2026. 1. 1. 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
- 11 分前
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【タイトル】
「あなたは何を見ているのか。」
【聖書個所】
エペソ4:1、エレミヤ1:1~15a
【前置】
今年の年間聖句とテーマはエペソ4:1から取った。それは、黙示録の講解説教を終え、次の箇所を祈り求めていた時、エペソ書が与えられたからであるが、それだけではなく、私たちは昨年に念願であった法人化が実現したので、これから本来の教会の働きである霊的建て上げに全力を挙げるに当たり、エペソ書が最も相応しい書簡だと考えたからです。
何故エペソ書が最も相応しいのか?―それは、エペソ書には他の書簡に比べ、教会論や教会成長に関する記述が豊かにあるからです。パウロは、第3回伝道旅行が終わった後、約2年間、ローマで軟禁生活を送った(使徒21:27~28章)。その間、彼はエペソ教会、コロサイ教会、ピリピ教会へ手紙を書いている。これらは軟禁状態ではあったが、獄中から書かれていたので獄中書簡と呼ばれているが、同じ獄中書簡でも、ピリピ教会への手紙と、コロサイ教会への手紙、エペソ教会への手紙は趣が異なる。ピリピ教会への手紙はピリピ教会独自の問題に関する手紙であったのに対し、コロサイ教会とエペソ教会への手紙は、異端的問題を抱えていたコロサイとエペソの町があった小アジア全体に向け、回し読みをしてもらうために書かれた手紙であった。(コロサイ4:16)また、そういうわけでエペソ書とコロサイ書は似ている点があるが、エペソ書にはコロサイ書にはない点がある。それが、教会とは何であり、どのように建て上げられて行くのかという教会論や教会成長に関することである。それも十分に練られて記されたものであるということです。特にエペソ4章はそうであり、そういう意味で、今年の年間聖句はエペソ4:1で、講解説教もエペソ書から行なって行く。では今日のメッセージに入る。
【聖書個所】
エペソ4:1:「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」
エレミヤ1:1~15a:「ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。1:2アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに【主】のことばがあった。1:3それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった。1:4次のような【主】のことばが私にあった。1:5『わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』1:6そこで、私は言った。『ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。』1:7すると、【主】は私に仰せられた。『まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。1:8彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──【主】の御告げ──』1:9そのとき、【主】は御手を伸ばして、私の口に触れ、【主】は私に仰せられた。『今、わたしのことばをあなたの口に授けた。1:10見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。』1:11次のような【主】のことばが私にあった。『エレミヤ。あなたは何を見ているのか。』そこで私は言った。『アーモンドの枝を見ています。』1:12すると【主】は私に仰せられた。『よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。』1:13再び、私に次のような【主】のことばがあった。『何を見ているのか。』そこで私は言った。『煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。』1:14すると【主】は私に仰せられた。『わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。1:15今、わたしは北のすべての王国の民に呼びかけているからだ。──【主】の御告げ──』」
何故エレミヤ書を読んだかというと、エペソ4:1で言われている「召し」とはどういうものであるかということが、エレミヤに与えられた「召し」にそれをはっきりと見ることが出来るからである。
【序論】
私たちは皆、イエス・キリストを信じた者なら、神によって召されている。だからパウロはエペソの教会の兄姉たちに、エペソ4:1b:「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」と言った。ただその「召し」にも、この後V7以降で語られているように、各々の働きに応じた「召し」というものがあることも語られている。「五役者」(V11)とか、「ひとつひとつの部分」、「結び目」(V16)がそうである。
今日はそれらの異なる働きの「召し」ではなく、イエス・キリストを信じて救われた者ならば誰もが持っている「召し」について学ぶ。それをエレミヤの「召し」に見たい。先ほど読んだエレミヤ1:1~15aでは、その「召し」は何であると言っていたか?
【本論】
V5:「『わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、…」とあるように、生まれる前から定められていた「召し」であることが語られていた。それは、私たちがイエス・キリストを信じて救われると言う、救いに関する「召し」や、神のものとされるという「召し」と同じである。エレミヤに対する「召し」と同様、私たちが生まれる以前からの、神の計画による「召し」なのである。パウロはそのことを、エペソ1:3~5で次のように語っている。
エペソ1:3~5:「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。1:4すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。1:5神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
このように、誰でも「イエス・キリストを信じて神の子とされる、キリストの者とされる、主のものとされる」ということは、神の御計画の中で定められていたのである。ハレルヤ!エレミヤに戻る。
次にエレミヤは、神から「あなたを国々への預言者と定めていた。」とあるように、「国々への預言者としての召し」があることが告げられた。しかし彼は、それを聞いて怯(ひる)んだ。
V6:「そこで、私は言った。『ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。』」
この時のエレミヤは20歳ほどの若者だったと言われている。なので、その年齢や経験不足から出た言葉であっただろう。しかし、神はそのようなエレミヤに次のように言った。
V7~V8:「すると、【主】は私に仰せられた。『まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。1:8彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──【主】の御告げ──』」そして、
V9~V10:「そのとき、【主】は御手を伸ばして、私の口に触れ、【主】は私に仰せられた。『今、わたしのことばをあなたの口に授けた。1:10見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。』」
これは、「国々への預言者」、また、Ⅴ10:「諸国の民と王国の上に任命し」とあるように、周辺の国々にこれから起こることを語る預言者としての使命があることを告げる言葉です。そしてこう言った。
V11~V15a:「次のような【主】のことばが私にあった。『エレミヤ。あなたは何を見ているのか。』そこで私は言った。『アーモンドの枝を見ています。』1:12すると【主】は私に仰せられた。『よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。』1:13再び、私に次のような【主】のことばがあった。『何を見ているのか。』そこで私は言った。『煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。』1:14すると【主】は私に仰せられた。『わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。1:15今、わたしは北のすべての王国の民に呼びかけているからだ。──【主】の御告げ──』」
アーモンドの白い花は、イスラエルでは他の花に先駆け、1月から2月に咲くので、その後これから何が起こるかを表すような預言的なものであることを示す。また、Ⅴ13:「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」とは同様に、周辺の国々でこれから起こる戦いや神による裁きの幻、預言でもある。そして、初めのアーモンドの預言にしても、「煮え立っているかま」による預言にしても、神から、「何を見ているのか。」と訊かれた時、エレミヤがそう答えたことに、私たちは、神に召された者のあるべき姿を見るのである。
【結論】
神は私たちひとりに対し、神がエレミヤに対して計画を持っていたように、計画を持っておられる。私たちの生涯に御計画によって事を為そうとしておられる。だから私たちは、エレミヤがそうであったように、神に召された者として、神の為されることを見なければならないのである。そして、それを預言と言わずとも、証しをしなければならないのである。それがキリストによって召されたキリストの証人の召しである。これが今日の結論である。
※私たちはひとりひとり、また教会として、この2026年、神が何を為されるのかを見ていようではないか!私たちは皆ひとり一人、誰でも、どこでもいつでもキリストの証人、主のものであるからです。
※あなたは今何をみていますか?
―祈り―
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