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2025. 8.10 礼拝メッセージ:金子辰己雄師


【タイトル】

黙示録(36)「千年王国の到来」

【聖書個所】

黙示録20:1~6:「また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」

【序論】

 この箇所には、「千年」という言葉が5回あり、次回の聖書箇所、黙示録20:7~15のV7にも、「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され」と、1回出て来て、イエス様の再臨と共に、終末時代に到来する千年王国のことが語られている。聖書の中で、直接「千年」と言う言葉が用いられて、千年王国のことが語られているのはこの箇所だけである。

 今日は、何故、反キリストと偽預言者が火の池に投げ込まれたのにサタンはそうならなかったのか、また、患難期が追わったのに、どうして新天新地に直ぐにならず、千年王国という時があるのか?という、サタンに対する裁きが先延ばしにされていることと、その間に千年王国と呼ばれる時があるという、千年王国の持つ意味、千年王国が神によって設けられた目的、理由について考えたい。

 先ず、何故サタンの裁きは先延ばしにされたのか?―についてだが、この理由はたった一つ。この後、サタンを、そしてサタンだけでなく、神に従わずにサタンに従う者、神を信じない者のすべてを完全に裁くため、そして地上からすべての悪を完全に一掃するためである。その裁き、悪の一層についての詳細は次回になるが、そのために神は千年という期間を設けたのである。そしてそれが、神が千年王国を設けた目的、理由の一つでもある。

 なので、今日のメッセージのテーマは、二つ目の「どうして千年王国というものが設けられたのか」という千年王国が持つ意味、神が千年王国を設けられた目的と理由について語ることである。

【本論】

 先ず、「千年」という言葉について。これについては、これは象徴的なものであって、文字通りの千年ではないという人々もいるが、私は、そして多くの教会が信じているように、これは文字通りの千年だと信じる。でなければ、千年王国に関する箇所で6回も繰り返して、それも具体的に語られることはないだろう。しかし、何故「千年」なのか?―百年では駄目だったのか、神には何でも出来るのだから、五百年でも良かったのではないか、と思うが、何故なのだろうか?―これは、私たちが聖書や神について考える時、よく直面する疑問である。しかしそれは、どうして「神は三位一体なのか?」について私たちが明確に答えられないように、私たちには分からない神の主権によって決められたことなのである。

 ただ一つ、次のペテロの言葉に、どうして神は「千年」という時を設けてキリストが支配する王国を備えられたのか、の理由を窺い知ることの出来るヒントがある。

Ⅱペテロ3:8~10:「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」

 このみことばは、ペテロが異邦人社会に生きるクリスチャンたちに対して、終末になると、私たちの再臨信仰を骨抜きにし、空しくさせ、誤った生き方や放縦に走らせて滅ぼそうとする悪しき教えが来るので、それに注意するために書かれた、終末に生きるクリスチャンへのメッセージであるが、その中でペテロは、Ⅴ8b:「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」と言っている。それは、Ⅴ9~V10:「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」とあるように、「やがて主が盗人のようにやって来て再臨されると、この天と地は火で焼き尽くされて消えてしまう。だから、それまでに一人でも滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むことが出来るように、忍耐を持って待っておられる。計画しておられるのだ。」ということを言うメッセージである。

 そして、この箇所は直接的に千年王国のことを言っているわけではないが、何故千年王国は設けられているのだろうか?の答えを彷彿させる箇所である。つまり、千年王国が設けられているのは、最終的な最後の審判が来て、天と地が火で焼き尽くされて消え去ってしまうまでに、一人でも滅びることなく悔い改めに進むことを望んでいるからだ、という神の私たちに対するみこころを示している箇所である。つまり、神は千年王国の時であっても、一人でも滅びることなく、悔い改める人が起こされることを望んでいるということである。すると、このことから私たちは、千年王国と言う国がどういう国であるかを理解することが出来る。

 千年王国とはどういう国?―それは、千年王国は確かに再臨されたキリストと、Ⅴ4:「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」とあるように、患難期に、また患難期に至る前や今日でも、キリストを信じる信仰のゆえに迫害にあったすべての人、ダニエル12:1~2によるならば、旧約時代の神を信じる信仰者たちも含まれるが、真の信仰者たちが、Ⅴ4~V5で語られているように、第一の復活に預かり、キリストと共に千年の間、地を治める国である。

ダニエル12:1~2:「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。」

 しかし、これはそうであれば良いのだが、新天新地のような完全なものではない。千年王国は、全く同じではないが、ちょうど罪を犯す前のアダムとエバが置かれていたエデンの園のようなもの(創世記1:15)で、神は、終わりのアダムであるキリストによって私たちを贖っただけでなく、私たちを再創造し、アダムが罪のために失ったエデンの園のような国を、キリストと共に治める者として下さったのである。その国は、イザヤ2:1~4、イザヤ11:6~10、イザヤ35:1~10等で描かれている国のようである。限りはあるが、義と平和と喜びに満ち、動物も人間も互いに殺し合うこともなく住むところである。何故、限りがあるかというと、千年王国には、サタンは地の深い所に閉じ込められているので、千年王国にいる人たちには、Ⅴ2:「それが諸国の民を惑わすことのないようにした。」とあるように、サタンの惑わしの霊は働かないが、そこに患難期を通り抜けて来た人たち、また千年王国の間に生まれて来た人たち、千年の間には、それ以前と同じように、人々は産まれ死んで行く中で、今日と同じように、罪を犯す人も出て来るのである。エデンの園でアダムが罪を犯したように。

 しかしその間でも、先ほど言ったように、神は一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことの望んでおられるので、千年王国の間でも救われる人が起こされるです。ちょうどノアの時代の時のように。神はノアに箱舟を造らせ、その間の70~80年の間、神は人々が箱舟に入るのを待っていたが、結局ノアの家族以外は誰も入ることはなかった。千年王国はそのような時のようなもの。 神はこの後、患難期からそのまま千年王国に入った人々や、その間産まれ死んだ人々も含め、第一の復活に預かった人以外のすべての人々の最終的な裁きを、この後の最後の審判でするが、神はその時まで、忍耐深く待っているのである。

【結論】

 今日の結論は、千年王国の到来の目的は、次回の「サタンの滅びと最後の審判」が為される前の、神の最終的な救いのための猶予期間のようなものであるということ。そしてここで、Ⅴ6:「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。」と言われているように、結局、最終的にどんな時に生かされているにしても、「幸いな者、聖なる者である。」と言われているように、イエス・キリストを私たちの救い主として、何があっても最後の最後まで信じて歩むことの大切さが語られているということ。 またこれは、このイエス様がされた譬え話が終末の時の譬え話として、①患難期の後の千年王国に入る前の裁きの時(マタイ25:32~)なのか、②同様に千年王国に入る前の、信者の報酬を決めるための裁きの時(Ⅰコリント3:10~15、Ⅱコリント5:10)なのか、③最後の審判の時の、どの時のことかは別にして、イエス様が弟子たちに語った次のメッセージは、この時の千年王国の時に、或いは、その後の最後の審判の時に信仰者たちに語ったものでもあるのである。その箇所を読んで、今日のメッセージのまとめとする。

マタイ25:21:「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」

マタイ25:31~34:「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』」

―祈り―


 
 
 

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