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2025. 7. 6. 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

Ⅱコリント3:6~9

【タイトル】

「栄光あふれる私たちの資格」

Ⅱコリント3:6~9:「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。」

【導入】

引用例話:ある時、新米刑事とベテラン刑事の二人が逮捕状を持って容疑者の家に行った。ベテラン刑事は新米刑事の経験のため、始め一人で行かせた。新米刑事は恐る恐る玄関ドアに近付き、ドアを叩き、こう言った。「もしもし、こちらは警察です。〇〇さんはいますか?ドアを開けて下さい。」すると中から声があり、「そんな奴はいない。もし居てもお前なんかに捕まらないよ。とっとと帰れ!」と、怒鳴り返す声がした。するとその新米警察官はベテラン警察官の所に戻り、「中から人が・・・と言っています。どうしましょう?」と言ったと言う。こんなことアメリカであると思うか?―ないだろう。ではこの後どうなるか想像つくと思うが、ベテラン刑事はその家に行き、玄関ドアをドンドンと叩き、バッチを持って、「警察だ。ドアを開けろ。開けなければ、蹴破って入るぞ!」そして、その通りドアを蹴破って中に入り、容疑者を捕まえて家から出て来る。そんなストーリーになるだろう。どうしてベテラン刑事はドアを蹴破ることは別にしても、家の中に入り、容疑者を逮捕することが出来たのか?

 これが今日、私たちが聖書から学ぶメッセージのポイントに関連している。勿論、人をどう逮捕するという話ではなく、クリスチャンとしての資格の話です。刑事であれば、新米であろうとベテランであろうと、国が認めた刑事のバッチを持っている限り、刑事としての働きをすることが出来る。それだけでなく、裁判所から、つまり国から出された逮捕状がある限り、問答無用で容疑者を逮捕出来る。資格というものにはそのように大きな力がある。つい先週も、これは未だ確定している話ではないが、ある市長が、大卒の資格もないのに卒業していたかのように偽っていたという話があった。勿論、市長になるのに大卒資格が必要だという言う話ではなく、どうしてそんなことをしたのだろうかということが話のポイント。世間体や見栄があったのかもしれない。しかし、それだけでなく、多くの人が大卒になっている時代なのだから、「せめてこの位の資格は」というような意味で偽っていたのかもしれない。つまり、それだけ資格はモノを言うということ。資格の有無は大きな違いをもたらすということ。

 そして、それは私たちクリスチャンにも当てはまる。私たちに資格があるかないかということは重要なこと。今日はそのことを学ぶ。

【本論】

 では、聖書は私たちにはどのような資格があると言っているだろう?

V6a~b:「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。」

 聖書は私たちには、「新しい契約に仕える者となる資格」があると言っている。この「新しい契約」とは、次の箇所に、「文字に仕える者ではなく」(V6b)、「石に刻まれた文字による、死の務め」(V7)、「モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえに」(V7)とかいう言葉があるように、モーセが神から守るべき掟として、石の板に刻まれた十戒に基づくモーセの律法を中心にした、所謂、新約に対する古い契約、旧約と呼ばれている、イエス様の十字架によって成就した律法を中心とした古い契約に対峙するものです。

 パウロはここで、「新しい契約に仕える者となる資格」が持つ栄光は、古い契約に仕える者の持つ栄光と比べたら、いかに素晴らしいものであるかを表すために、物事の比較を表す言葉を使って、次にように言っている。

V7~V9:「もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。」と。

 モーセは荒野の生活を送っている時、個人的な神との交わりのために、それだけでなく、民を導くための指導を神から得るために、会見の天幕と呼ばれていた幕屋に入り、祈っていた、神と語り合っていた。これはモーセの祈りの生活です。祈りは、前回のメッセージでも語ったように、ただ嘆願だけが祈りではなく、神と一致するため、神のみこころと一つになるため、神のみこころを自分の心とするためのものでもある。そのためにイエス様は弟子たちに主の祈りを教える時、どう祈ればよいかについて、次のように教えた。

マタイ6:6:「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

 モーセもそのために、会見の天幕、自分の奥まった部屋に入り、戸を閉めて、隠れた所におられる父なる神に祈っていた。あなたもそのように祈っているか?―そのように個人の祈りの生活をしよう。

 モーセはそのように祈っていたが、しかし聖書は、この時のモーセの、石の板に記した文字に仕える者、古い契約に仕える者としての栄光は、私たち新しい契約に仕える者としての栄光に比べたら、栄光のないものに等しいほどのものであるとパウロは言っている。

V10:「そして、かつて栄光を受けたものは、この場合、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。」

 そのモーセが受けた栄光の箇所を見てみよう。

出34:29~35:「それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は【主】がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。モーセが【主】の前に入って行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すために入って行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。」

 それをパウロはこの箇所で、Ⅴ7~V8:「もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。」と言って、私たちの持つ栄光は、モーセの持つ栄光に比べたらいかに優れたものであるか!と言っている。

※私たちの栄光というのは、モーセが自分の栄光が消えるのを隠すために、自分に覆いを掛ける必要があったようなものではなく、決して消えることも、薄れることもない、永遠に変わることのない栄光なのだと言うこと。

 もう一つ、「さらにすぐれた栄光」とは、V9:「罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。」とあるように、「義とする務め」の持つ栄光である。古い契約、モーセの律法には、罪を自覚させ、罪に定める務めはあるが、新しい契約のように、永遠に罪の赦しを与え、義とする力はない。

ローマ3:20:「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」

 古い契約では、ただ「罪の意識が生じる」だけではなく、「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるように、最後には死の実を結ぶのです。しかし、パウロが言うように、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって罪の赦しが与えられ、死ではなく永遠の命が与えられ、神の義の実を結ぶ者となった。

※私たちには、この「義とする務め」という、古い契約では決して為しえることの出来ない新しい契約に仕える者としての、すべてに優る素晴らしい栄光がある。このことを覚えよう。そして、そのことに関して重要な点は、これらの資格は、私たちの何かによることではなく、一方的に恵みとして神から与えられたものだということである。

V5:「何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。」

【結論】

 私たちは、何と言う特権を与えられていることだろう!何と言う資格を与えられていることだろう!―だから、この特権、資格を活かし、あの新米刑事のように、その資格、栄光が与えられていることの自覚の足りない者ではなく、また、そのためか、恐る恐るでもなく、私たちは大胆に、パウロが言うように、私たちの持っている栄光を隠すことなく、言葉において、態度、行いにおいて、輝かせて行こう。

V12~13:「このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。」

―祈り―


 
 
 

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