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2026. 4.26. 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

  • 5 日前
  • 読了時間: 6分

【タイトル】

霊的戦い(14)「信仰の大盾を取り、剣を取りなさい。」

【聖書個所】

エペソ6:16~17:「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」

 これまで、3つの霊的戦いについて学んで来た。①信仰の重要な要である腰に締める真理の帯というみことばによる戦い、②信仰に影響を与える思考や感情の働きをする心に当てる正義の胸当てというみことばによる戦い、③信仰生活の歩みをする足に履く平和の福音と言うみことばによる戦いです。

【前置】

 今日は、これらの霊的武具の上に「取れ。」と言っている「信仰の大盾」という武具を取ることと、Ⅴ17:「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」について学ぶ。ここで語られている「信仰の大盾」、「救いのかぶと」、「御霊の与える剣」という霊的武具とはどのような武具だろうか?

【本論】

 Ⅴ16で、聖書は私たちに、「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。」と言う。「これらすべてのもの」とは、初めに言った①真理の帯、②正義の胸当て、③平和の福音の備えという霊的武具のことだが、それらの武具と、今日聖書が、手に「取りなさい。」という「信仰の大盾」との間には大きな違いがある。というのは、これまでの武具はみな「身に着けるもの」であったが、「信仰の大盾」はそうではなく、「手に取るもの」だから。そこには厳然な違いがある。「身に着ける武具」と「手に取る武具」との違いである。では、その違いがあるということは、そこにどんな意味があるのだろうか?―その違いを知ること、その意味を知ること、それが今日のメッセージのポイントです。

 結論を言う。その意味は、「手に取る武具」としての「大盾」というのは、V17の「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」の「剣」と同じように、「剣」は攻撃用武器、「盾」は防具という違いがあるにしても、どちらも手で自由自在に扱うことの出来る武具であるということです。

 イスラエルには、敵から来るミサイルを打ち落とすアイアンドームというミサイルがある。最近はアンアンビームというレーザービームなど、いろいろな兵器がある。 それらの兵器のように、「大盾」という武具も、「剣」という武具も、それを手に持つことが出来るなら、360度、自由自在に敵から飛んで来る矢を防ぐことが出来、敵の振りかざす剣に対しても、それを振り払い、攻撃を塞ぐことが出来る。また、こちらから攻撃を仕掛けることも出来る。「正義の胸当て」のように、体に装着されて自分の胸は守ることが出来ても、それ以外は何も出来ない限りある防具ではなく、自由自在な武具なのである。だから聖書は、Ⅴ16b:「それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。」と言う。

 ここで言う「悪い者」とは、Ⅴ12:「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とあるように、悪魔や悪霊たちのこと。そして、これらの者が放つ火矢というのは、ミサイルのように空中を飛ぶものではなく、目に見えない霊空間、意識や思考、感情といった心の世界の中で、悪魔や悪霊たちが放つ飛び道具なのです。その火矢にはどんなものがあるかについては、「胸には正義の胸当てを着け」の箇所で学んだように、「悪魔の策略」という、悪魔や悪霊たちの使う武具である、①偽り、欺き、②誹謗、中傷、③不安や恐れを与えること、④目の欲、肉の欲、金銭欲を引き起こさせるもの、⑤無関心、無感動という冷たい心を引き起させるという火矢がある。しかし、同時に学んだように、悪魔や悪霊たちがどんな火矢を放とうとも、私たちは真理の言葉である「信仰の大盾」と、「御霊の与える剣である、神のことば」によって、それらの敵の攻撃を防ぎ、跳ね除け、その攻撃から私たちを守ることが出来るのです。

 イエス様が公生涯に入った後の荒野でのサタンとの戦いの時に、神の言葉である信仰の大盾と、御霊の与える剣である神の言葉を語ることによって悪魔の攻撃を退けたように(マタイ4:1~11)、また、イエス様によって遣わされた12人の弟子や70人の弟子たちが、イエス様の御名と神の言葉を使う権威が与えられ、悪魔サタンや悪霊たちに勝利したようにです。

ルカ10:17~19:「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』10:18イエスは言われた。『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。10:19確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』」

 このように私たちには「信仰の大盾」が与えられており、「御霊の与える剣である、神のことば」が与えられているです。だから、それをしっかりと手に取ろう。そして、「救いのかぶと」という私たちの救いの確信を、私たちから失われないように守る神の言葉を、「真理の帯」を腰にしっかりと締めるようにしっかりとかぶろう。


 それはどういうことか?―それは、例えば、ガラテヤ3:26:「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」とか、エペソ2:8~9:「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。2:9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」という、私たちの救いの確証を明確に語っている神の言葉を、しっかりと覚えること、心に刻むことです。

 みことばを覚えるということ、心に刻むということは、霊的戦いにおいて大きな武器になる。中国やクリスチャンに対して迫害のある国で、長く投獄されている人々でも最後まで生き延びることが出来るのは、皆みことばを暗唱していたからです。聖書がなくても、信仰がなくならず、最後まで保ち続けることが出来たからです。

 また、霊的戦いにおける敵は悪魔サタンや悪霊たちだけではない。悪魔サタンや悪霊たちの性質である、私たちも持っている肉の性質も霊的戦いにおける敵でもある。だから聖書はこう言う。

ヘブル4:12~13:「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。4:13造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」

 これは聖化の問題でもあり、信仰の成長のことでもあるが、私たちはやがて、誰でもが神の前に立つ時が来る。(マタイ25:31~46、ローマ14:10、12、ヘブル9:27)それまでは、その時に私たちは聖化された者として、決して責められることのない者として神の前に立つことが出来るように、みことばと御霊との交わりの中を歩んで行かなければならないのです。(Ⅰテサロニケ3章)

【結論】

 ですから、私たちはパウロが最後に書き残したテモテ宛の手紙の中に残しているように、この霊の戦いを、腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えを履き、これらすべての上に信仰の大盾を取り、救いのかぶとをかぶり、御霊の与える剣である神の言葉を受け取って、

Ⅱテモテ4:7:「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」というように戦って行こう。

―祈り―


 
 
 

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