2026. 1. 4 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
- 9 分前
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【タイトル】
「主をほめたたえよう!①」
【聖書箇所】
エペソ1:1~6
【前置】
今日は第一聖日なので、例年のように年間テーマからのメッセージをするが、同時に、今年から始まるエペソ書の講解説教の一回目ともしたい。主が今年、エペソ書を通して、私たちの召しに関して何を語って下さるか、期待しながら読んで行こう。
【聖書個所】
エペソ1:1~6:「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。1:2私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。1:3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。1:4すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。1:5神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。1:6それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
【序論】
V1:「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。」
先ず初めの、「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから」という言葉に、パウロの明確な召命観、自己観を見ることが出来る。パウロはこの言葉をもって、エペソ人への手紙を書き始めた。だからこれは単なる挨拶言葉ではなく、パウロがいかに神と、或いはキリストとの関係において、自分は何者か、自分は何のために造られ、何のために救われ生きているのか?という、自分と神との関係、自分とキリストとの関係を重視しているということが分かる。パウロは救われてから、それまで一番重要に思っていたことはみなゴミに過ぎないと思うようになった。
ピリピ3:5~8b:「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、3:6その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。3:7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。3:8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」
自己観の変革です!また、このように自分が使徒に召されたということについて、彼は自分を召した神に対する慄(おのの)きを持ちながら、次のようにも言っている。
1コリント15:9~10a:「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。15:10ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」
パウロは、これだけ人と神との関係、特に救われた信仰者と神との関係によって自分をどう見るかという自己観が如何に重要なものなのであるということを知っているので、エペソの教会の兄姉たちにもこう言ったのである。「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。」と。
皆さんはどれだけ、神と自分との関係において、キリストとの関係において、自分のことを見ているだろうか?―私たちはパウロのように使徒とされたという召命観、自己観はなくても、私たちは皆、聖徒であり、また召された者であるということを認めよう。このことは非常に重要なことです。それがあるから、それを知って、次のように言うことが出来るのです。
V2:「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」
今年の正月も、親戚、友人、知人の他に、教会員やクリスチャンたちから年賀状をもらった。その本文には、いろいろな祈りの言葉とともに、「恵みと平安があなたがたの上にありますように。」というような祝福の言葉が書かれている。どうして、このような祝福の言葉を言うことが出来るのかというと、それは私たちがそのように言うことが出来るように、神によって召されているから。だから、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」と言うことが出来るのです。
※「召し」というのは、何かを造る時の設計のようなもの。そして、その設計に従い、すべての製造工程に従い、すべての製造作業をするようなもの。車を造るときは、どういう車を造ろうかと考えて、さまざまにデッサンし、最終的にどういう材料で、どういう形の車を、どの位の性能を持つ車として造ろうかと考える。そして設計し、設計通りに造る。それが「召し」というものです。だから、神の召しは私たちが何を語るか、何をするか、どう生きるかということ、神の召しは私たちが何のために生まれ、何のために生きるのかという私たちの人生すべてを定めるものなのです。神の召しは、私たちの人生を、私たち自身を形造るものなのです。次に、
V3~V6:「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。1:4すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。1:5神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。1:6それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
この箇所が今日のメッセージの中心であり、結論です。
【本論】
この箇所に、「ほめたたえる」という言葉が2回出て来る。V3a:「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。」と、Ⅴ6:「…、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
聖書は、何故ここで2回も「ほめたたえる」という言葉を使って、こう言っているのか?―それは、そのように神が私たちを召して下さったからです。神がそのように語り、そのようにするように召して下さったからです。先ほど、神の召しは私たちの生涯を形造る、私たち自身を造ると言ったが、神は私たちがそのように語り、そのようにするように、神は私たちを召して下さった。そのように設計し、そのように形造って下さったのです。そして、この箇所では、その召しを二つの言葉で表現している。一つは「祝福」、二つ目は「定め」です。
V3b:「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」
ここに、「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」と、「祝福」という言葉が出て来るが、それはどういうことか?ということで、Ⅴ4~V5で、その意味を言い換えて伝えている。
V4~V5:「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。1:5神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
つまり、「祝福してくださった。」ということと「あらかじめ定めておられました。」ということと、その二つのことが、「召し」という一つのことなのだということです。
人の中には、「あらかじめの定め」ということを聞くと、反発する人がいる。「どうしてなのだ!」と。私も小さい頃、若い頃、「どうして自分を産んだのだ?」とまでは思ったことはないが、まだ信仰もなかったので、目に見えぬ神に対して、「どうして自分はこの家に生まれたのか?」とか、運命論的に、「どうしてこうなのか?」というような思いを持ったことがある。―聖書は、そのような思いに対し、陶器と陶器師の関係から、次のように言っている。
ローマ9:21:「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」と。
※しかし、聖書は、「あらかじめの定め」というのは、「祝福」なのだと言う。何故なら、それは、愛をもってあらかじめ定めたものだからです。それが、Ⅴ3:「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」ということであり、Ⅴ4:「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」ということなのです。
※ここに、私たちの「あらかじめの定め」による「祝福」と「召し」がある。また、ローマ8:28の「召し」も同じことを言っているのです。
ローマ8:28:「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
神は、あらかじめ分け隔てをもって私たちを造っているのではなく、神の御計画は、私たちが最終的に、御前で聖く、傷のない者になること、神の子になることであり、そうなるように、あらかじめ造って下さったのです。ただ、問題は最終的に、神を愛するか、そうでないか、神を信じるか、そうでないか?によって、分かれるということです。陶器と陶器師の関係の中で教えられているように。
【結論】
私たちは神の恵みによって、予めそのように造られた者であることを知ろう。そのような自己観、召命感を持とう。私たちはそのような者として主によって召されたのです。だから、神をほめたたえよう。主を賛美しよう。
―祈り―
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