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2025.12.21 クリスマス礼拝:金子辰己雄師


【タイトル】

救い主への真の礼拝

【聖書個所】

マタイ2:1~12:「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。2:2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」2:3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。2:4そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。2:5彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。2:6『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」2:7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。2:8そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」2:9彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。2:10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。2:11そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。2:12それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」

 クリスマス礼拝でよく開かれるお馴染みの箇所、今日はこの箇所から、「救い主へのまことの礼拝」と題し、クリスマスの恵みを分かち合って行きたい。



【序論】

 この箇所のことがクリスマスカードにもよく描かれている。そこには羊たちや羊飼いもいて、博士たちと混在している。しかし、これは実際にはあり得なかった。というのは、羊飼いたちの礼拝は、ルカ2:8~20によると、彼らはベツレヘムの郊外で羊を飼っていたので、イエス様の誕生の知らせを御使いから受け、イエス様が寝かされていたベツレヘムの町の中の家畜小屋まではそれほど時間がかからずに到着し、誕生間もないイエス様を礼拝したからである。しかし、今日読んだ東方の博士たちの場合は、「東方」という言葉があるように、場所は特定出来ないが、イスラエルから見て東方の、昔バビロンと呼ばれていた今のイラクに当たる所から来たので、距離にして1,500km程、一日40kmとして、37~38日の道程。だから、実際は羊飼いたちの時より1ヵ月以上後のことだった。だから、羊飼いと東方の博士たちが一緒にイエス様を礼拝したということはありえないはず。また、何故昔バビロンと呼ばれていた所からというと、この時から約400年程前頃、イスラエル人たちがバビロン捕囚に遭っていた時、その中にダニエルという知恵に長けた優秀な人がいて、彼はバビロンの王に仕えていた。そのため、バビロンの王や星占いの学者たちは、ダニエルからイスラエルにユダヤ人の王、救い主がやがて誕生するということを聞いていたと考えられるからです。それで彼らがヘロデ王に会った時、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」と言ったのである。因みに、彼らがイエス様を礼拝したのは、イエス様の誕生後37~38日後の頃だと言ったが、同様に40日以内であることも確かである。それはルカの福音書(ルカ2:22~23、39)を見ると、イエス様の出産後、母であるマリヤはモーセの律法(レビ12章)に従って40日間のきよめの期間を、夫ヨセフと誕生したイエス様と過ごしたからである。東方の博士たちは、その期間にベツレヘムに来て、イエス様を礼拝したのである。

 今日は、このイエス様に対して東方の博士たちのささげた礼拝に焦点を当て、何故私たちはキリストの誕生をお祝いするのか、その理由を考えながら、真の礼拝とは何かについてメッセージを取り次ぐ。

【本論】

 何故私たちは贈り物を贈り合ってイエス・キリストの誕生をお祝いするのか?―結論を言う。その理由は、先ず神様御自身が私たちに贈り物をしてくれたからです。それも、私たちがどんなことをしてもこの世では決して手に入れることの出来ないただ一つのものを、私たちに贈り物として贈って下さったからです。それが、神の御子、ひとり子であるイエス・キリストです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16a)というみことばがそのことを言っている。

 この世の中で、どこに自分の「ひとり子」を、或いは、その人にとって「掛け替えのない大切なもの」を贈り物として与える人がいるだろうか?―いないだろう。しかし神様は、御子であるイエス様をその贈り物として私たちに贈って下さったのである。どうしてか?―それは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあるように、神様は私たちをそれほど愛しているからです。

 新約聖書はギリシャ語で書かれているが、ギリシャ語には愛を表す4つの言葉がある。①フィレオーという友愛を表す言葉。②シュトルゲという家族愛を表す言葉。③エロスという男女間の愛を表す言葉。そして、④アガペーという神しか持っていない愛を表す言葉。神様はこのアガペーという愛で私たちを愛されたのです。このアガペーの愛には、他の愛には無い幾つか特徴がある。それは、無条件の愛であること。そういう意味で先行する愛であること。また神しか持っていないと言う意味で、比類ない愛であるということです。次のみことばを見てみよう。

ローマ5:6~8:「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。5:7正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。5:8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

 ここに、無条件の愛、先行する愛、比類ない愛である神の愛が、みことばの通り明らかにされている。「無条件の愛」については、「私たちがまだ弱かったとき、…不敬虔な者であったとき、…、(情け深くなく)罪人であったとき、つまり、愛される資格などなかったとき」の愛であること、「先行する愛」については、「まだ…であったとき」とあるように、先行していた愛であった。「比類ない愛」については、「しかし、…」とあるように。この世にはあり得ない比類ない愛であることが分かる。そして、私たちが、どうしてイエス様の誕生を、贈り物を贈り合ってお祝いするのかという理由がここにある。それは、神様がこれほどまでに、御子であるイエス様を贈って下さったほどに私たちを愛して下さったからです。だから私たちも贈り物を贈り合い、イエス様の誕生をお祝いするのです。東方の博士たちが贈り物を贈って礼拝したように、私たちも礼拝するのです。しかし、私たちの贈り物は、東方の博士たちが贈った贈り物のように、確かに彼らの贈り物であった黄金、乳香、没薬は(黄金は黄金として、乳香は中東にある限られた植物から作られる神殿で用いる香の原料として、没薬も同じように限られた植物から作られる薬品、防腐剤として)非常に高価なものだったけれども、神様が私たちのために贈って下さったイエスに優ることはない。何故なら、私たちの贈るものはいずれ無くなり、永遠のものではないからです。

 しかし、神様が私たちに贈って下さった贈り物は、永遠に変わることのない贈り物だった。初めに読んだヨハネ3:16の、後の部分を見てみよう。

ヨハネ3:16:「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 「永遠のいのち」とは、私たちが死ぬことなく、いつまでも生きるということではない。「不老不死」ということではない。聖書の創世記1章をみると、私たちが神様によって造られた時、神様は地のちりで私たちの体を造り、そこにご自身の霊を吹き入れて私たちを神様の似姿に造ったとある。つまり、私たちは神の霊と同じ霊的存在だということ。そして、それが私たちの本質、私たち自身なのです。私たちは、霊、魂、体という3つの部分で出来ているが、この霊の部分が私たちの本質、私たち自身なのです。私は金子辰己雄というが、この金子辰己雄の本体、本質はこの神の霊の部分です。しかし聖書は、私たちの初めであるアダムが罪を犯したので、私たちの霊は神から切り離され、滅びる者になってしまったと教えている。

ローマ5:12:「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。」

 でもそんな私たちを救うため、神様は比類ない愛の神様だから、イエス・キリストを救い主として贈って下さった。それがクリスマスの贈り物のイエス・キリストです。次のみことばにある通りです。

Ⅰヨハネ4:10:「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

※「なだめの供え物」とは、罪を犯した私たちの代わりに、神の怒りの裁きを宥めるために十字架に架かって下さった身代わりの供え物ということ。だから私たちは神様に、また私たちのために「なだめの供え物」として贈られたイエス様に、礼拝、感謝をささげるのです。

【結論】

 だから私たちは、イエス様の犠牲、神様の愛に相応しい捧げもの、つまり、私たちも私たちの一番大切な私たち自身を、心から、すべてをささげる礼拝をささげるのです。これが「救い主への真の礼拝」です。聖書には次のようにある。


ローマ12:1:「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

―祈り―


 
 
 

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