2025. 6.29 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
- 16 時間前
- 読了時間: 9分
【タイトル】
霊的戦い(4)「欺きと高慢の霊に勝利するために」
【聖書個所】
Ⅰペテロ4:7:「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」
【序論】
欺きと高慢の霊とはどんな霊か?―実は、クリスチャンである私たちは、意外とそれらの霊の罠にかかっているのにも気付かずに、或いは気付いてはいても大したことはないと考えて、放置してクリスチャン生活を送っている場合がある。そのようにクリスチャン生活を送っているクリスチャンが、実は多くいる。するとどうなるか?―その最後は、私たちは救われているので悪魔と一緒に第2の死である火の池に投げ込まれることはないが、黙示録3章の現代の教会の一つであるラオデキヤ教会のクリスチャンのように、その最後は惨めなことになる。
黙示録3:17:「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
また、このようなクリスチャンは、イエス様が弟子たちに、この世の終わりに生きる者として、どう生きたら良いかを教えている、灯を持って花婿を迎える10人の娘の例え話の中の、油を用意しておかなかったために婚礼の祝宴に入ることが出来なかった5人の愚かな娘のようになってしまう。だからそうならないために、私たちは霊の戦いのための武具について、特に今日は「欺き」と「高慢」の霊に対する武具について、しっかりと学んで行きたい。
【本論】
ペテロは、V1~V2aにあるように、「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」と、小アジア(今のトルコ)の黒海に面している地域のクリスチャンたちにこの手紙を書き送った。目的は、彼らがいる地域の異邦人たちから受けるさまざまな試練や苦しみの中で、勝利ある信仰生活を送ることが出来るようにと、彼らを励ますためだった。
彼らの受けていた試練や苦しみは、ローマでネロ皇帝から始まった、肉体に激しい危害や死が及ぶというような迫害や苦しみのようなものではなく、彼らもかつては異邦人として異邦人の習わしに倣い、この世的で空しい生き方をしていたが、クリスチャンになり、そのような空しい生き方から離れたために受ける試練や苦しみだった。それは、どんな試練や苦しみだったか?―
Ⅰペテロ4:3~4:「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。」
「どうしてそんな堅苦しい生き方をしているのだ。昔のように食べて飲んで、楽しく過ごそう!」と、私たちを、以前の神を知らなかった時の虚しい生活、罪の生活の中に引き戻そうとする「悪口」(中傷、欺き)による試練、苦しみです。私たちの体を鞭で叩いて苦痛を与えたり、肉体のいのちを奪い取ろうとするような試練、苦しみではなく、神に対する私たちの思いや考えを変えさせ、神に対する信仰を骨抜きにするような、私たちの霊の内に働く試練、苦しみです。
これが、今日のメッセージの「欺き」と「高慢」という、悪魔がもっとも得意とする分野の、悪魔が持つ霊的武具であり力です。「欺き」というのは、ただ「偽る」、「嘘をつく」ということだけでなく、「騙(だま)す」、「そうではないのにそのように思わせる、見せかける」ということでもある。悪魔はその武器をもって、未だ罪を犯してアダムとエバに罪を犯させ、神からアダムとエバに与えられていた権威と富を奪い取った。それ以来、人はこの悪魔の欺きの下で、そうとは知らずに欺かれて来ているのです。 しかし、私たちは私たちを愛する方により、その欺きから救い出された。それが私たちの救いです。しかし、悪魔はただ「そうですか。」と言って諦めてしまったわけではない。何とかして私たちを再び自分のものにしようと、出来なければ、私たちが神にとってどのような者か、私たちの特権、権利、天にある相続財産がどれほど優れたものか、どれほど豊かなものであるのかということを見せないようにし、いろいろな問題をもたらして、私たちと神との関係、即ち信仰を奪い取ろうとしているのである。これが悪魔の策略である霊的武具の「欺き」です。また、「高慢」も「欺き」と似ていて、特に自分を欺くという意味の自己欺瞞は、高慢とはコインのように表裏一体であって、高慢だから自分を欺き、自分を欺こうとするから高慢になるという関係のものである。
ガラテヤ6:3:「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」
「この位の罪は大丈夫だろう。神様は愛と寛容に満ちているから、この位の罪は見逃してくれるだろう。」と、罪を軽く見て自分を欺くなら、高慢になるなら、私たちは神の御前に立つ時、そのための申し開きをしなければならない。その時、私たちは何と言うのだろう。だから、私たちは人にも、自分にも、神に対しても、決して欺いてはならない。高慢になってはならない。神に対して欺きを図ったアナニヤとサッピラはどうなったか?―ペテロの言葉で彼らは息絶えた。勿論、それは永遠の刑罰と言う裁きではなく、肉体における裁きであった。(使徒5:1~10)その裁きについて、ペテロはこう言った。
Ⅰペテロ4:5~6:「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」
なのでペテロは、世の終わりになると、今日の聖句のⅠペテロ4:7a:「万物の終わりが近づきました。」とあるように、万物の終わりが近づくと、悪魔は自分の時の短いのを知り、ますますその「欺き」と「高慢」という武具を持って、信仰者である私たちを食い尽くそうとして働くと言う。
Ⅰペテロ5:8b:「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」
だから、私たちはその働きに対して勝利をしなければならない。どうやって?―ペテロは、その勝利のための武具、またその武具を持ってどう戦うのかについて、今日の箇所で次のように言っている。
Ⅰペテロ4:7:「・・・。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」
「祈りのために」の「祈り」が、悪魔の欺きと高慢の働きに対して私たちが勝利を得るための重要な武具なのです。パウロは、エペソ6章の霊的武具について語っている所の最後のところで、5回も「祈って下さい。」と語っている。
エペソ6:18~20:「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。 私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」
それは、祈りが、Ⅴ14~V17にある他の霊的武具、「真理の帯」、「正義の胸当て」(V14)、「平和の福音の備え」(V15)、「信仰の大盾」(V16)、「救いのかぶと」、「神のことば」(V17)と並び、否、それ以上に重要な武具であることをパウロは知ったからである。
「祈り」というのは、ただ神に嘆願することだけではない。祈りの本質、祈りの究極的ゴールは、私たちが神のみこころに、御計画に、みことばに一致すること、並ぶことである。イエス様は弟子たちに「主の祈り」を教えられたが、そこで祈られていることは、ただ自分たちの嘆願ではなく、神のみこころに並ぶことだった。
マタイ6:9~10:「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」
悪魔はこの祈りが為されると、震えあがる。悪魔はこの祈りが為されるのが一番嫌で、この祈りが為されると、そこから退いて行くのである。しかし悪魔は、私たちが神様に「こうして下さい。ああして下さい。」とお願いの祈りをすると、「しめしめ」と喜ぶのである。何故なら、悪魔によってもたらされたさまざまな問題に、私たちの心、考え、思いが取られてしまっていることのしるしだからです。私たちがそのような祈りをする時、「やった~」と言って、喜ぶのである。しかし、私たちがそれらの問題に心、考え、思いを奪われず、神のみこころが成るようにと、私たちが祈るなら、神に並ぶなら、悪魔は退散するのである。「主の祈り」で、「御名が崇められますように。」と祈れば、悪魔は自分が崇められたいから、逃げ出す。また、「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」と祈れば、御国と悪魔の国は共存出来ないから、悪魔はそこか退散するのである。
※なので、私たちはそれを知り、それを実行すること。それが悪魔の「欺き」と「高慢」の霊に打ち克つための私たちの武器である。それが、V4b:「・・・、心を整え、身を慎みなさい。」ということ。
原語のギリシャ語聖書では、「心を整え」にも「身を慎みなさい」にも、どちらにも、「健全、正気、素面でいる」という意味の、「ネフォー」、英語で「Sober」という言葉が使われている。そして、詳訳聖書では、それを「保ちなさい」(keep sober mind)となっている。つまり、私たちはもうそうなっているのだから、そうであり続けることを選び取りなさいということなのです。
【結論】
この世における信仰生活は自動的な歩みではない。選択的な歩みです。ゴールに入ることは決まっているが、そこに達するために、みことばと聖霊様の助けによって歩んで行く道を選んで行くのが信仰の歩みです。だから、この世にある限り、悪魔はいつも私たちの内に働いて、私たちをゴールに至らせないようにと、悪魔は私たちには触れることは出来ないが、ほえたける獅子のように、私たちの健全さ、正気、素面でいることを壊そうと、私たちの思いの内に、考えの内に働きかけて来るのである。昔の生き方、考え方に戻そうとするのである。しかし、だからこそ、仮令どんな働きかけがあろうと、誘惑があろうと、私たちは、Ⅰペテロ5:8~9にあるように、「身を慎み、目を覚ましているのです。」、「堅く信仰に立って、悪魔に立ち向かうのです。」そうすれば、悪魔は私たちから逃げ去り、私たちは「欺き」と
「高慢」の霊に勝利します。アーメン!
―祈り―
Comments