2025. 9.14 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
- 9月21日
- 読了時間: 9分
【タイトル】
黙示録(39)「キリストの花嫁である都の栄光の姿」
【聖書個所】
黙示録21:9~27:「また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。『ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。』そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。 また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。」
【導入】
V9~V10:「また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。『ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。』そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るの
を見せた。」
この御使いによって見せられた小羊の妻である花嫁とは、V2:「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」とヨハネが見た「聖なる都、新しいエルサレム」であるキリストの花嫁、私たちのことである。そして、ヨハネは続けて、その「聖なる都、新しいエルサレム」、「キリストの花嫁、私たち」がどのような姿であるかをここに書き記している。今日はその姿をて見て行く。
【本論】
V11:「都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」
先ずヨハネは、都である私たちには「神の栄光があった。」と言っている。これは素晴らしいこと。何故なら、私たちは皆、元々は神の似姿として造られていたからで、神の栄光があったからである。
創世記1:26a:「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。…。』と仰せられた。」
創世記1:27a:「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。…。」
「似姿」とは神の姿に似ていることなので、神の姿、神の栄光を現わす。しかし、私たちはその姿、栄光を、罪を犯した結果失ってしまった。しかし今、そして最終的には、イエス・キリストを信じた結果、イエス・キリストの贖いにより、その神の似姿、神の栄光は回復されたのである。新天新地が訪れた時、私たちは完全に贖われ、神の栄光に満ちた者になった。ハレルヤ!アーメン!
ヨハネはその栄光の輝きを、「高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」と言っている。恐らくそれは、他の言葉では表現できないからそう言ったのであって、実際にはそれがどのようなものか、私たちには到底想像出来ないだろう。そしてこの後、ヨハネはV12~V14で、都には高い城壁と12の門、その城壁には12の土台石のあること、つまり都の構造について記し、その都の大きさについてV16~V17に記しているが、それらは後にして、先に都の輝きについて見て行きたい。
V18~V21:「その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」
この箇所に出て来る城壁の碧玉とか、土台石になっている12の宝石については、具体的にどのような宝石か、いろいろ説があって分からないが、分かることは、恐らくこの世のどんな宝石よりも高価なものであり、また、これらの宝石の名前が、旧約の時代に神殿で仕える大祭司が身に付けたエポデにはめ込まれていた宝石の名前と殆ど同じであると言うことである。
出エジプト28:15~20:「あなたはさばきの胸当てを、巧みな細工で作る。それをエポデの細工と同じように作らなければならない。すなわち、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作らなければならない。それは、四角形で、二重にし、長さは一あたり、幅は一あたりとしなければならない。その中に、宝石をはめ込み、宝石を四列にする。すなわち、第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。第二列はトルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド。第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶、第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。これらを金のわくにはめ込まなければならない。」
このことは何を意味しているか?―それは、大祭司はキリストの象徴であって、都がキリストの花嫁であることを考えると、キリストの花嫁は、大祭司であるイエス・キリストの尊い代価の贖いによって救われたすべての人、ユダヤ人であっても異邦人であっても、その違いに関わらず、イエス・キリストを信じるすべての救われた人を指していることを意味している。旧約時代のアロンを始めとした大祭司たちは、高価な宝石をはめ込んだエポデを身に付けて、そのことを知ってか知らずか、その時からそのために用いられていたということである。パウロはその福音の奥義を次のように語っている。
ローマ1:16~17:「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」
※救いに預かってキリストの花嫁となる者は、高価な宝石のように尊いキリストの血潮と御体の代価による贖いを信じる者なのである。では次に、前に戻って、Ⅴ12~V17の都の構造と大きさについて見て行こう。
V12~V13:「都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。」
この姿は、エゼキエルが終末預言として見たエルサレムの姿と同じである。
エゼキエル48:31~34:「町の門にはイスラエルの部族の名がつけられている。北側の三つの門はルベンの門、ユダの門、レビの門である。東側も四千五百キュビトで、三つの門がある。ヨセフの門、ベニヤミンの門、ダンの門である。南側も四千五百キュビトの長さで、三つの門がある。シメオンの門、イッサカルの門、ゼブルンの門である。西側も四千五百キュビトで、三つの門がある。ガドの門、アシェルの門、ナフタリの門である。」
黙示録には、それぞれの門にあるイスラエル12部族の名前は記していなかったが、恐らくエゼキエルが見た幻のようであっただろう。そして、
V14:「また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。」
これにより、さっき言ったように、聖なる都エルサレムは、ユダヤ人であっても異邦人であっても、そのどちらもキリストの花嫁として完成されたものであることが分かる。そう!新しいエルサレムは、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、一人の人イエス・キリストの花嫁として贖われた者によって構成されているのである。これが新天新地の新しいエルサレムの構造である。次に、その大きさについて、Ⅴ15~V17に記されている。
Ⅴ15~V17:「また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。 また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。」
1スタディオンは185m。都は立方体でその一辺が12,000スタディオンと言うから、それは2,220kmで、その大きさは、約11,000,000,000km(百十億km3)。この大きさは、月の大きさ(約220億km3)の約半分で、その大きさの新しいエルサレムがキリストの花嫁である私たちの姿であるという。想像しがたいが、黙示録21:5e:「これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」と言うように、真実なのである。
そして、地球上のエルサレムには神殿があったが、新しいエルサレムには神殿がなく、神御自身と小羊であるキリストが神殿であるという。
V22:「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。」そして、
V23:「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」当然である。そして、
V24~V26:「国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。」
※ここにイスラエルの民が、また私たちが世の光として造られ、贖われたゆえの完成された姿がある。それまでは私たちは、この地において、「世の光」、「血の塩」として光を放ち、塩気を放って主を証しして行こう。人々はそれによって御国に入ることが出来るのです。しかし、
V27:「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。」
だから、私たちはそれまで、主を証しして行こう。
【結論】
今日は主の尊い贖いのみわざにより、最終的にはキリストの花嫁として、永遠にそのキリストの栄光に輝く者、新しいエルサレムとされた私たちの姿を見た。この姿はまた、夜空に輝く月のように、闇を照らす世の光でもある。これからも主が、私たち一人ひとりを、また教会を、このように輝く新しいエルサレムとして、またキリストの花嫁として用いていただくよう、祈って行こう!
―祈り―
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