2025. 6. 8 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
- 6月16日
- 読了時間: 8分
【タイトル】
「聖霊の力を受ける」
【聖書個所】
使徒1:8:「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
【導入】
聖書は、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言う。このみことばは、私たちにとって本当に地上のどんな宝にも勝るほどに価値のあるもの、無くてはならないみことばです。何故なら、このみことばが無かったなら、このみことばが成就しなかったら、今日の私たちは存在しないからです。ペンテコステの日は教会の誕生日というが、今から約2,000年前に、エルサレムでこのみことばがこの通りに成就しなかったら、教会は誕生していなかったし、みことばにあるように、「…地の果てにまで、わたしの証人となります。」と、私たちが住んでいる日本にまでキリストの証人によって福音宣教が為されていなかったら、私たちは今ここに存在していないからです。だから、私たちにとってこのみことばは、掛け替えのない、命にも勝る宝のようなみことばなのです。
今日はこの箇所から、私たちにとって、その宝のようなみことばの、その重要性について語る。いつものように3つのポイントで語る。
【本論】
先ず一番目の宝、重要性は、神はすべてのクリスチャンに聖霊の力を与えたいと願っているということ。そして、そのことを知ることは本当に重要であるということ。短くまとめるなら、
(1)あなたにも聖霊の力が必要だということ。
どうして、聖霊の力が必要なのか?―みことばは何と言っているか?―使徒1:8:「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
聖霊の力が私たちに必要なのは、私たちがキリストの証人となるため。「キリストの証人」とは、キリストを証しする人のこと。言葉において、わざにおいて、その存在によって、その人を見れば、その人の言っていることを聞けば、キリストの行なったこと、キリストとはどういう方であるか、キリストについて知ることの出来る人のこと。聖書は、その証人となるためには、聖霊の力が必要だと言っている。
そのことは、このみことばが成就した、使徒2章に記されているペンテコステの日の出来事を見れば分かる。イエス様が復活されてから50日目の五旬節の日、彼らはイエス様が帰天されてからの10日間、イエス様が命じられた(ルカ24:46~49)ように、エルサレムのある家の屋上の間に集まって祈っていたが、その50日目の日、聖霊が彼らの上に臨み、彼らはみな聖霊に満たされて、その時7週の祭りでエルサレムに集まっていた世界中の人々の国の言葉でキリストのことを証しした。正に、使徒1:8のみことばが成就したのである。その時彼らは、町の人々が彼らを見て、「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」(使徒2:13)と言ったほど、酒に酔っている人がどれほど大胆な振る舞いをするか、見たことのある人なら、或いは自らそのことを経験したことのある人なら分かるが、そのように大胆に振舞っていた。神の為されたみわざを語っていたのである。(使徒2:11)
彼らだけではなく、その出来事のことを、他の11人の弟子たちと共に立った使徒ペテロは、預言者ヨエルが語った預言(ヨエル2:28~32)や、ダビデの語った言葉(詩篇16:8~11)を用いて、キリストのなされた御業、また神の救いの計画について大胆に語り、最後には、それを聞いて心刺されたユダヤ人たちに、悔い改めと、罪の赦しのためのイエス・キリストによるバプテスマを勧めた。その大胆な説教、証しにより、その日、3,000名のユダヤ人が弟子に加えられたとある。(使徒2:14~41)
※これが、あなたが、また私たちがキリストの証人になるために必要な聖霊の力です。
Ⅱテモテ1:7~8:「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」
「証人」とは「マルチュリオン」(“Martyr”殉教者はここから来た言葉)。苦しいことがあっても何があっても、大胆にキリストを証しする人のこと。そこまでも出来る力が聖霊の力である。
※あなたはこの聖霊の力を受けているか?―受けているかいないかは、本人が一番よく分かっているだろう。なので、今日のメッセージの最後には祈りの時間を持つので、受けていない人は求めよう!
次に、その力は、キリストの証人として大胆に証しをするためだけの力ではなく、イエス様のことを、キリストのことを、神様のことを良く知るための力でもあることを知ろう。これが第2のポイント。
(2)聖霊の力は、神を知るための力。
ヨハネ14:26:「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
同様の聖霊様の働きについては、ヨハネ15:26、ヨハネ16:13~14にも記されているが、聖霊様はイエス様を、キリストを、神御自身を示す力、教える力、証しする力を持って、私たちに神御自身の救いの計画の全貌を教えてくれるのである。それを、私たちはペンテコステの日にペテロに起きた大きな変化の中に見ることが出来る。彼はガリラヤの漁師として何の学識もなかったが、旧約聖書の中の御言葉を理解して、大胆にキリストを証ししたのである。また、パウロのダマスコ途上での出来事の後の変化(使徒9:17~20)もそうである。彼はアナニヤから按手を受けた時、彼は聖霊の力を受け、キリストを知った。神の御計画を知ったのである。それを聖書は、「目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。」(使徒9:18)と言っている。イエス様を知り、キリストを知り、神の救いの御計画を知ったのである。そして、大胆にキリストを証して行った。(使徒9:20~)
※私たちは聖霊の力により、このように霊的覚醒が起こされ、イエス様を知り、キリストを知り、神の救いの御計画をはっきりと悟り、大胆にキリストの証しをするのである。それが、聖霊の力を受けたキリストの証人です。そして、
(3)その力を受けるためには、聖霊のバプテスマが必要。
それが「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき」ということ。私たちは、イエス様を信じて救われるとクリスチャンとなる。そうすると、誰にでも聖霊が内に住まわれる。つまり、「聖霊内住」ということが起こるが、それは、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき」という「聖霊のバプテスマを受ける」ということとは別のことである。そのことは使徒の働きを見るとよく分かる。
エルサレム教会の執事だったピリポがサマリヤ伝道に行った時、そこで大勢の人が救われた。そこで、エルサレムにいた使徒たちは、ペテロとヨハネを遣わした。その時、サマリヤの人たちは救いは受けていたが、聖霊の力は受けていなかった。それで二人が人々に按手すると、人々は聖霊を受けたという。そのことが、使徒8:14~17に記されている。
使徒8:14~17:「さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」
その他、同様なことが、カイザリアにいたローマの百人隊長コルネリオとその家族、その友人たちにも起こった(使徒10:44~46)。また、パウロの第3次伝道旅行でのエペソでも起こった。アポロから救いを受けた信者たちが未だ聖霊のバプテスマを受けていなかったので、パウロの按手により、エペソの信者たちが聖霊の賜物を受けて異言を語ったり、預言を語ったりという、ペンテコステの時に起きたのと同じような出来事が起きた(使徒19:6)。
このように、キリストの証人となるための聖霊の力を受けるには、イエス様を信じて新生するという霊的経験とは違う、聖霊の力を受ける聖霊のバプテスマが必要です。ここで、聖霊様の働きとイエス様の働きの違いを説明しよう。聖霊様の働きは、ヨハネ16:8:「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」とあるように、私たちに罪を認めさせ、イエス様を信じる信仰によって「義」=「罪の赦し」を与える働きである。また、Ⅰコリント12:3b:「…、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」とあるように、私たちをイエス様の所に導いて、信仰告白を与える働きである。一方、イエス様の働きは、私たちに聖霊のバプテスマを与える働きです。
ヨハネ1:33:「私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『御霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』」
私たちはこの違いをはっきり知り、聖霊のバプテスマを未だ受けていなければ、キリストの証人となるために受けよう。しかし、一度受けていれば2度受ける必要はない。しかし、満たされ続ける必要はある。エペソ5:17~18:「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」とあるように、主のみこころ、御計画を知って、それによって生きる証人となるには、御霊に満たされ続ける必要がある。
【結論】
それでは、祈ろう!御霊に満たされるために、聖霊のバプテスマを受けるために。
―祈り―
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