2026. 2.15 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
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【タイトル】
エペソ書(6)「神の恵みによる私たちのビフォー&アフター②」
【聖書個所】
エペソ2:8~10:「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。2:9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。2:10私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」
【本論】
聖書は私たちの救いについて明確に言う。V8a:「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」
これは私たちの「救い」に関する福音信仰の土台のみことば。ルターはローマ1:17「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」によって信仰義認を確信し、宗教改革を起こした。ローマ1:17のみことばも、エペソ2:8のみことばも、「救い」に関する福音信仰にとって大切なみことばである。
私は吉川の教会でウッド師がこの箇所からメッセージを語り、①救いは神の恵みであること。「神の恵み」とは、「私たちには受けるべき、もらうべき資格も権利も無いのに、神が一方的に、無代価で与えてくれる贈り物」のことを言い、②救いは私たちの信仰によるものでもあるということ、この二つのことを語られたのをよく覚えている。そして、それを分かり易くするために、日本からアメリカに行くことが「救い」だとするなら、太平洋を泳いで渡ろうとすることと、太平洋を飛行機で越えて行くこととの違いについて話された。今は正確にすべてを覚えていないので、少し自分流のアレンジをするが、その譬えはこういうこと。―もし人が日本からアメリカに行きたいと思ったら、誰も泳いで太平洋を渡って行こうと思う人はいない。それはことは無理だから。しかし飛行機があるということが分かったら、それも誰にでも無条件で受け取れる無料搭乗券付きだとしたら、尚のこと多くの人が行きたいと思うだろう。その飛行機が神の恵みであり、Ⅴ8で言う「恵みのゆえ」の救いのこと。何故なら、無条件で誰でもが行けるのだから。そして、自力で泳いで太平洋を渡ろうとすること、つまり自分の行ないによって救いを得ようとすることは不可能なので、聖書は、Ⅴ8b~V9:「それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。2:9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」と言う。
しかし、ここには救いに関してもう一つ重要なことがある。それは、たとえ無料搭乗券が提供されても、それを受け取らなければ飛行機に乗れないように、救いのための神の恵みも、それを受け取らなければ誰も救われないということなのである。だから、この「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(V8a)ということばが、始めに、「救い」に関する福音信仰の土台となるみことばであると言ったのです。
※神の恵みがあっても、それを受け取らなければ、信仰がなければ救われないのです。
今日は、パウロのいた頃と比べたら、いろいろな形で福音が宣べ伝えられている。しかし、それでもまだ多くの人は福音に心を閉ざしている。いつになったら日本の一億二千三百十万の魂は救われるのか?世界の八十二億三千二百万の魂は救われるのか。主のみこころは、「…、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(Ⅱペテロ3:9b)
では、どうすればそのみこころが成就するのだろう?―いつ、主のみこころは実現するのだろう?―私たちはそれがいつ成就するかは分からない。ただ一つのことだけは言える。それは、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(Ⅱテモテ4:2)とあるように、時が良くても悪くても、みことばを宣べ伝えることである。どうしてか?―みことばを宣べ伝えなければ、人は信仰を持つことが出来ないからです。
ローマ10:13~14:「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。10:14しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」
だから、時がよくても悪くても、しっかりやって行こう。
さて、今日の本題の「救いを受けた私たちのビフォー&アフター」についてだが、結論を言う。それは、私たちの「行ない」が、私たちの人生が、私たちの栄光のためではなく、神の栄光のためのものになったということです。
人は「行ない」によって生きている。食べること、寝ること、働くこと、息することさえも「行ない」です。私たちは「行ない」をしなければ生きて行くことは出来ない。そして、その成果に満足し、その成功を誇る。人は神の恵みによる救いに預かるまでは、自分はどうであるか?自分は何をしたか?という、自分の状態、自分の行ないが一番の関心事で、その成果を得ること、栄光を得ることが目的だった。つまり、「自分の行ないは、自分の人生は自分のためだ。」という人生を生きていた。
しかし、神の恵みに預かってからは、人生の目的、行ないの目的が変わった。そこに私たちのビフォー&アフターがある。救いを受けた後の私たちの行ないは、自分の誇り、自分の栄光のためのものではなく、神の栄光のためのものに変わったということです。
V10:「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスによって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」
先日、車の後部ドアに「Medalist」(メダリスト)と言う金属プレートが付いた車を見た。それを見ながら思った。今、イタリアで冬季オリンピックが行なわれているが、選手は皆、国を背負って戦う。だからメダルを得た時はその誇りを持つ。
※クリスチャンもそうである。救われる前は自分の栄光のために生きて来ていたが、救われてからは、私たちは皆、神の栄光のために生きる者になったのである。これが2番目のビフォー&アフターである。
【結論】
私たちは、イエス様が私たちのために何をなして下さったかをもう一度考えよう。イエス様は天の栄光を捨てられ、御自分の栄光のためでなく、私たちの救いのために地上生涯を歩まれ、そして十字架の上で贖いを成し遂げてくださった。それは、私たちもイエス様のように自分の栄光のためでなく、神の栄光のために生きるためだった。
ローマ14:7~9:「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。14:8もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。14:9キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」
だから、私たちもそのように、イエス様の栄光のため、神の栄光のために生きようではないか!そのために私たちは神の恵みに預かったのである。
―祈り―
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