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2025.10.26 礼拝メッセージ:金子辰己雄師


【タイトル】

霊的戦い(8)「闇は光に打ち勝たない」

【聖書個所】

ヨハネ1:5:「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」

Ⅰヨハネ1:5~7:「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

【序論】

 私たちの霊的戦いにおける勝利の根拠は、今日のみことば、ヨハネ1:5:「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」にある。何故なら、霊的戦いは光と闇の戦いであり、闇はこれ(光)に勝利することが出来ないからです。光が闇に勝利するのです。

 私たちが読む聖書のテーマは何か?―ヨハネ3:16にそのテーマが凝縮されていると言うように、聖書は神の愛による私たちの救いのことが記されているものだといえるが、別の見方をするなら、聖書は霊的戦い、闇と光の戦いのことが記されているものだとも言える。聖書を開いて見よう。

創世記1:1~4:「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が、「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。」

 初めに神が天地を創造した時、聖書は、その時から闇と光との戦いが始まったことを啓示している。初めは何も無く、闇しかなかった所に、神が「光よ。あれ。」と言われたら光が出来た。そして、神はその光を「よしと見られた。」とある。そのようにして、「神はこの光とやみとを区別された。」という。闇と光との戦いはここから始まっている。

 今日世界では、人種間、世代間、貧富の差による対立や分断に加え、信条や立場の違いによる対立や分断が大きくなっている。その両者の間の戦いが激しくなっている。それと同じように、神がこの天地を造られた時から、光と闇の対立と分断、戦いが起こり、その戦いがずーっと続き、最後の黙示録で、その戦いが、光の完全勝利で終止符が打たれることが語られている。私たちはそれを黙示録の学びで学んだ。そこから考えると、私たちはその途中にあり、今は大分終わりには近づいているが、闇と光の戦いを続けている。そのように、最後は光は闇に完全勝利するということを理解した上で、今日の箇所を見てみよう。

【本論】

 私たちは、最後には「光は闇に勝利する。」という中に生きているが、そこに至るまでは、私たちは勝ち負けのシーソーゲームの中にある。そんな中で、どうすれば私たちは完全勝利が出来るだろうか?―それが今日のテーマ。もう一か所の聖句、Ⅰヨハネ1:5~7を開く。ここに勝利し続けるための鍵がある。

Ⅰヨハネ1:5~7:「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

 その鍵は、Ⅴ7です。

Ⅴ7:「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

 聖書は、V5:「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」とあるように、神は光であることを伝えている。そして、Ⅴ7にあるように、光の中にあるとも言う。だから私たちは光の中にあるなら、光の中を歩んでいるなら、光との交わりを保っているなら、Ⅴ7:「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあるように、私たちは罪に対して、闇に対して完全勝利をするのである。

 しかし、ここに戦いがある。何故なら、闇もまだあって、私たちを闇の中に歩むようにと働いているからである。そのことをV6は言っている。

Ⅴ6:「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。」

 私たちの霊的戦いというのは、悪霊追い出しや癒しのための病の霊に対する戦いだけではない。私たちの戦いは、日々の信仰生活、みことばと祈りの生活の中で起こる。いつも私が言うように、みことばと祈りの生活は、私たちの信仰生活の基本であり、それが、私たちにとって「光の中を歩む」ということである。何故なら、みことばは私の足の灯、道の光(詩篇119:105)だからです。問題は、その基本をなかなか実行することが出来ないということです。聖書が言うように、「神と交わりがあると言っていながら、闇の中をも歩んでいる」ような信仰生活を送ることがあるので、勝利が出来ない。

 聖書を読もうとする時、或いは祈ろうとする時、霊的戦いを経験することはないか?―なかなか読み始められなかったり、なかなか祈り始められなかったり。読み始めたり祈り始めても、集中できなかったり、聖書を読んでもよく分からなかったり、何を祈ったらよいか分からなかったり、それですぐやめてしまう。諦めてしまうということはないか?―まさにそれが霊的戦いです。

 ある方がこう言った。「聖書は私たちを罪から遠避けるが、また、罪も私たちを聖書から遠避ける。」と。これはどういうことか?―聖書は神の言葉であり光だから、光が私たちの心に差し込むと、私たちは罪を意識し、罪から離れるように方向転換、つまり悔い改めの思いを与えてくれる。それがみことばの働きであり、聖霊様の働きだから。(ヨハネ14:8)しかし一方で、「罪も私たちを聖書から遠避けるのです。」何故なら、「光の中を歩んでいると言いながら、闇の中をも歩んでいるなら」、「光を愛すると言いながら、闇をも愛するなら」、光と闇は共存できないので、光は私たちから離れて行く。結果的に罪が私たちを聖書から、光から遠避けるのです。イザヤ59:1~2の御言葉の通り。

イザヤ59:1~2:「見よ。【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

 こうして私たちは霊的戦いに敗北してしまうのです。なので、日々の霊的戦いにおける勝利のためには、みことばが言うように、「神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩み続けること」が重要。そして、これは結局、選択の問題です。光を求めるか、光を愛するか、闇を求めるか、闇を愛するかという選択の問題です。

 今も昔も、光であるイエス様、光である聖書の前には2種類の人がいる。イエス様に出会い、聖書に出会い、その後、光であるイエス様、聖書から離れないで、その中に留まり続けて歩む人と、自分の目的が達成してしまったら離れてしまう人との2種類の人。ルカ17章に出て来る10人のらい病人のように、癒されて、イエス様の所に神をほめたたえながら引き返し、イエス様の足元にひれ伏して感謝をした一人のサマリヤ人のような人と、癒されたけれども、神を崇めるためにイエス様の所に戻って来ることのなかった9人の人々、そのような2種類の人々です。また、ルカ5章に記されているように、ガリラヤ湖畔で群集への教えをし、それが終わると、ペテロに沖に漕ぎ出して網をおろして魚を獲るように命じた時、ペテロは、「私たちは夜通し働いたが、魚一匹撮れなかった。でもおことば通り網を下ろしましょう。」と言って下ろしてみると、大量の魚で網が破れそうな奇跡を、ペテロだけでなく、他の漁師たちも見て驚いた。しかし、それを見て「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言ったのはペテロだけだった。(ルカ5:8)そして、舟が陸に着くと、他の人たちも同じ奇跡を見たが、何もかも捨ててイエス様に弟子としてついて行ったのはペテロだけだった。彼は光に出会い、みことばに出会って、光の中を、みことばの中を歩み続けたのです。

【結論】

 皆さんはどうか?―私たちは皆、光であるイエス様、光であるみことばに出会っている。今、私たちはそのイエス様の中に歩んでいるだろうか?光の中を歩んでいるだろうか?―それとも、神と交わりがあるといいながら、闇の中を歩んでいるだろうか?―どちらを選択して歩んでいるだろうか?


 ペテロのように、私たちはイエス様に出会い、救いという神の奇跡を体験した。奇跡を体験する目的、理由は、そのこと自体にあるのではなく、ペテロのように罪から離れ、イエス様に従って行くためです。だから、もし、今までは闇の中を歩んでいたけど、今日から光の中を歩みます。歩みたいと選択をするなら、御一緒に祈ろう。ヨハネはこの後で次のように言っている。

Ⅰヨハネ1:9:「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 イエス様の中にある者として、勝利の生活を送ろう!

―祈り―



 
 
 

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