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2026. 3.29. 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

  • 7 時間前
  • 読了時間: 7分

【タイトル】

霊的戦い(13)「足には平和の福音の備えをはき」


【聖書個所】

エペソ6:15:「足には平和の福音の備えをはきなさい。


【序論】

 「備えをはきなさい」の「備え」とは、原語の聖書では「ヘトイモス」という言葉が使われていて、意味としては、ただ単に「準備が為されている状態」のことを指す言葉で、何の準備が為されているのかは分からない。とにかく「準備がされている状態」のことを指す。だから「備えをはきなさい」と言っても、それだけでは何を「はく」のか分からない。しかし、ここでは具体的に、「足には平和の福音の備えをはきなさい。」となっているので、「備え」は、靴とか何かの履物のことであることは想像出来る。そして、「足に…はきなさい。」の箇所が、原語の聖書で、「ヒュポデマ」というギリシャ語が使われているので、それが分かれば、その「備え」が具体的に何であるのかが良く分かって来る。


 この「ヒュポデマ」と言う言葉は二つの言葉から成っている。前半分が「~の下」という意味の「ヒュポ」という言葉、英語で言うなら“under”。後半分の「デマ」と言う言葉は、「デオー」という「縛る」という意味の動詞から来た言葉。


 当時は今のような靴はなく、みな動物の皮で作った一枚皮のサンダルを紐で

縛って履いていた。ちょうど日本の草鞋のようなもの。彼らはそのサンダルが

足から外れないように、皮の紐で縛っていた。その「縛る」が「デオー」とい

う言葉で、結局「足に備えをはきなさい」ということは、「足を履物で、履物が

外れないようにしっかりと縛りなさい。」という意味なのである。ただ、これは

霊的戦いの武具のことを、身に着ける物の比喩として語っているので、霊的には

ここで何が語られているのか、今日私たちはそれを学ぶ。


【本論】

エペソ6:15:「足には平和の福音の備えをはきなさい。


 聖書は、何を霊的戦いの武具として足に縛りなさいと私たちに言っているだろうか?―それは、この箇所の最初の学びの時に語ったように、ここにはいろいろな武具が身に着けるものとして比喩で語られているが、それらはすべて「神の言葉」であるということである。―聖書は私たちに、「神の言葉を私たちの足の履物として履きなさい。」と言っている。それも、その言葉が足から外れないように、です。


 私たちは、霊的戦いにおいて神の言葉が私たちの足から外れないよう、しっかりと縛り着けなければならない!では、その神の言葉を縛り付ける「足」とは何か?―それは、私たちの日常の生活、信仰生活、その生活を作っている私たちの生き方、私たちの人生です。


ローマ3:10~18:「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。3:11悟りのある人はいない。神を求める人はいない。3:12 べての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」 3:13「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」3:14「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」3:15「彼らの足は血を流すのに速く、3:16彼らの道には破壊と悲惨がある。3:17また、彼らは平和の道を知らない。」3:18「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。


 パウロは、罪人の生き方、その歩みである生活がどのようなものであるのか、体の中の器官である、「のど」、「舌」、「くちびる」、「口」、「足」、「目」と言う言葉を使って語っている。「足」は私たちの人生を作るもの、私たちの生活そのものです。神は私たちの人生に、神の言葉が外れないようにしっかりと縛り付けるように言うのです。そして、その神の言葉はここでは「平和の福音の備え」となっているように、平和を告げるメッセージとしての神の言葉を、私たちの日常の生活にしっかりと縛り付けるようにと言うのである。そこには2つのメッセージがある。①私たち自らが、平和の福音という神の言葉に相応しく生きること。②平和の福音という神のメッセージを宣べ伝える生活をすること。


(1)平和の福音という神の言葉に相応しく生きること


 これは、私たちの生活が平和の福音を証しているということ。つまり、行ないによって平和の福音を証しているということです。このことについて、聖書は幾つかの箇所でそのことを私たちに教えている。


マルコ9:50:「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。


 どのようにして「塩け」を保つの?―みことばと祈りによってである。


ローマ12:16~18:「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。12:17だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。12:18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。


エペソ4:1~3:「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。4:2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、4:3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。


 どちらも遜ることの大切さを教えている。でもそれは難しい。しかし、人と争わず、平和を求めて神に助けを求めれば、与えられるのです。


Ⅰペテロ3:11~12a:「悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。3:12主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。」次に、


(2)平和の福音という神のメッセージを宣べ伝える生活をすること


 平和をもたらす神の言葉を語るという宣教の生活を送るということ。初めの「平和の福音という神の言葉に相応しく生きること」が「行ない」による宣教なら、これは「言葉」による宣教です。このことに関してパウロは、人から狂っているかのように見られている自分の宣教の働きは、自分から出たことではなく、神によってその働きに召されたものであるという風に語った。


Ⅱコリント5:13~18:「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。5:14というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人(キリスト)がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々(パウロは、この「生きている人々」の内に自分をも置いている)が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。5:17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。5:18これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。5:19すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。


 そして、この行ないによる平和の福音の宣教、言葉による平和の福音の宣教を可能にするのは、ただ一つ、キリストの十字架の恵みによると、パウロはエペソ2章で語るのである。


エペソ2:14~16:「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、2:15ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。


【結論】

 イエス・キリストが私たちのために十字架に架かって下さったこと、そのことに目を留めるなら、争いの満ちたこの世界、対立、分断、戦いに満ちたこの世界に平和が訪れる。私たちがそのような歩みと平和の福音を語って行くなら、私たちは平和を築く者になる。イエス様はこう言われた。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9


 お互いに、そのように呼ばれる者となりたいものです。

―祈り―



 
 
 

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