを恐れ尊んで」というのは、キリストを私たちの救い主として認めて、恐れ敬うということ。その結果として、「主に従う」ということでもある。盲目的にではなく、いやいやながらでもなく、強いられてでもなく、キリストを私たちの救い主として認め、感謝し、崇め、愛して従うということである。自主的に、喜んで従うということである。
【結論】
だから聖書は、「主に従うように、互いに従いなさい。」と言う。それは、盲目的にでもなく、いやいやながらでもなく、喜んで従うということです。
「従う」という言葉にはネガティブなイメージがある。従属させられる、言いなりになる、自由意思がないというイメージがある。しかし、聖書が「互いに従いなさい。」という時、それは「互いのために役に立つ、互いの益になるように仕える。相手のために自分の時間を、手足を、持っているものを捧げる。」ということなのである。つまり、教会の中で、お互いがお互いにとって必要な存在として、自分に与えられているものをもって、自主的に、喜んでささげる、仕えるということである。
※これが、「主に従うように、互いに従いなさい。」ということ。誰かの、何かのいいなりになるということではない。だからパウロは次のように言った。
ガラテヤ5:13:「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」
これが、教会の兄姉間において、「主に従うように、互いに従いなさい。」ということ。祈ろう!
―祈り―