2025. 8.17 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
- 8月26日
- 読了時間: 9分
【タイトル】
黙示録(37)「サタンの滅びと最後の審判」
【聖書個所】
黙示録20:7~15:「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
【序論】
この箇所は2つの部分に分かれる。(1)サタンの滅びに関する箇所:V7~V10と、(2)最後の審判と呼ばれる大きな白い御座における裁きについての箇所:V11~V15の二つ。
【本論】
(1)サタンの滅びに関する箇所
前回、千年王国の到来の箇所を読んだが、その千年王国が終わると、その間地の深い所に投げ込まれて封印がされ、出て来られない状態になっていたサタンは、Ⅴ7:「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、」とあるように、地の深い所、牢から解放されると言う。そして、V8:「地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。」とある。
ゴグとマゴグというのは、エゼキエル38章、39章で、終末時にイスラエルとの間に起こるエゼキエル戦争と言う戦いを引き起こす国と、その王の名前である。マゴグが地名で、ゴグが王の名前。そして、この戦争は終末時のいつ起こる戦争か?というと、いくつかの説があり、患難期の半ば、反キリストが正体を現わしてイスラエルに対して敵対する時に起こる戦争だと言う説。それは、イスラエルでは、反キリストによって患難期の前半は周辺の国々と平和契約を結ぶので、皆安心して住んでいる時に突如反キリストが正体を現わし、イスラエルを攻めに来る連合国家の長となって、イスラエルと敵対するという戦いのこと。
エゼキエル38:14~16:「それゆえ、人の子よ、預言してゴグに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民イスラエルが安心して住んでいるとき、実に、その日、あなたは奮い立つのだ。あなたは、北の果てのあなたの国から、多くの国々の民を率いて来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団、大軍勢だ。あなたは、わたしの民イスラエルを攻めに上り、終わりの日に、あなたは地をおおう雲のようになる。ゴグよ。わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがあなたを使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るためだ。」
これは、神がゴグを用いて、ご自身の国であるイスラエルを攻めさせる預言であるが、その目的は、民の不信仰を懲らしめるためであったが、この預言の言葉の中で、終末時に起こる戦い、エゼキエル戦争のことが記されている。
また、エゼキエル戦争と言うのは、ハルマゲドンの戦いの一部、或いは、ハルマゲドンの戦いそのもののことでもあるという風に言う人もいる。ハルマゲドンの戦いの始まりのことが語られている黙示録15:12~16を見てみよう。
黙示16:12~14:「第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。彼らはしるしを行う悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」、V16:「こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。」
「日の出るほうから来る王たち」、「全世界の王たち」の中に、ゴグがいるのである。
或いは、今日の箇所にゴグとマゴグという言葉が出て来て、サタンと共に滅ぼされることが記されているので、エゼキエル戦争は、この時のことを指しているのかもしれないという説もある。
V9~V10:「彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」
いずれにしろ、前回、患難期が終わった時に、反キリストと偽預言者が火の池に投げ込まれたように、サタンも千年王国が終わった後に、こうして火と硫黄が燃える池という、永遠の苦しみの中に投げ込まれる。これがサタンの滅びである。サタンは霊的存在なので体は持っていないが、その霊が永遠に火と硫黄の池の中で苦しみ続けるのである。
(2)大きな白い御座における裁き、所謂、最後の審判と呼ばれている裁きについての箇所
V11:「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」
「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」というのは、Ⅱペテロ3章に記されていた、終わりの日には、この世の天と地は火で焼かれて消え去ってしまうということなのか、それは定かでないが、いずれにしろ、ヨハネは「大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。」と言う。この「大きな白い御座と、そこに着座しておられる方」とは、私はキリスト・イエスというよりも、父なる神ご自身だろうと思う。それは、キリストが地上で千年王国の王として治めることが終わると、最後の審判の前に、その王国を父なる神に渡されるとあるからである。
Ⅰコリント15:24~25:「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。」
そして、サタンが裁かれた後に、最後の審判の座が開かれるのである。そしてそこでは、
V12~V15:「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
こうして最後の審判の座が開かれると、死んだ者も皆よみがえって、最後の裁きを受ける。勿論、これらの人々は、前回学んだ第一の復活に預かっていなかった信仰者や不信仰者の人々です。しかし幸いなことに、ここでも信仰者はいのちの書に名が記されているので火の池に投げ込まれることはない。信じなかった人たちは皆、火の池に投げ込まれるのである。それを第二の死と言う。幸いなことに、第一の復活に預かった者はこの第二の死は何の力も持っていない。(黙示録20:6)勿論、最後の審判で、いのちの書に名が記されている者もそうである。しかし、それでも彼らは、数々の書物が開かれて、生前行なった行いによって裁かれるとある。これは、私たちが救われた後に、それぞれに与えられたタラント(マタイ25章)やミナ(ルカ19章)をどのように使って主に仕えたか、また、Ⅰコリント3:10~15で語られているように、私たちがキリストの体である教会にどのように仕え、また教会の建て上げのために、御国の建設のためにどのように働いて来たかに対する報酬のこと。
Ⅰコリント3:10~15:「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」
【結論】
このようにして、イエス様の贖いと私たちの働きにより、最後はすべての悪は裁かれ、すべての行いはそれに応じて正しく裁かれ、そして終わりを迎えるという。ちょうど企業の決算書(財務諸表)のように、決算書には主に二つのものがあるが、貸借対照表においては、私たちの負債はイエス様の贖いによって完全に消え、資産は、そのイエス様の贖いのゆえに、それを私たちのイエス様に対する負債として、資産も負債もバランスはゼロになり、損益計算書においては、イエス様が天の御国の譬えのところで、5タラント預けた人、また2タラント預けた人について弟子たちに語ったように、すべてがプラスに変えられるのである。
マタイ25:21(23):「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」
※私たちの信仰者の、最後の審判としての決算書はこのようになるのである。ハレルヤ!
そして、最後に、それゆえに、イエス様も御自分の国を父なる神に渡されたように、私たちも、与えられたすべてのものを神に返すのである。神に栄光を帰すのである。この救いの不思議、偉大さについて、パウロは次のように書いている。
ローマ11:33~36:「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
※私たちも、神にすべての栄光を帰そう!
―祈り―
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