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2025. 9. 7. 礼拝メッセージ:金子辰己雄師


【タイトル】

私たちの光が輝き続けるために

【聖書個所】

Ⅰヨハネ1:5~9:「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

【導入】

 今年の夏は本当に暑く、伊勢崎では8月5日に41.8度、埼玉県のこの地域では、同じ日に越谷で38.4度を記録した。そのため、近頃日傘の売れ行きが伸びている。特に男性の間で買う人が増えていて、この5年で7倍くらい増えているという。確かに日傘を使うと紫外線を99%カットし、眩しさも軽減され、体感温度も3~7度低くなるというので、これからは夏の必需品として無くてはならないものになる。このように、夏の太陽光の下では日傘はもうなくてはならないものだが、私たちクリスチャンの場合はどうだろうか?―勿論、太陽光のことを言っているのではなく、

Ⅴ1:「神は光であって」とあるように、神との関係のことです。私たちクリスチャンにとって、神である光を遮って生きるような生活は避けなければならないことです。

 今日はこの箇所から、ただ光を遮る生活を避けるという消極的なことではなく、今年の年間テーマである「私たちの光を放つ」、それも、放ち続ける、輝き続けるという、積極的なことのために必要なこと、今日のメッセージタイトル、「私たちの光が輝き続けるために」とあるように、輝き続ける、光を放ち続けるために必要なこと、何が必要なのか、何が重要なのかについて見て行きたい。2つある。

【本論】

(1)光の中を歩むこと

V6~V7:「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

 先ず、V6の御言葉、「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。」は、説明が不要なほど、明白なみことばです。何故なら、Ⅴ5:「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」とあるように、神は光で、神には闇がないので、神と交わりながらやみの中を歩むことなど出来ないからです。だから、そのように言うなら、それは偽りを言っていることになるわけです。V6の御言葉はそのことを言っている。光と闇が共存しない限り、私たちは、神と交わる同時に闇と交わること、闇の中を歩むことなど出来ないのです。光が来れば闇は消えるので、御言葉が言うように、もし「神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら」ということはあり得ないことなので、そう言うなら、それは私たちの偽りになる。真理を行ってはいないということになるのです。

 次に、Ⅴ7の御言葉、「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」のように、そう!「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを」保つことが出来るのです。これが私たちの信仰生活です。神との一致、神との共存という私たちと神との関係を現わす信仰生活です。そして、それによって、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」ということが起こるのです。

 ここで言っている「罪」は単数形の罪で、信仰生活で私たちが犯してしまう数えられる罪、複数形の罪のことではなく、その罪を犯させる「生まれながらの罪の性質、力」のことを言っている。だから、私たちが光である神様、また御子イエス様と一緒にいるならば、光と闇が共存できないように、罪のない神様、罪のないイエス様は罪と共存できないのだから、私たちも罪と共存できなくなる。つまり、御子イエス様の罪のないきよい血は、私たちをすべての罪の性質、力からきよめてくださるのです。「きよめる」というのは、「切り離す」という意味、私たちの聖化のことです。

 また、ヨハネはその関係を、ヨハネ15章の「ぶどうの木と枝との関係」で示している。

ヨハネ15:5:「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

 私たちが光である神様と交わる、一つになることによって聖化されるように、私たちと神様がぶどうの木と枝のように繋がっているなら、私たちは豊かな実を結び、成長、成熟して行くのです。そうして私たちは神様の光を放って行くのです。否、ぶどうの実は自分で実を結ぶことが出来ないように、ぶどうの枝が勝手に実を結ぶことが出来ないように、神様であるぶどうの木と一つになることによって光が放たれて行くのです。そのようにして私たちは輝き続けることが出来る。だから、私たちは積極的に、ますます光の中を歩んで行こう。神様と交わって行こう!―それは何度も言うが、みことばと祈りによってです。それによって私たちは罪の性質からどんどん切り離され、イエス様の姿へと変えられ、成長し、光を輝かせ続けて行く、光が輝き続けて行くのである!

(2)自分の罪を言い表すこと

V8~V9:「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 V8で言っている「もし、罪はないと言うなら」の「罪」は、Ⅴ7の「罪」と同じ、単数としての罪、罪の性質、罪の力のことを言っている。(1)で言ったように、私たちには生まれながらの性質である罪の性質、力が働いている。だから、それがないと言うことは自分を欺いていることになり、「真理は私たちのうちにない」のです。真理が私たちのうちになければ、光がなければ、私たちは輝くことは出来ない。ましてや輝き続けることは出来ない。なので、Ⅴ9:「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」と言う。

 この「自分の罪」の「罪」は単数の罪、罪の性質、罪の力のことではなく、信仰生活の中で私たちが犯す複数の罪のこと。そして「言い表す」という意味は、その一つ一つの罪を言い表すということではなく、ギリシャ語の「ホモロギア」で、「同意する。はい、そうです。」という意味の言葉である。「アーメン」ということ。このV9を詳訳聖書で見てみる。

詳訳聖書:V9:「もし、私たちが自分たちは罪を犯しているということを〔率直に〕承認する<自分たちの罪を告白する>ならば、神は真実で正しい〔ご自身の性質と約束に対して真実な〕方ですから、私たちの罪を赦し、私たちをすべての不義<目的、思想、行動において彼(主)のみこころに沿わないいっさいの事>から、絶えず私たちをきよめてくださるのです。」

 「悪」とは「不義」、「罪」のこと。だから、私たちがそのような者であることを「言い表す」、「同意する」、「そのことに一致」するなら、光である神と闇である私たちの関係のように、ぶどうの木と枝との関係のように、罪のない神様、きよいイエス様は私たちを「すべての悪」、「すべての不義、すべての罪」からきよめてくださるのです。それも「絶えず」きよめ続けてくださるのです。そして、絶えずキリストの姿に造り変えてくださり、主の光は私たちから絶えず輝き出る、輝き続けることが出来るのである。

【結論】

 これが、光の中を歩み続けること、罪を告白することで、神が私たちに与えて下さる恵み、特権です。ぶどうの枝のように、ぶどうの木に対して何があってもしっかりと繋がり続けているように、私たちは、光の中を歩み続けよう。主と共に歩み続けよう。私たちの罪を言い表し続けよう。

V5:「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」

※この光は神の光だけれども、私たちがその光の中を歩み続けるなら、光と一つとなるなら、私たちの光でもある。そして、その光には暗いところが少しもないというのだから、そのように輝き続けて歩んで行こう!

―祈り―

 
 
 

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