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2025. 8. 3 礼拝メッセージ:金子辰己雄師


【タイトル】

「あなたの内なる光は明るいですか?」

【聖書個所】

マタイ6:22~23:「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」

【導入】

 50代からの女性向け雑誌ハルメクの発行元の株式会社ハルメクによる調査(対象:50歳~79歳の女性、約600人)によると、2024年1年間で健康のために掛けた費用は、全体平均で¥138,569で、前年より約1万円増。その内、運動系(ChocoZap等?)が¥40,584で、5千円増。健康食品・サプリメントが¥37,422で、約6千円増。医薬品・医療品が¥21,318で、1千5百円減。他は、マッサージ・整体、健康器具等。医薬品・医療品のための費用は、実際に具合が悪くなってから掛かる費用なので、減っているということは、運動系とサプリメント系が増えたため、健康状態がアップしたか維持されたために必要が減って下がったか、いずれにしろ、この年代になると体の健康に関する関心が強くなるということが分かる。一方、Z世代と呼ばれる1990年代後半から2010年代前半生まれの、10歳~30歳、所謂デジタルネイティブ世代の健康に関する関心はメンタルヘルスにあって、ストレスを貯めないとか、無理をしないとか、横のつながりを大事にするとか、それ以前の高度経済成長期の企業戦士とか働き蜂とか呼ばれていた私たちの世代とは大分違う。

 このように、今は体であろうと精神であろうと健康に関する関心が高い。では、私たちクリスチャンとしての霊性、霊的体の健康に対する関心はどうだろう?―それについて語っているのが、今日の聖書のみことばです。

マタイ6:22~23:「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」

 この聖書が書かれた時代、人々は昔から、目は体の窓で、目から太陽の光が体の中に入るので、目が悪いと、つまり健康でないと、太陽の光が体の中に入らないので、体は不健康になると考えた。また、古代ギリシャ人は、目から光が出て、それが物に反射することで物を見ることが出来ると考えた。だから、目が悪いと光も出ないので、全身も暗くなるという風に考えたという説もある。どちら正しいか分からないが、どちらも、物としての体、この肉体のことを言っている。それが、Ⅴ22~V23前半で言っていること。イエス様はこの考え方を元にして、「それなら、あなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」と、私たちの内なる人の体の明るさ、健康について弟子たちに問うている。「あなたのうちの光」とは、イエス様を信じてクリスチャンとなった私たちの霊性のこと。なのでイエス様は、クリスチャンになる前の古い私たちは、このギリシャ人のように、体の健康については良く知っていて高い関心を払っているが、新しくされたクリスチャンとしての私たちは、どれだけ霊的体の明るさ、健康度について関心を払っているだろうか、とチャレンジしているのである。「もし、新しい人としての光、その霊性、健康度が暗ければ、その暗さはどんなだろうか、とチャレンジしているのである。

 だから、今日私も私に対して、また教会に対して、キリストの体である教会の霊的健康度はどのくらいだろうか、とチャレンジしたい。―「私のうちの光、霊性は明るいです!霊的健康度は非常に良いです。」と、確信持って言える人はいるだろうか?―私は、自分も含めて、「私のうちの光は明るいです。」と確信持って言える者でありたい。何故なら、それが、イエス様が私たちに求めていることだからです。

 では、どうすればそのように確信に満ちて言えるようになるだろう?―それが今日のメッセージのテーマです。

【本論】

 結論は一つ。イエス様が古代人、ギリシャ人の考え方を引用して言ったように、私たちの「内なる人の目」を健全にすることです。明るくすることです。では、どのようにしたら目を健全にすることが出来るだろう?目を明るくすることが出来るだろう?ハルメクの調査結果にあったように、ChocoZapに行けば良いのか?健康食品、サプリメントを飲めば良いのか?…。そうではないですね!

 2つの、しなければならない、心がけなければならない大切なことがある。

(1)何はともあれ、神を第一にすること。

 「健全」という言葉は、「調和がとれている」、「混乱してなくて、単純化されている。一つになっている。」そのため「澄んでいる」というような意味がある。私たちの現実の信仰生活ではいろいろなことがあり、考え、判断し、選択して決めて行かなければならないことがある。現実を見ると、状況を見ると、どうしたら良いかと迷うことも多い。混乱です。そうするとどうなるか?―明るさを失うのです。

 だからイエス様は今日の聖書箇所の前後で、Ⅴ21:「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」、Ⅴ24:「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」と言っている。

 宝が多くあると、主人が沢山いると、どっちつかずで迷い、混乱し、霊性が濁って暗くなるというのです。その良い例がある。イエス様の所に、「どうすれば永遠のいのちを自分のものとして受けることが出来るか?」と訊ねに来た青年のこと。

マルコ10:17~22:「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。」

 この人の問題は、多くの財産を持っていたことではなく、多くの財産を神のようにしていたこと、律法を守ってはいたが、律法が真に教えていること、律法が本当に求めていることについては全く理解していなかったということ、つまり、神を霊的に真に理解していなかったこと、また、その神を彼の神としていなかったことである。そのため、彼の心は暗く曇っていた。そのために顔を曇らせ、悲しみながら立ち去って行ったのである。

※だから、神を第一にし、信仰を複雑にせず、単純化して、澄んだ信仰の心にすることが大切なのです。

(2)神との交わり―祈りとみことば―を大切にすること

 同じように、みことばの中に、このことが分かる良い例がある。

ルカ24:13~17:「ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。イエスは彼らに言われた。『歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。』すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。」

 イエス様が一緒にいるにも関わらず、イエス様が共におられるにも関わらず、彼らは「暗い顔つきになった。」と言う。どうしてか?ー「目がさえぎられていた。」からです。しかしこの後、その目が開かれる時が来る。

ルカ24:18~31:「クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。」

 どうして目が開かれたのか?

V27:「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」

V30:「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。」

※彼らは、「みことばの解き明かし」と「聖餐・みことばとの交わり」により、目が開かれ、健全になった。明るくなったのです。

【結論】

 私のメッセージの結論は、多くの場合、結局「神を神として第一にすること」そして、「神との交わり、祈りとみことばとの交わりを大切にすること」です。何故なら、この世のことは何であるにせよ、移り変わるものです。しかし、神は永遠に変わることはない。神の言葉も約束も、永遠に変わることはないのです。だから、私たちはどんな時も、みことばに、約束に目を留め、みことばから、約束からこの世界を見て、考え、判断し、歩んで行かなければならないのです。これが、イエス様が私たちにチャレンジしていることです。

―祈り―


 
 
 

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