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2025. 9.21 礼拝メッセージ:金子辰己雄師


【タイトル】

黙示録(40)「結びの言葉①―最後の祝福と勧め―」

【聖書個所】

黙示録22:1~7

【前置】

 この箇所は黙示録の結びの箇所と言って良い所で、神が御使いを通し、イエス・キリストの黙示として、1世紀の終わりに、イエス・キリストを信じる信仰のゆえにパトモスという島に流された使徒ヨハネに語られた終末預言の終わりの箇所である。終末預言と言っても、これから来る終末についての預言ということではなく、ヨハネに語られた1世紀以降の今日を含めた終末の時を指している。だからその預言は、ただヨハネにだけでなく、1世紀以降の、今日生きている私たち、これから生まれるクリスチャンすべてに対しても語られたものである。そのことが黙示録の書き出しに記されていた。

黙示録1:1:「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。」

 そしてその内容は、「すぐに起こるはずの事」として、その終末の時代に起こることだけでなく、その時をどう生きたら良いかということを教えるためのものでもあるのです。

黙示録1:2~3:「ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」

 V3:「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」とあるが、聖書預言は、この黙示録の預言に関わらず、Ⅰコリント14:3にあるように、それを聞く者に、励まし、慰め、その人の信仰を立て上げ、キリストの似姿に近付くことが出来るようにするための命を与えるものなのです。

Ⅰコリント14:3「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」

 預言はそのために語られる。だから神はヨハネに、Ⅴ3:「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。」と言われたのである。

※「心に留める」とは、読んで、聞いて、ただ知的に理解するだけでなく、私たち信仰者の原動力、生きる力、いのちの源となることが出来るようにと、私たちの内深くに、霊の体の肉となり血とならせるということである。みことばを食べて、聞いて、咀嚼して、霊的体の栄養にするということである。

 だから今日も、神の言葉である預言のみことばを心に留めて行こう。今日の聖書個所は、黙示録22:1~7。この箇所から、「結びの言葉①―最後の祝福と警告の言葉」としてメッセージを取り次ぐ。

【本論】

黙示録22:1~7:「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。御使いはまた私に、『これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。』と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。『見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。』」


 この箇所には、キリストの花嫁である神の都、新しいエルサレムの姿が21章に続いて語られている。聖書は、その「都の大通りの中央を」、「神と子羊との御座から出て」、「水晶のように光るいのちの水の川」が流れていると言う。そして、その「川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。」と言う。「川の両岸」そして「十二種の実」と言うのだから、普通、木はその種の実しかならせないので、「いのちの水の川」の両側に6本ずつ、12本あるかのように思うが、「いのちの木」は英語の聖書で言うと、定冠詞の「The」が付いて単数形で書かれている。つまり、ある一つの重要な木を表している。それはキリストであり、私たちのために十字架に架かって下さったイエス・キリストを表している。そして、その木は創世記の初めに、「善悪の知識の木」と共に出て来ている。

創世記2:9:「神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。」

 何故アダムとエバはサタンに誘惑されたにしても、いのちの木には目を留めることなく、善悪の知識の木にだけ目を留め、その木の実を食べたのだろう?聖書にはその答えは書かれていないが、その理由は次のみことばにあるように思う。

イザヤ53:1~3:「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」

 このみことばは、私たちの救いと癒しのために十字架に架かり、死んで下さったイエス様の姿を表しているが、それだけでなく、私たちがそのイエス様をどう見たか、そのイエス様に対して何をしたかについても語られている。私たちはイエス様を、Ⅴ2:「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」者として見、蔑み、のけ者にして尊ぶことをしなかったのです。

※それが、初めに私たちがエデンの園で「いのちの木」であるイエス・キリストにしたことである。私たちは「いのちの木」の実ではなく、善悪の知識の木の実に心奪われ、その実を食べた。つまり聖書は、十字架のイエス・キリスト、「いのちの木」は、罪人の目には無価値で、何の見栄えもなく、輝きも、慕うような魅力もないということを示している。しかし聖書は、そのイエス・キリスト、「いのちの木」が私たちに救い、癒し、解放、回復をもたらす「祝福の木」となったと語るのである。

イザヤ53:5~6:「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

 この祝福の「いのちの木」が、今日私たちが読んだ、新天新地の神の都にある「いのちの木」なのである。私たちは罪を犯してからは、土地はそのためにのろわれ、私たちは一生苦しんで食を得なければならなくなった。土地は私たちのために、いばらとあざみを生えさせ、私たちは野の草を食べて、顔に汗を流して糧を得なければならない者になった。つまり、神の祝福を失った者、呪われた者となった。そして、エデンの園を追放され、エデンの園に戻ることがないようにと、いのちの木と私たちとの間に、「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」が置かれた。(創世記3:17~24)しかし、それもイエス様の贖いによって取り除かれた。それが神の都の中の、いのちの川の両側にある「いのちの木」である。いつも毎月12種の実を実らせる祝福に満ちた木なのである。それが私たちのものとなったのです。

 そして聖書は続けて、神の都での私たちに対する祝福を語る。

V3~V5:「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」ハレルヤ!

【結論】

V6~V7:「御使いはまた私に、『これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。』と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。『見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。』」

 前置の箇所で言ったように、神様は預言を通して私たちを祝福しようとされている。聖書の預言はみなそうである。だから、Ⅴ6:「『これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。』と言った。」のです。

 神様は預言を通して私たちを祝福されるのです。それがこの黙示録の預言の言葉である。黙示録は、この学びの初めに言ったが、信じない者にとっては恐ろしさを覚える裁きの書だが、信じる者にとっては神の祝福の言葉に満ちた預言書です。神様からのラブレターです。だから、そのみことばに心を留め、その預言の言葉をしっかりと守ろう。従って行こう。聖書は結論として、そういう者は「幸いである。」と言うのです。アーメン!

―祈り―

 
 
 

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