2026. 2. 8. 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- 2月15日
- 読了時間: 7分
【タイトル】
エペソ書(5)「神の恵みによる私たちのビフォー&アフター①」
【聖書個所】
エペソ2:1~7:「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、2:2そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。2:3私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。2:4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、─あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。─2:6キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。2:7それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」
【本論】
聖書はこう言う。私たちはみな「自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころ(V1の「自分の罪過と罪との中に死んでいた」ころ)は、それらの罪の中にあってこの世の流れ(この世のいろいろな考え方や生き方、価値観や世界観)に従い、空中の権威を持つ支配者(エペソ6:12でいう「主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」たち)として今も不従順の子らの中に働いている霊(私たちに、神に従わず、罪を犯させ、罪を犯させ続けている悪しき霊、悪霊、悪魔サタン)に従って、歩んでいた。」と。
罪とは、神との関係が切れている状態のことを言う。創世記には、私たちの一番初めの先祖であるアダムとエバが神に似るようにと、神のかたちに作られたことが書かれている(創世記1:26)。「神のかたち」とは、神に何らか形があるということではなく、神は霊なので、私たちも神の霊によって生きる霊的存在として造られたということなのである。ところが、アダムとエバが神によって食べてはならないと禁じられていた善悪の知識の木から実をとって食べてしまった結果、アダムとエバだけでなく、アダムとエバの下に生まれた私たちを含めたすべての人が神との関係が切れてしまった状態になった。これが罪なのです。そして、その神との関係が切れてしまった結果、私たちは神の霊、神のいのちによって生きることが出来なくなってしまったということ。つまり、関係が切れて、霊的に死んだ状態になってしまったと言うこと。これが、Ⅴ1:「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」と言うことです。
しかし、霊的には死んでいても、人は霊と魂と体で出来ているので、魂と体で私たちは生きることが出来る。しかし残念ながら、その魂と体は神との関係が切れて、罪の中で生きているので、罪の性質である「神を神としない反抗的な性質や、神に従わない心、自分の思う通りに生きたいという自己中心的な心や欲望」によってしか生きることが出来なくなってしまったのである。Ⅴ3 はそのことを言っている。
V3:「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」と。
皆さんはどうか?―私はこんな状態を33歳まで続けていた。なので、もしこんな状態で終わってしまったら、今ごろ私はどうなっていたか、仮に生きていたにしても、何の希望と救いもない状態で、依然として自分の罪過と罪の中で死んだ者の状態になって、この世の流れに従い、罪に支配されていただろう。そして、自分の肉の欲望の中で、その欲の欲するままを生き、そのままであれば、いずれは神の御怒り、裁きにあって滅んでしまう者になっていただろう。
しかし、聖書は私たちに素晴らしいことを語っている。それが、V4~V6です。
V4~V6:「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、2:5罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、─あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。─2:6キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
V4の最初の言葉の「しかし」は、希望に溢れた福音の言葉である。どうしてそこまでして下さったのか?―それが、Ⅴ7に記されている。
V7:「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」
「それは」というのは、「神がそうしてくれたこと」を指しているが、神は何をしてくれたのか?―それは、神が、神に対して罪を犯し、反抗的で、不従順で、自分の肉の欲の思うままに生きているような私たちであっても、そのような罪の中に死んでいた私たちを愛してくれ、御子であるイエス・キリストを私たちの救いのためにこの世に送り、本当ならば私たちが架かって裁かれ、死ななければならない私たちのような者の身代わりに、十字架に付けてくださったという、「恵みによる私たちの救い」のこと。
パウロは、その恵みによる救いを、Ⅱコリント5:21で次のように言っている。
Ⅱコリント5:21:「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
そして、それが今日の箇所の、Ⅴ4~V5:「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、2:5罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、─あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。─」ということ。これが神の恵みなのです。
今日の箇所に戻るが、パウロは、その神の恵みによる救い、神が恵みによって私たちを救ってくれたのはどうしてか?ということを語るために、Ⅴ7で、「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」と言った。しかし、この表現はちょっと分かり辛いところがあるので、この箇所をリビングバイブルが、少し砕き過ぎのところもあるが、一番分かり易く伝えていると思うので、リビングバイブルで読んでみる。
LB:V7:「神様がキリスト・イエスを通して成してくださった、すべてのことからも、神様の恵みの素晴らしさが分かります。私たちは今、その恵みがどんなに豊かであるかを示す、見本となれるのです。」
現代訳聖書では、「この素晴らしい救いの恵みを、キリスト・イエスによって私たちに与えてくださったことを思えば、私たちはこの救いをいつまでも宣べ伝えずにはいられない。」となって、訳者の思い入れが少し入りすぎている感じがするし、この箇所が言っているのは、私たちがどうする、ということではなく、神が私たちを通してそうして下さるということを言っているので、リビングバイブルの訳が一番分かり易いのではないかと思う。
※神が私たちを、そのように神の素晴らしい恵みによる救いの見本として下さるのだと言っている。人々が私たちを見た時に、そこに神の恵みによる救いの素晴らしさを見ると言うのである。そのために私たちは救われたということである。
【結論】
ここに、私たちのビフォー&アフターがある。神の恵みに預かって、救われる前と救われた後のビフォー&アフターがある。
皆さんは、その違い、その変化を知っているか?体験しているか?―そして、その違い、変化が分かるような見本になっているか?―イエス様が私たちのためにして下さったことの見本になっているか?―神様の恵みの素晴らしさが分かる見本になっているか?―その恵みがどれほど豊かなものであるかが分かる見本になっているか?
今暫く一緒に祈ろう!―もし分からなければ、分かることが出来るようにと、神様に求めよう?―また、まだその恵みについて分からない、救いの恵みについて分からない、という方がいれば、その恵みが分かることが出来るようにと、神様に求めよう。
―祈り―
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