2025. 7.13 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
- 7月20日
- 読了時間: 9分
【聖書個所】
黙示録19:1~10
【タイトル】
黙示録(34)「ハレルヤ!我らの神を賛美せよ!」
【前置】
今日から19章に入るが、いよいよ、大バビロンへの裁きが終わり、主イエス・キリストの再臨と世界最終戦争であるハルマゲドンの戦い(黙示録19:11~21)、キリストによる千年王国の訪れ(黙示録20:1~6)、そして、悪魔の滅びと大きな白い御座での裁き(黙示録20:7~15)と新天新地の到来とその完成(黙示録21:1~22:5)に向かっているところである。100メートル走で言えば、ゴールを少し先に見て、スタートダッシュしている辺りのところ、三段跳びで言えば、助走を終え、ホップ、ステップ、最後のジャンプを目ざして踏切板を踏もうかとしているようなところ。ゴールは見えるけれども、未だ暫く信仰を働かせなければならないところである。今日も一緒にその箇所を走って行こう、読んで行こう。
黙示録19:1~10:「この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。』彼らは再び言った。『ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。』すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、『アーメン。ハレルヤ。』と言った。また、御座から声が出て言った。『すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。』また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。』御使いは私に『小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。』と言い、また、『これは神の真実のことばです。』と言った。そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。『いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。』」
【序論】
この箇所には、「ハレルヤ」という言葉が4回出て来る。V1:「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。」の「ハレルヤ」、Ⅴ3:「ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。」の「ハレルヤ」、Ⅴ4:「すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、『アーメン。ハレルヤ。』と言った。」の「ハレルヤ」、そして最後に、Ⅴ6:「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。」の「ハレルヤ」の4回。そして、新約聖書で「ハレルヤ」という言葉が出て来るのは、この箇所しかない。詩篇では、特にハレルヤ詩篇と呼ばれる146篇~150篇が「ハレルヤ」で始まり、「ハレルヤ」で終わるように、多くの箇所で「ハレルヤ」と言う言葉を見ることが出来るが、新約聖書ではこの箇所の4ヶ所だけである。なので今日は、新約聖書、それも、終末の神の裁きのことが多く書かれている黙示録のこの箇所で、どうして「ハレルヤ」と言うのかを一緒に考えたい。
【本論】
(1)先ず最初のハレルヤ、V1:「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。」について。
ヨハネは大バビロン、この世を支配している悪魔が支配している国に為された神の裁きの幻を見た後、天で大群衆が、V1b~V2:「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」と言うのを聞いた。この大群衆と言うのは、黙示録7章と14章に出て来る、反キリストの刻印を受けずに、神の名が額に記されている144,000人を代表とする神の民のこと。この大群衆が天で、「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」と、大きな声で賛美していると言う。それはどうしてか?―それは、神が正しい裁きを為したからである。それも、神の民がずーっと待ち望んでいた神の正しい裁き、悪に対する正しい報復が為されたからである。
患難期に入る前でも、患難期に入ってからでも、神信仰のために迫害を受けて殉教した神の民は、神に対して、「いつ正しい裁きが為されるのか?いつ報復が行なわれるのか?いつまで待たなくてはならないか?」と迫ったが、神はその神の民に対して次のように答えた。
黙示録6:9~11:「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。『聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、『あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。』と言い渡された。」
また神は、今日の私たちに対しても、次のように答えている。ローマ12:19:「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」と。だから私たちは今日であっても、またどんな時代であっても、神は真実で正しい方であることを覚え、そのことを覚え、すべて主に委ねて歩んで行こう!
(2)次の2つめ、3つめの「ハレルヤ」に移る。
V3~V4:「彼らは再び言った。『ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。』すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、『アーメン。ハレルヤ。』と言った。」
これも、神の正しい裁き、それも、神の正しい永遠の裁きが為されたことに対する信仰者、私たちの賛美の声である。そして、その声に呼応して、24人の長老と4つの生き物も神を礼拝して、「アーメン。ハレルヤ。」と賛美している。24人の長老も4つの生き物も、黙示録4章の箇所で学んだように、24人はすべての信仰者の象徴、4つの生き物は神に仕える御使いたち、それも神の最も身近で、礼拝のために仕えているセラフィムである。それらの神を礼拝するために作られた者たちが、神のすべての正しい裁きが為されたのを見て、神をほめたたえているのである。これは私たちの究極の礼拝の姿である。今日も私たちはそのように神を礼拝しよう!
(3)最後に4つめの「ハレルヤ」について。
V5~V8:「また、御座から声が出て言った。『すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。』また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。』」
御座から声が出て、恐らく神ご自身か、御使いであろう。その声が、Ⅴ5:「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」と命じると、それに従うかのように、やはり大群衆の声が、大水の音のように、激しい雷鳴のように、これは黙示録14:2にもあったが、天における御座の前での大群衆による神への賛美の声、歌声でもあるが、その声で神に「ハレルヤ」と賛美をささげるとある。そして、その賛美をささげる理由がここで明らかにされている。それは、「われらの神である主が王となられ」(V6)、その王なる「小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意が出来たのだから」(V7)である。
※ここに、私たちが神に賛美をささげる理由がある。小羊であるイエス・キリストが再び来て、花嫁である私たちを迎え、そして天で婚姻が持たれ、祝宴が開かれるからである。これは、キリスト・イエスによって贖われた私たちの信仰のゴールです。やがて私たちは天でイエス・キリストと相見(まみ)え、一体となるのである。それをパウロは、神の創世の初めからの計画であると語った。
エペソ1:3~4、6:「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」、「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
これが、キリスト・イエスの贖いによる、神にとっての、また、私たちにとってのゴール。だから、私たちは神をほめたたえるのである。ヨハネはそれを聞き、それを語った御使いを拝もうとしたが、御使いは「私ではなく、神を礼拝しなさい。」と言った。これは私たちが誤って行ってしまいがちのこと。余りにも素晴らしい体験をすると、体験を与えて下さった神にではなく、体験そのものを神として、体験を崇める、体験を第一にするようになる。しかし、私たちはそうであってはいけない。だから、御使いはヨハネにこう言った。
V10c~e:「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」
※「イエスのあかしは預言の霊です。」とは?―Ⅰコリント12:3b:「神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ。』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」とあるように、聖書は、イエス様のことを証しすることは、みな聖霊の働きであると言う。また、ヨエルは、ヨエル2:28:「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」と言って、この終わりの時代に何が起こるかを預言した。それは、この終わりの時代、私たちは皆、「聖霊の働きにより、主を証しするように預言するということです。それが今日も行われている。だから、ますます主を証して行こう。
【結論】
私たちはこれからイエス様の再臨を迎えるが、それまで、世にはさまざまな患難があるだろう。迫害や苦しみ、いろいろな試みもあるだろう。しかし、この終わりの時代、天で「ハレルヤ!」と、主が為された正しい裁きを覚えて賛美しているように、また、Ⅴ5b:「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」と命じられて、彼らが主を賛美しているように、私たちも主を賛美しよう。
―祈り―
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