2025.11. 9 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
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【タイトル】
「私たちはもう安息に入っています。」
【聖書個所】
ヘブル4:1~10:「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです。『わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。』と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、『そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。』と言われました。そして、ここでは、『決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と言われたのです。こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、神は再びある日を『きょう。』と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」
【前置】
10月29日には、この箇所から「今日も神の安息に入っていますか?」というテーマでメッセージを語った。今日は同じ個所より、「もう私たちは安息に入っています。」というテーマで語る。
今日語ろうとしている安息は、「働いている」の対極にある「休んでいる」という意味の肉体的、精神的安息のことでなく、霊的な安息のことである。では、この世の安息=肉体的、精神的安息と霊的な安息との違いは何か?―この世的な安息は、「働いている」という「労働」と関りがあるように、一日働いて休む。しかし、それが終わるとまた働くというように、「働き」と「休息」が繰り返される「安息」である。そういう意味で「初めがあって終わりがある」という「安息」でもある。
2019年に施行された働き方改革法によると、長距離トラックの運転手は、疲れていようと疲れていまいと、4時間運転したら30分休まなければならないという。しかし、大して疲れていないのに休まなければならないということが却ってストレスになり、休みが休みでなくなる。安息が安息でなくなるようだ。それがこの世の安息というもの。しかし、霊的安息というものはそうではない。初めもなく終わりもない。だから繰り返される必要のない、永遠に無条件にある安息なのである。それが今日のテーマ。そしてここにグッドニュースがある。聖書は、その霊的安息があることを明らかにし、その安息に入るための道を教えている。それが今日のメッセージです。
【本論】
今日のメッセージの鍵の個所は、一か所、V3です。
V3:「信じた私たちは安息に入るのです。『わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。』と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」
この聖句の中の重要な箇所は、「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」という箇所。これは何のこと?―「みわざ」とは何か?何のみわざのことを言っているのか?―それは、「創世の初めから、もう終わっているのです。」とあるように、この世界の創造のみわざ、創世記1章に記されている、光の創造から始まって、人類の初めであるアダムとエバの創造までの、6日間で為された神の創造のみわざのことを言っているのだろうか?それも関係している。しかし、この「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」の「みわざ」というのは、この世界の創造それ自体のことではない。この箇所を詳訳聖書で見てみる。
詳訳聖書・ヘブル4:3:「信じた<神につき従い、信頼し、より頼んだ>私たちは、この休みにはいるのです。それは、「私は怒って、彼らを私の休みにはいらせないと誓ったように」と神が言われた時に、〔信じない〕者ははいれないと言明されたとおりなのです。神は、〔その〕みわざが世界の創造の初めから完成されていた<備えられて〔信ずるすべての者を待っていた〕にも かかわらず、このように言われたのです。」
「みわざ」というのは、詳訳聖書によるならば、「〔その〕みわざ」と記されている「みわざ」のことで、それは、この詳訳聖書を読めば明らかなように、それは直接的に創造のみわざのことではなく、その「みわざ」は、「世界の創造の初めから完成されていた<備えられて〔信ずるすべての者を待っていた〕」と言われているように、「神によってもう既に完成されていて、そして、信じる者に神が与えようと備えられ、また待っている休み、安息」のことである。つまり、「信じる者に与えられる救い、贖い」のことなのです。
そしてここでは、その安息というものが、神が6日間働き、そのすべての創造のみわざを終えられ、そして7日目に休まれたという神の安息のことと重なるように語られている。それで、この箇所の理解を難しくしているのだが、聖書は、神は、今はすべての創造のみわざを終えられて神の安息に入っているのだから、それと同じように、信じる者に与えられる救いとしての安息に入るための約束も残っているので、そこに入るにはただ信仰が必要であると言っているのです。逆に言うなら、信仰がなくてはそこに入ることが出来ないと言うのです。
V1~V3:「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです。『わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。』と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」
この「もう終わっているのです。」というのは、「完成している。完了している」という意味の言葉。その意味を持つ「ギノマイ」というギリシャ語の言葉がここで使われている。つまり聖書は、私たちの救い、贖いという安息は、もう世界の創造の初めから終わっている、完成している、完了していると言う。このことを私たちの知性で理解することは難しいが、神はそう計画されたのである。そのことを想起させるみことばが聖書には幾つかある。
エペソ1:3~5:「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
とあり、ということは、創造のみわざの初めから、神様の側では、今日のみことばのように、「私たちの贖い、救い」という安息、神の安息」はもう完成している、もう完了しているということなのである。それが、創世記3:15の原福音として語られていること。
創世記3:15:「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
このことを理解するのは難しいが、神のことを考えてみると分かる。神には初めも終わりもない、神には過去、現在、未来と言う、私たちが生きているこの世の時間という縛りはないからである。神はいつも永遠であり、いつも今であり、その神がこの4次元の世界を造り、それを貫き、それを越えて存在して、すべてを治めておられる、私たちには理解することの出来ない偉大な神なのです。ちょうど人が遺伝子の中に組み込まれているすべての遺伝情報で作られるように、また、人がロボットを、その中にすべての情報が書き込まれたチップを埋め込んで作るように、私たちの救いと言う安息も、私たちの贖いという安息も、私たちが得ることが出来るように造られたのである。そして、それにスウィッチが入って、動き始めるのに必要なのが「信仰」なのです。信仰がなければ、神の安息に入ることは出来ないのです。「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」(ヘブル4:2)とある通りです。
神は、世界の創造の初めから、信じれば救われる、信じれば罪の贖いはなされるという救いの計画を備えておられたのです。イエス様の救いのみわざは、その時至って為されたみわざです。
ガラテヤ4:1~5:「ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」
【結論】
このように、神の御計画にあっては、もう創造のみわざも救いのみわざも為されたので、今はただ神を信じるだけで、イエスキリストを信じるだけで、私たちは全き安息に入ることが出来るのである。そして、信じる者は、もうすでにその安息に入っているのです。
ヘブル4:10:「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」
※皆さん、安息しているだろうか?―聖書が言うように、信じることによって安息しよう。もし安息していないのなら、聖書が言うように、「神は再びある日を『きょう。』と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』と語られたのです。」(V7)とあるのだから、不信仰にならないで、不従順にならないで、神を信じて安息しよう。
―祈り―
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