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2026. 5.17. 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

  • 9 分前
  • 読了時間: 9分

【タイトル】

エペソ書(12)「愛によって建てられる教会」

【聖書個所】

エペソ4:7~16:「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。4:8そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』4:9─―この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。 4:10この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。──4:11こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。 4:12それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、4:13ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。4:14それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、4:15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。4:16キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

【本論】

V7:「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」

 前回は、神は御自身の召しの目的に従って私たちを召し、ご自身と一つにして下さったということを学んだ。今日の箇所では、「しかし」と言う言葉で始まって、そのことを否定するのではなく、「それだけではなく」という意味で、その一つとなった体を作る私たちひとりひとりに目を転じ、その「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」と言う。「キリストの賜物」とは、Ⅰコリント12章、また、ローマ12:6で言われている「カリスマ」という「賜物」のことではなく、「ドーリア」という「贈り物」のことを言う。キリストは、その分け与えて下さる量りに従って、みこころのままに私たちに贈り物を下さったと言う。では、その贈り物とは何か?というと、それが「恵みを与えられました。」と言う「恵み」のこと。この恵みが、Ⅰコリント12章やローマ12:6で語られている、神がみこころのままに教会に与えた「カリスマ」、「賜物」のことです。その多様な賜物が私たち教会に分け与えられていることが、今日のV8~V11で語られている。

Ⅴ8~V11:「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』4:9─―この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。 4:10この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。──4:11こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」

 V8~V9の箇所は、キリストの十字架と復活、そして昇天のこと。キリストが十字架の贖いのみわざを終え、墓に葬られて黄泉に下り、3日目によみがえられて、40日の間弟子たちの間に現れ、そして天に昇られ、神の右に座されたことを言っている。聖書はそのことにより、主がこの世を支配するサタンの支配とその王国を打ち砕き、それまでサタンの支配下にあった私たちを解放し、解放して下さっただけでなく、サタンがアダムから奪い取っていたこの世の支配権とその能力を、私たちに「賜物:カリスマ」として分与して下さったと言う。それが、V8:「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』」ということ。その具体的賜物が、Ⅴ11:「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」とある、「5役者」の賜物のことです。

 「使徒」としての賜物は、初めにキリストが選ばれた12使徒に与えられた。途中、イスカリオテのユダに与えられていた使徒職は、後にマッテヤに移管されたが、いずれにしても、先ずこの12使徒が教会の土台となって今日の教会が建てられている。そのことは、エペソ2:20で言われていた。

エペソ2:20:「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」

 しかし、この「使徒」職は、初代教会で終わってしまったのではなく、ここに他にも「預言者、伝道者、牧師、教師」という働きがあり、それらが今日でもあるように、今日でも「使徒」職はあるのです。パウロは教会から遣わされ(「使徒」とは「遣わされた者」という意味である)、広くみことばを宣べ伝え、教会を開拓し、御国を受け継がせて行く働きをした。これが使徒の働きであって、それは今日に至るまで継続している。そしてこれら「5役者」の働きは、一部の特別な人に与えられるもののように見えるが、これらの働きは、プロテスタント信仰の核心の一つである「万人祭司職」の考え方があるように、すべてのイエス・キリストを信じる者に与えられているものでもある。

マルコ16:15~20:「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。16:16信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。16:17信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、16:18蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』16:19主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。16:20そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。〕」

 私たちは「信じる人々」であれば、このような働きをする者である。そして、これらの働き以外にも、実際のキリストの体である教会にはさまざまな働きがあるが、それが、V12:「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」の「奉仕」のことである。

 このようにして、キリストの体である教会には「5役者」の働きと共に、さまざまな「奉仕」の働きがある。そして、それらの働きはただ一つのことに向けられている。それは、「私たちキリストのからだである教会が建て上げられること」、「キリストの満ち満ちたみたけにまで達すること」、「かしらなるキリストに達すること」です。

V13~V15:「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。4:14それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、4:15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」

 そのために必要なのが、「信仰の一致」、「神の御子に関する知識の一致」、言い換えるなら、神の召しの目的である、「私たちをキリスト・イエスにあって一つとする」、「キリストと一体化させる」、「キリストの似姿へと造り変える」という神の召しの目的に適(かな)うように歩むということです。

 しかし、霊的戦いの学びにあったように、それを妨げる力がこの世界では働いている。V14の、「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく」とパウロが警告している力が働いている。だから、それらに影響されることなく、みことばにしっかりと立ち、互いに注意し合いながら、励まし、祈り合いながら歩んで行くのである。相互牧会、相互弟子訓練である。ここで弟子訓練について少し触れる。

 韓国には、毎週の礼拝出席者が何万というメガチャーチ(アメリカでは2千人以上とされる)がある。これらの教会や、メガチャーチでなくても多くの教会で弟子訓練が盛んです。しかし、中には福音宣教という名目で、動機が教会員を増やし、教会を大きくすることに極端に傾いた結果、牧師の権威主義という結果に陥って、いろいろな問題を起きた事例がある。本来の弟子訓練は、救われた人が、品性(人格)においても能力(働き)においても、キリストの似姿に造り変えられて行き、成長、成熟を遂げて行くことが目的なのだが、目的や動機が間違うと、キリストにではなく、リーダー、指導者、牧師に従わなければならないというような、牧師の似姿になるような誤った弟子訓練になりがちである。しかし、 一方で聖書は、今日的な言い方で言うなら、「信徒」と呼ばれている教会員は、教会の教師やリーダーに対して敬うことを教えている。

Ⅰテサロニケ5:12~13:「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。5:13その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。」

 しかし、それらはあくまでも命令ではなく、御霊から来る自発的なものでなければならない。献金やすべての奉仕と同じように、神様との関係の中で、神を第一とし、神を愛し敬う心、感謝をもって従う心から生まれて来るものでなければならない。また、相互的なものでなければならないのである。

ローマ12:10、16:「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」、「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」

 そうすることで、多様性をもった教会が一つとなって建て上げられて行く。それがV6の言うこと。

【結論】

V16:「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

 キリストのからだである教会をひとつの建物とするならば、そこには多様な部分が存在する。その役目においていろいろな働きがある。基礎の土台から始まって、柱、壁、窓、屋根、多くの内装材の役割である。しかし、それらが設計者である神の召しによって建てられて行くならば、神の召し通りの建物が建てられる。そこに設計者である神の栄光が現れるのです。

​ 私たちの教会もそうである。神はそのようにして、私たちをご自身の似姿へと、御自身と一つにして、私たちに与えて下さった信仰と希望と愛によって建て上げようとしておられるのである。

―祈り―


 
 
 

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