2026. 5.24. 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- 5月31日
- 読了時間: 7分
【タイトル】
「神の賜物を、再び燃え立たせてください。」
【聖書個所】
Ⅱテモテ1:6~7:「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。1:7神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」
【序論】
ペンテコステ礼拝というと、私もして来たが、多くの教会では聖霊のバプテスマを受けることが出来るようにと、按手の有無に関わらず聖霊の恵みが注がれるための祈りをする。しかし、私は今日はそのための祈りはしない。何故なら、そのような祈りはもう十分して来たので、もう皆さんはペンテコステの恵みである聖霊の恵みを十分に受けていると信じるからです。
イエス様を信じる者にとって、上から注がれるペンテコステの恵み、聖霊のバプテスマという霊的体験の恵みは1回限りのものである。ちょうど、教会にとってのペンテコストと対比するイスラエルの民にシナイ山の麓で律法が賦与されたというシャブオット(五旬節)で祝う出来事が1度限りであったのと同様です。繰り返し彼らに律法が与えられたわけではない。イエス様を信じる私たちにとっても、同じ人に聖霊降臨という恵みが何度もあるわけではない。しかし、聖書には「御霊に満たされ(続け)なさい。」(エペソ5:18)とあるではないか?―というかもしれない。しかし、それは文字通り、「御霊に満たされていなさい。」であって、「繰り返し聖霊降臨の恵みを受けなさい。」ということではない。それは、一度聖霊降臨の恵みを受けて満たされた人が、その状態で居続けなさいということを言っている。イエス様はそれを、仮庵の祭り(ペンテコステの祭りの次の祭り)の時に、次のように言った。
ヨハネ7:37~38:「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。7:38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」
これを受けてヨハネはこう言った。
ヨハネ7:39:「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」
この後イエス様は十字架に架かって墓に葬られ、復活して天に帰られたが、みことばの通りに10日後、「イエスを信じる者が後になってから受ける御霊」である聖霊の降臨が起こった。だから、一度聖霊の恵みを受けたのなら、それは何度も受ける必要はなく、あとはただ、信じる者の内側で、その満たしが続けられて行けばいいのである。イエス様はそのことを言われた。もう一度みことばを見てみよう。
ヨハネ7:37~38:「…。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。7:38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」
どこから「生ける水の川」、聖霊が「流れ出るようになる。」と言っているか?―「その人の心の奥底」である、満たされた人の内側から溢れ出て、流れ出るようになると言っている。上からではなく、その人の内側から流れ出て来るようになると言うのである。だから、私たちは今日、そのことを求めて祈りたいと思う。そして、今日のみことばも、まさにそのことを教えているのです。
【本論】
V6:「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」
パウロはテモテに、その「神の賜物」について何と言っているか?―確かにパウロが言うように、初めはパウロの按手により、その神の賜物がテモテに与えられた。だからと言って、また「按手を受けて受けなさい。また聖霊が降るのを待って、満たされるのを待ちなさい。」とは言わずに、「再び燃え立たせてください。」と言っている。
「再び燃え立たせてください。」とは、英語で、「To fan the flame of the gift of God」、ギリシャ語で、「アナゾープラ(アナ:再び、ゾー:生きる、プラ:(火) ト(定冠詞) カリスマ(賜物))で、火である神の賜物を新たにもらうのではなく、もう与えられている火をもう一度燃え立たせなさいと言うことです。
聖霊のバプテスマを受けた人は、神の働きをするために、使徒1:8で言う「力」(デュナミス)である神の賜物を受けている。
使徒1:8:「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
この聖霊降臨の出来事は、それから後、次々と新しい人に起こったが、繰り返し同じ人に起こっていない。その必要がないからです。一度上から与えられたら、繰り返し上から受ける必要はないのです。
この点で、今日の教会は、またクリスチャンはサタンに欺かれているかもしれない。「未だ足りないから、未だ受けていないから、私にはそんな力はないから出来ない。」と、神の働きに躊躇する人がいる。それはサタンの欺きである。私たちはもう既に十分受けている。ただ私たちに必要なのは、もう既に与えられている内にある神の賜物を再び燃え立たせることなのである。私たちはこのことを知らなければならない。サタンに欺かれてはならない。この神の賜物について、パウロは何と言っているか?―
Ⅱテモテ1:7:「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」
「おくびょうの霊」とは、私たち人が持っている霊。誰にでもこの霊は持っている。パウロにも、ペテロにも、テモテにもあった。「力と愛と慎みとの霊」とは「神の力、神の愛、神の慎みとの霊」のことで、パウロは、その霊が、聖霊のバプテスマを受けた人には誰にでも与えられているので、その霊を「再び燃え立たせなさい。」と言うのである。
※それは、ちょうど家の中の暖炉や、発電所の炉の中で、為すべき方法で、薪、コークス、石炭を、発電所で言うならば、原油、液化天然ガス(LNG)、ウランという燃料を投入して燃やすようなもの。そのような燃料を健全な方法で炉に投入するなら、家を暖め、発電という益を安全にもたらす。周りに燃えついて、火災や爆発という不利益をもたらすことがない。
※それが、「力と愛と慎みとの霊」という神の賜物を燃え立たせること。またそれは、モーセがシナイ山で見た「火で燃えていたのに、燃えて行かない、焼け尽きて行かない柴」(出エジ3:2)のようなもの。何故なら、その火は「力と愛と慎み」という神の霊だからです。「慎み」というのは、バランスの取れた健全と言う神の本性、力です。「力と愛と健全さ」が働くならば、害ではなく益をもたらすのです。
パウロは、その霊が自分の按手を通してテモテに与えられたと言っている。またパウロはⅠテモテ4:14でも、その賜物が同じように、この時テモテが仕えていたエペソの教会の長老たちによっても与えられているので、それを軽んじないで、それを用いて神の働きをするようにとも言っている。
Ⅰテモテ4:12~16:「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。4:13私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。4:14長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。4:15これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。4:16自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。」
これが「神の賜物」である「力と愛と慎みの霊」である「神の霊」を再び燃え立たせて働く働きなのです。聖会に行って、聖霊の満たしを求めるのもいいでしょう。でもそのようなものは一過性のもので、過ぎ去ると、その熱情、火は消える。大切なことは、みことばの働きによって、御霊の働きによって、祈りによって満たされ続けていること。燃え続けていることです。
【結論】
神は私たち一人ひとりに、神の賜物として、そのような火を私たちの働きの力として与えて下さった。だから、その火を健全に用い、燃え立たせているならば、私たちは自らも成長するし、教会の他の兄姉のための有用な働き人ともなる。それが、神が教会に、また私たちに与えて下さっている「力と愛と慎みの霊」である神の賜物です。この霊を再び燃え立たせよう。
―祈り―
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