2025. 8.24 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
- 8月31日
- 読了時間: 9分
【タイトル】
霊的戦い(6)「霊的戦いの原動力」
【聖書個所】
Ⅱコリント10:4:「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」
【前置】
甲子園での高校野球の試合では、礼節、スポーツマンシップの素晴らしさを見ることが出来る。それでも、負けた時の選手の涙と勝った時の選手の喜びようは、彼らの試合に対する思いを物語っている。私たちも戦っている。この霊的戦いの学びの初めに言ったように、私たちは、キリストを信じてクリスチャンになった瞬間から、自分の考え思いに関わらず、悪魔たちとの霊的甲子園の戦いの中に投げ込まれているのである。だとしたら、私たちはどう戦ったらよいだろう?この戦いのために、それも勝利の戦いのために必要なものは何だろう?―今日はそのことについて学ぶが、今日の聖書箇所は、先月読んだ箇所で、その時には、私たちの戦いの武器は神への従順という力強い武器であるということを学んだ。
今日も同じように、このみことばは、私たちが霊の戦いにおいて勝利を得るためには力が必要であることを教えているが、その力はどんな力だろうか?霊的戦いにおいて、私たちが勝利するために必要な力、勝利するための原動力は何だろうか?ということ―それが今日のテーマである。
【本論】
結論を言う。それは、神を思う心、神への尊敬心、神を恐れ敬う心から来る力です。その力を持った一人の人物に焦点を当て、その人が如何に戦いに勝利したかを見てみよう。その人物とはダビデです。
Ⅰサムエル17:45~47:「ダビデはペリシテ人に言った。『おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の【主】の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、【主】はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、【主】が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは【主】の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。』」
この箇所はご存じのように、イスラエル人とペリシテ人とが戦っている時に、ペリシテ人側の代表として出て来ていたゴリヤテに対してダビデが語った言葉。ダビデはこの後、彼がゴリヤテに語った通りに打ち倒した。それも剣や槍ではなく、彼が羊を野獣から守るために使っていた石投げ器と、その石投げ器から放たれた一つの石でゴリヤテに勝利した。この時ダビデの他には、誰もゴリヤテに立ち向かって戦おうとする者はイスラエルにいなかった。みなゴリヤテを恐れていたからです。彼らはゴリヤテの体の大きさや武具を着けた彼の姿におののいていた。その様はどのくらいだったか?
Ⅰサムエル17:4~7:「ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。頭には青銅のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅で五千シェケル。足には青銅のすね当て、背中には青銅の投げ槍。槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、槍の穂先は、鉄で六百シェケル。盾持ちが彼の先を歩いていた。」
六キュビト半とは、2.86m。(1キュビト:44cm)。五千シェケルとは、75kg(1シェケル:11.4g)。六百シェケルは、6.84kgになる。それだけでなく、ゴリヤテがイスラエルの陣営に向かって放った言葉によっても恐れた。
Ⅰサムエル17:8~11:「ゴリヤテは立って、イスラエル人の陣に向かって叫んで言った。『おまえらは、なぜ、並んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷ではないのか。ひとりを選んで、おれのところによこせ。おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。』そのペリシテ人はまた言った。『きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう。』サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。」
※このゴリヤテとイスラエルの民、またダビデとの戦いは、エペソ6:12が言う、神の民と悪魔の軍勢との戦い、私たちと悪の勢力に対する霊的戦いを象徴している。
エペソ6:12:「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」
悪魔たちは、神の子となった私たち、クリスチャンとなった私たちを妬み、憎み、何とかして私たちを倒そうと戦いを仕掛ける。しかしそれは、Ⅰペテロ5:8で言っているように、ただ遠くから吠える脅しの声に過ぎない。また、Ⅱコリント2:11で言っている、サタンの策略である欺き、偽りにしか過ぎないのであるが、
Ⅰペテロ5:8:「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」
Ⅱコリント2:11:「これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。」
サタンはそのようにして私たちを脅す。脅すだけでなく、私たちの神に対して不遜な態度をとり、そしるのである。ゴリヤテの言葉で言うならば、「なぶる」のである。「なぶる」とは、「ひやかす、いじめる、もてあそぶ、さいなむ、苦しめる」という意味。だから、ダビデはそのようなゴリヤテの声を聞いて、何もせずに立ちすくんでいるイスラエルの人々にこう言った。
Ⅰサムエル17:26:「ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。『このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。』」
※私たちにはこの態度、この姿勢、この心が必要である。悪魔たちとの戦いにおいて、私たちにはこのような大胆な態度、確信に満ちた言葉、力が必要なのである。
では、その態度、その力は何処から来るのか?―それが今日のメッセージの核心になるが、それは、神に対する尊敬心、恐れ敬う心、神を神として、神を思う心から来る。ダビデと同じように、神を神として敬い、尊んでいたもう一人の人を見よう。それはイエス様。イエス様も、サタンのように神を神とも思わず、自分中心であった、人々を欺いていた人たちに対して次のように言った。
ヨハネ2:13~17:「ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。『それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。」
「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」という言葉は、ダビデが神のことを熱心に思うがゆえに、人々からそしられ、なぶられていた時に、彼が詩篇の中に残した言葉である。
詩篇69:7~12:「私は、あなたのためにそしりを負い、侮辱が私の顔をおおっていますから。私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。私が、断食して、わが身を泣き悲しむと、それが私へのそしりとなりました。私が荒布を自分の着物とすると、私は彼らの物笑いの種となりました。門にすわる者たちは私のうわさ話をしています。私は酔いどれの歌になりました。」
私たちはどうだろうか?―私たちもダビデのように、神を熱心に思うがゆえに人々から食い尽くされ、また人々からそしられているだろうか?―或いは、悪魔や悪しき者たちから脅され、そしられ、食い尽くされそうになっているだろうか?―もし、私たちが神を熱心に求め、熱心に思うがゆえにそうなら、私たちは恐れることはない。ダビデのように、イエス様のように、大胆に悪魔や悪霊たちに向かって、「神を侮るお前たちは一体何者だ!神の民であり、神の子である私たちをそしり、欺こうとしているお前たちは一体何者だ。ここから退け!」と命じることが出来るのです!―それが、ダビデが石投げ器を使ってゴリヤテに投じた石である。ゴリヤテへの憤り、それは肉による憤りではなく、神を思うが故の、義憤である。何故なら、「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるもの」(Ⅱコリント10:4)だからです。
【結論】
私たちの悪魔たちとの戦いは、初めに言ったような、礼節のある高校野球のようなものではない。試合が終わって、互いの戦いを称え合うような戦いではない。私たちの戦いは、永遠のいのちに関わる、生きるか死ぬかの戦いだからである。
※私たちの霊的戦いの武器は、そのように、自分が何者であるかも弁えず、神に反抗し、神をそしる悪魔とその勢力に対する、聖なる、霊的な憤りによるもの。その武器は、「神の御前で、要塞をも破るほどに力のある」武器なのです。その武器を、私たちは聖なる義憤を持って使うのである。また、もし私たちが神の子ならば、その力がもう私たちに与えられていることを覚えよう!―だから、私たちは決して悪魔とその勢力に対して負けることがないことを覚えよう。そのみことばはどこにあるか?
Ⅰヨハネ4:4:「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」
ローマ8:33~37:「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」
だから、大胆に歩んで行こう。勝利の戦いを勝利して行こう。私たちの戦いの武器は、私たちが神を愛するがゆえに、神を思うがゆえに、神に対して熱心であるがゆえに与えられている、要塞をも破ることが出来るほどに力のある武具です。アーメン!ハレルヤ!
―祈り―
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