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2026. 4. 5. イースター礼拝メッセージ :金子辰己雄師

  • 4月12日
  • 読了時間: 7分

更新日:4月13日

【タイトル】

「主の復活の証人―復活の主を見た人たち―」

【聖書個所】

ヨハネ14:18~19:「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。14:19いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」

【序論】

 ヨハネ13章~17章は、イエスの弟子たちとの最後の晩餐の席のことが記されている箇所。だから、ここで語られていることは、主の弟子たちに対する惜別説教である。その中で主は彼らにこう語られた。

V18:18:「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」と。

 弟子たちは、主がもう間もなく弟子たちの下を離れ、神の下に行かれるという事を聞き、どこに行くのだろうと不安に陥った。だから、ペテロはイエスにこう言った。「…。『主よ。どこにおいでになるのですか。』イエスは答えられた。『わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。』13:37ペテロはイエスに言った。『主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。』」(ヨハネ13:36~37)と。また、ピリポはイエス様にこう言った。「…。『主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』」(ヨハネ14:8)と。すると主はピリポに次のように答えた。「イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」」(ヨハネ14:9

 この後もイエス様の言葉は続き、今日の聖書箇所を含んで、Ⅴ21まで続く。弟子たちは、この時点では、イエスのピリポに語った言葉、「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。」とあるように、イエス様について真に理解していなかった。主とずっと一緒に居て、主の為されたこと、主に関するすべてを見ていたのにも関わらず、まるで目の見えない者であったかのように、主がどういうお方であるのか、主の真実の姿について全く理解していなかったのである。それはイエス様のピリピへの言葉、「わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」と言う言葉から分かる。

 勿論、主は弟子たちがみんな盲人であったということを言おうとしていたわけではなく、主が、「あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。」と言って、弟子たちに、また私たちに、「主を信じる」ということは、「主の弟子になる」ということは、「主を知る」ということであり、「主を見る」ということでもあるのだ、ということを教えるためだったのです。

 今日、私たちが主の復活を祝うイースター礼拝をしているのは、私たちが主の復活を信じているからであり、主の復活を信じる復活信仰は、主の十字架を信じる十字架信仰と共に、私たちにとって重要なことであることを、パウロが言うように知っているからです。パウロは次のようい言った。

Ⅰコリント15:12~15:「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。15:13もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。15:14そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。15:15それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。」

 だから今日、私たちは主が弟子たちに、「主を信じると言うこと、主の弟子になるということは、主を見ることであり、主を知ることでもある。」と語られたように、「主の復活の証人になることも、主を知ることであり、また主を見ることでもある。」ということを、今日の聖書個所から学んで行きたい。

 今日の聖書個所をもう一度見よう。

ヨハネ14:18~19:「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。14:19いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」

【本論】

 主は弟子たちに、自分は神の下に行き、弟子たちから離れて行くことを語ったため、弟子たちの間に不安があるのを見て、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」と言った。「わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」という言葉には2つの意味がある。「主の再臨」と、この後イエスが十字架に架かり、死んで墓に葬られ、3日目によみがえって弟子たちの前に現れること、主の復活のことである。ここでは、後者を指している。また、V19もそのことを言っている。「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」(V19)

 主が十字架で死に、墓に葬られ、3日目に復活するまでは、弟子たちは復活の主を見ることが出来なかった。しかし主は復活するので、「あなたがたはわたしを見ます。」と言われたのです。この「見る」には2つの意味がある。一つは、肉眼で見る「見る」。この「見る」は、肉の目を持っている者ならば、誰もが見ることが出来る「見る」です。しかし、もう一つの「見る」は、肉の目では、また、どんなに良い視力の目を持っていても、決して見ることの出来ない「見る」である。それは、救われて、本当に主を信じた者でしか見ることの出来ない「見る」です。信仰によって開かれた霊の目、信仰によって開かれた信仰の目によってでしか見ることの出来ない「見る」です。

 エマオ途上で主に出会い、復活の主だと知らずにいたが、食卓でパンが裂かれて目が開いて分かり、引き返して他の弟子たちに主の復活を証しした二人の弟子の「見る」です。(ルカ24:13~35)そういう人たちは、復活の主との関係の中で主を信じて救われ、告白して、永遠のいのちの中を復活された主と共に生きる者たちです。「永遠のいのち」とは、長寿とか、いつまでも生きるということではなく、イエスを主と信じる信仰が与えられて、主と共にあるということ、イエスを、永遠のいのちという関係の中で「知っている」ということです。

ヨハネ17:3:「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」

 単に知的な関係でなく、霊的な関係、霊的につながっているということ。なので、主はこう言われた。「…。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」(ヨハネ14:19)と。

 この「永遠のいのち」という関係の中で生きること、主と私たちの関係、信仰による関係というのは不思議なこと。この世の知恵や知識では説明出来ないことです。でも、霊では分かる。

「脳が私のすべてなのか?」(シャロン・ディリックス著)を読んだ。その第7章「宗教経験は脳活動に過ぎない?」の中の「だれもが招かれている。」の項で、「知的障害があっても、人は霊が生きているから、神が分かり、イエスを信じることが出来る。復活の主を信じることが出来るのである。」とあった。

【結論】

 皆さんはどうか?―復活の主を見ているか?、復活の主を知っているか?、復活の主に出会っているか?、復活の主を信じているか?、復活の主と共に生きているか?

 主は私たちにこう言われる。「…。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」(ヨハネ14:19)と。

 復活の主を信じる信仰があるなら、私たちはみな主と共に、永遠のいのちという「主を知る」いのちの中に、関係の中に、今も生きるのである。ハレルヤ!

―祈り―


 
 
 

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