2026. 5.31. 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- 6月7日
- 読了時間: 8分
【タイトル】
霊的戦い(15)「御霊によって祈りなさい。」
【聖書個所】
エペソ6:18~20:「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。6:19また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。6:20私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」
【序論】
パウロは、「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」と命じている。「すべての祈りと願い」とは、文字通り「すべての祈りと願い」であって、英語での「All kinds of prayers and requests」である。つまり、内容においても、祈り方においても、私たちが神に祈る時、神に願う時、いろいろな状況でのさまざまな祈り、願いがあるということである。
杉戸では月1回、地域牧師会を持ち回りで行なっている。杉戸教会に一番近い、埼玉県で最初に出来た和戸教会(今年で設立148年)で行なう時は、初めに必ず黙とうをする。それは牧師の佐藤進師の進め方。また、毎月または2カ月に一度行っている東京リバイバルの委員会では、祈る時には一斉に自由に、ある牧師は異言で祈る。そのように、祈りの内容、嘆願の内容、祈りの仕方、嘆願のやり方にはさまざまあるが、パウロはそれらがどんなものであっても、それらを用いて、「どんなときにも御霊によって祈りなさい。」と命じている。
今日はこの、「どんなときにも御霊によって祈りなさい。」を今日のポイントとして語る。
【本論】
どうしてパウロは、「どんなときにも御霊によって祈りなさい。」と命じているのか?それは、どんな時でも御霊によって祈るなら、その祈りも願いも神に聞かれ、実現するからです。
ローマ8:27:「人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」
「人間の心を探り窮める方」とは、父、御子、聖霊なる神のこと。その神が、「御霊」である私たちの内におられる聖霊なる神の思いを、当然のことながら知っているので、私たちの内に神のみこころを示し、それを願い、祈り求めさせて下さって、御自身の願い、祈り、みここを実現されるということ。それが、「聖徒のためにとりなしをしてくださる」ということです。いくら私たちが聖徒であっても、神のみこころでない限り、何でもかんでも神が聞いて実現して下さるということではない。
Ⅰヨハネ5:14:「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」
だから、神は私たちの内に聖霊を住まわせ、私たちの内に御自身の思い、みこころを示し、それを私たちの祈りに変えられ、実現に至らせて下さるのです。神が私たちの心に働いて、御自身のみこころを実現されるというのである。何と幸いなことか!
今日、私たちは霊的戦いにおける武具としての祈りについて学んでいるが、その武具としての祈りが、もう既に私たちの内におられる御霊なる神によって与えられていると言うこと、その祈りが為されるということは何と幸いなことではないだろうか!
しかし、パウロはそのために3つのことを、私たちに命じている。
(1)「絶えず目をさましている」ということ。
V18b:「…。そのためには絶えず目をさましていて、…。」
「目を覚ましていて」:(ギ)「アグループネオ」。この同じ言葉は、ルカ21:36、またヘブル13:17で、次のように使われている。
ルカ21:36:「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」
ヘブル13:17a、b:「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。…。」
「アグループネオ」が、ルカ21:36では「油断せず」という意味で、ヘブル13:17では「見張る」という意味で使われている。だから、「そのためには絶えず目をさましていて」というのは、「ただ目を覚ましている」というだけでなく、「見張っている、警戒している」という、もっと能動的な状態を指している。ちょうど人間のセンサーの役割をしている抹消神経がきちんと働き、その神経からの伝達により、それが何であるかを認識し、それに応じた命令を中枢神経が下すことが出来るようにである。
私たちがクリスチャンになると、敵である悪魔サタンともろもろの悪霊たちは、いろいろな方法で私たちに戦いを挑んで来るので、私たちはその戦いにおいて、敵の動きを監視し、油断せずに見張っていなければならない。それを怠ったために、戦場から消えて行ってしまった働き人がいる。私たちはそうならないように警戒しなければならない。
(2)「忍耐の限りを尽くし、また祈る」ということ。
V18b:「…、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。…。」
決して諦めないで、粘り強く祈り続けるということ。何故なら、私たちの祈り、願いは、御霊によって与えられた神のみこころだから、それは必ず実現するからである。霊の戦いにおいては、私たちは必ず勝利を得るからである。
ヤコブ4:7:「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」
私たちは諦めないで、最後まで祈り続けるなら、「祈り」というのは、「神に繋がること」。だから、祈り続けるなら、神に従い続けるなら、敵である悪魔サタンや悪霊たちは逃げ去って行く。立ち去って行くのである。
(3)「福音宣教のために祈る」ということ。
V19~V20:「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。6:20私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」
パウロは、前の節V18で、「すべての聖徒のために、…、祈りなさい。」と言っているが、また、「私のためにも祈ってください。」と言っている。その理由は、パウロが語ることにより、福音の奥義が人々に知らされることになるからである。そのために祈って下さいと言っている。これはパウロ個人の願い、思いというより、神の願い、思いである。だから、パウロはそれが成るように、神のみこころが実現するように祈ってくださいと嘆願しているのです。
私たちもそのために祈ろう。そして、この福音の奥義が明らかにされるために、私たちが祈る祈りとして重要なことが一つある。それを語り、今日のメッセージの終わりにする。それは、福音宣教のための祈りは、ただ神に嘆願するだけの祈りではなく、敵に対して命じる祈りでもあるということ。
マタイ12:22~29:「そのとき、悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。12:23群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」12:24これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」12:25イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。12:26もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。12:27また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。2:28しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。12:29強い人の家に入って家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。」
これはイエス様による、悪霊に憑かれて目も見えず、口もきけなくなっていた人の解放の働きによって示された霊的戦いにおける勝利の出来事の一つ。イエス様の為されたみわざに対し、パリサイ人たちは、「それは悪霊のかしらベルゼブルの力による働きだ。」と言った。それに対してイエス様は、もしそうであれば、悪霊の内輪もめのために、悪魔サタンの国は立ち行かなくなる。だからそうではなく、これは神の力による働きであるとイエス様は福音の奥義を、悪霊解放というみわざによって示された。
イエス様は私たちに、「御国が来まるように、みこころが天で行われるように、地でも行われるように」(マタイ6:10)と、祈りなさいと言われた。まさに、このデモンストレーションこそ、その現われである。だから私たちも、イエス様が為されたように、御国が来るために、この世で働いている悪霊たちを縛り、追い出す祈りをする必要があるのである。
アルゼンチンでリバイバルが起きた時、そして今日でもそうであるが、カルロス・アナコンディア師の伝道団体の働きはまさにその働きである。
【結論】
今日、私たちは午後、南越・新越で路傍伝道をする。そこに居る、そこを通る人たちの救い、癒し、解放は神のみこころです。私たちの内におられる聖霊様の願い、みこころです。だから、そのために祈ろう!―そして出て行って、福音の奥義を大胆に知らせよう!これこそ、教会のDNAであり、これからの1年、5年、10年、いや、イエス様の再臨まで私たちが祈る祈りである。
―祈り―
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