top of page

2025.12.14 礼拝メッセージ:金子辰己雄師


【タイトル】

霊的戦い(10)「主を待ち望む者は、弱い時こそ幸い」

【聖書個所】

Ⅱコリント12:9~10

【前置】

 先週は、アドベントメッセージの一環として、「光を待ち望む者の幸い」ということで、救い主の降誕を待ち望んでいたシメオンを例に挙げ、光を待ち望む者は、その人の上にみことばが成就する、また、その人は平安な一生を送ることが出来るという幸いに預かることを学んだ。人が光を待ち望むのは、そこに光がないからで、光の中にいるならば光を待ち望むことはない。人が光を待ち望むのは、闇の中にいるからです。

 今日はアドベントメッセージの一環として、また、今年月一で語って来た「霊的戦い」の学びの10回目として、「主を待ち望む者は、弱い時こそ幸い」というテーマでメッセージを取り次ぐ。聖書個所はⅡコリント12:9~10。

Ⅱコリント12:9~10:「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。12:10ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

【序論】

 今日私たちは霊的戦いの学びの10回目をしているが、霊的戦いという言葉は、今日では教派を越えて普通に使われているが、この言葉は、1970年に、当時イギリス国教会の司祭だったマイケル・ハーパーという人が「霊的戦い、Spiritual Warfare」という本を出版してから、イギリスだけでなく、世界の各地で使われ始めたと言われている。それ以降、ピーター・ワグナーを始め、いろんな人がこのテーマでメッセージを語り、本を書き、癒しや解放のミニストリーを始めているが、しかし、パウロがエペソ6章の10節から18節で書いているように、霊的戦いというテーマは、聖書が書かれた1世紀から既に聖書のテーマの一つになっているのである。そして、特にパウロはこのテーマに関して多くのところで語っている。パウロほど、イエス様を除けば霊的戦いの最前線にいた人はいないのではないか。それは、パウロが対極の2つの霊的力を体験し、その2つの力の間にあって戦いをしていたからです。その2つの力とは何か?―今日はそのことを中心にメッセージを語る。

【本論】

(1)弱さのうちに現れる神の力

  パウロは、Ⅴ9:「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」と言っているが、どうしてパウロはこう言っているのか?―それは、前節を受けての言葉です。前節V8では何と言っているか?

V8:「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。」

 「このこと」というのは、パウロには何らかの弱さがあって、それは眼病とか何らかの肉体的病い、ある人は、それは偏頭痛、ある人は癲癇、ある人はマラリヤの後遺症と言っているが、それは定かではない。しかし、Ⅴ1~5a、V7に記されているように、パウロは誰も体験したことがないほどの、霊的に特別なことを体験し、天からの特別な啓示を受けたので、そのために高ぶることのないようにと、神様がパウロの肉体に与えた一つのとげであると、パウロ自身が語っている。

V1~5a、7:「無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。12:2私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に─肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、─第三の天にまで引き上げられました。12:3私はこの人が、─それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、─12:4パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。12:5このような人について私は誇るのです。」、V7:「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。」

 これは今日のテーマから外れるが、重要なことがここに記されているので触れておく。それは、パウロは「肉体に与えられた一つのとげ」、それが具体的に何なのか、どんな病い、どんな問題なのか分からないが、パウロはそれを「サタンの使い」と呼んでいることである。「サタンの使い」とは、サタンに仕える御使い、悪霊たちのことだが、なので、肉体上の病いとか肉体上に起きる問題は、サタンや悪霊たちのもたらすものなのだということです。神は御自身の造られた人、私たちに対して痛みや苦しみ、病いなどを与える方ではない。しかし神様は、ある結果的に良いことのために、サタンに許しを与えて、サタンや悪霊たちを用いることがある。ヨブの場合もそうで、このパウロの場合もそうだったのである。

 それでパウロも、そのサタンの使いである病や苦痛から、「三度も私から去らせて下さるように主に願った。」と言う。しかし、神様はどう答えられたか?―それが今日読んだ個所、Ⅴ9a~b:「…、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言う答えである。だからパウロはこう言った。V9c:「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」と。

※ここに、パウロが体験し、誇る「弱さのうちに現れる恵みの力、神の力」がある。それは私たちの弱さの内に現れるのだから、それは徹頭徹尾、神の力です。私たちのからだは、霊、魂、体で出来ているので、もし私たちの体が弱ければ、そこに現れるのは神の力だけです。神の力、神の霊は私たちがどんな弱くても変わることがないからです。

(2)生まれながらの特権、力を誇る肉の力

 パウロは、その恵みの力を体験する前までは、生まれながらの肉の力に頼り、それを誇っていた。パウロはそれをピリピ3章の中で語っている。

ピリピ3:4~6:「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。 3:5私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、3:6その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」

 しかし、そんなパウロもダマスコ途上でイエス様に会い、それ以来彼はイエス・キリストを主として崇め、そしてイエス・キリストのしもべとして、宣教のために熱心に働いた。その働きの中で受けた数々の痛みや苦しみをパウロはⅡコリント11:17~30で次のように述べている。

Ⅱコリント11:17~30:「これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話です。11:18多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。11:19あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。11:20事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。11:21言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、──私は愚かになって言いますが──私もあえて誇りましょう。11:22彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。11:23彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。11:24ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、11:25むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。11:26幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、11:27労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。11:28このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。11:29だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。11:30もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」

 神に仕える働きの中で、いろいろなことがあり、それに対して何も出来ない弱さを覚えたが、それでもパウロはその弱さを誇ると言っている(V30)。それは結局、生まれながらの優れた力は、この世の基準で言うなら誇るべき力であり、それはそれで素晴らしいものだが、パウロはそれらの力を誇ることなく、恵みによって与えられる神の力を誇ると言っているのである。

※ここに霊的戦いの本質がある。聖書は霊的戦いとは何だと言っているか?―

エペソ6:12:「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」

 パウロが言う霊的戦いとは、ここで「血肉」と言う「生まれながらに与えられた能力や特権」との戦いのことではなく、それを誇ろうとする高ぶりや自己満足、高慢の霊という霊との戦いだった。だから、パウロはこう言ったのです。

Ⅱコリント12:7:「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。」

※ここにパウロの霊的戦いがあった。弱さを認め、遜って神の力を誇るのか、特権として与えられた力に頼り、それを誇ろうとするのかという、二つの霊の力の間でも戦いです。パウロは特権として与えられた力によって働きたいと思い、そのために神に三度願ったが、神は、パウロがその結果として高ぶることがないようにと、肉体に一つのとげを与えたのである。しかし、それはパウロにとって良かった。結果、彼は神の恵みの力に頼り、それを誇るようになったからである。そして、こうまで言うことが出来るようになったのです。

Ⅱコリント12:10:「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

【結論】

 今、日本の教会は少子高齢化のために教会から子供の姿が消え、教会学校もなくなり、大人の礼拝出席者数も減少し、教会の数も、牧師の数もどんどん少なくなっていると言う。教勢がどんどん弱くなっていると言う。しかし、私は希望を失わない。何故なら、私たちの力が弱くなり、教勢も衰えて行っても、神の力は弱くなることもなく、衰えることもないからです。私はその神に希望を置きます。私はその神に目を留めます。主は全能なるお方だからです。主には不可能はないからです。

※今私たちに必要なのは、このようなメンタリティーです。このような信仰です。もう、「日本の教会は弱い、小さい、少ない。」と言うのは止めましょう。私たちは主にあって、「弱い時でも強い、小さい時でも大きい、少ない時でも多くあるのだ。」と告白しよう。

―祈り―


 
 
 

コメント


bottom of page