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2025. 6. 1. 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【タイトル】

「私たちの心を照らす、これ即ち国宝なり」

【前置】

 今日も私たちの今年のテーマに関してメッセージを語る。聖書個所は、Ⅱコリント4:5~7です。

【聖書個所】

Ⅱコリント4:5~7:「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」

【序論】

 「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」という言葉を知っているか?―これは天台宗の開祖、伝教大師、最澄の言葉で、中学の修学旅行で行った奈良の薬師寺で、当時まだ副住職で、後に管長になった高田好胤という方から聞いた。高田好胤師とても話が上手な方で、そのため、その頃からテレビのワイドショー等に出ていて人気があった。そのためだったかどうか、この言葉が心に残って覚えている。そういうわけで今日、メッセージのタイトルをこの言葉をもじって、「私たちの心を照らす、これ即ち国宝なり」とした。もじっているので何となく似ているが、しかし、今日私が語ろうとするメッセージは、また今年の私たちの年間のテーマ「私たちの光である主の栄光が輝いている。だから、私たちは輝こう!」は、言葉は似通っており、多少共通点はあるものの、言おうとするところは違う。一番大切な点は全く正反対なのである。何がどう違い、どう正反対なのか、その違いに触れながら、今日のみことばを深堀して行きたい。いつものように3つのポイントに目を留めながらメッセージを取り次ぐ。


 3つのポイントとは、①何が輝くのか?誰が輝くのか?、②どこで輝くのか?、③何のために輝くのか?というこ3つである。先ず、

【本論】

(1)何が輝くのか?誰が輝くのか?

 「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」の教えでは、輝くのは人間です。人間の頑張りや努力、人が持っている体力や知力といった能力や才能です。また、人の行なう善行や良い考え、良い心です。善行や修行を重んじる仏教の教えらしい。もともとのインドの仏教の教えはそうではないと言うが、日本の仏教では、善行や修行を積むことで先祖の供養を行ない、輪廻転生する運命の中で、自らの死後の世界で、因果応報の原理によって良い報いを受けるというものです。だから、自分の頑張りや良い行ない、才能や能力を生かしなさいと、仏教は教える。

 頑張ることや能力を生かすこと、善行を行なうこと自体は良いことである。しかし聖書は、輝くのは人間の能力や頑張り、善行ではなく、キリストであると教えている。V5:「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。」それも、私たちの救いのために十字架に架かり、死んで下さり、3日目によみがえられた私たちの主イエス・キリストが輝くのだと教える。キリストによる救いのみわざは、私たちにとって本当に不思議なことです。どうしてそんなことをしてくれるのか、どうしてそんなことが出来るのだろうかと、私たちは考えるが、それは私たちには到底考えることの出来ない不思議なみわざである。まさに次のみことばが言う通りである。

ローマ5:6~7:「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう」

 でもイエス・キリストは私たちの救いのために来て下さり、進んで十字架の上で死んで下さった。それは、私たちを贖い、私たちを主のものとし、私たちをご自身の栄光を現わす器として下さり、私たちを通してご自身の栄光を現わすためだったと、今日のみことばは言う。

Ⅱコリント4:6~7a:「「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。」

 何という特権、何という恵みだろうか!感謝しよう!次に、

(2)どこで輝くのか?

 「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」の教えでは、輝くのは「一隅」です。「一隅」というのは、人がそれぞれ生まれ、育ち、置かれている場所のこと。また役割や立場のことです。これは、どこに置かれても、どんな役割や立場が与えられていても、それが、目立つ場所や役割・立場であってもなくても、「不惜精進」と言う言葉のように、「陰日向なく、惜しまず、一生懸命やりなさい」ということです。そして、それが「国宝」であり、それが集まれば、国全体が輝いて、もっと「国宝」になるという教えです。確かにそうであるし、クリスチャンにも通じる教えです。私たちもそうでなければならないと思う。そうすれば教会はもっと世の中で認められるようになるだろうと思う。しかしもう一度前の箇所に戻るが、輝くのは私たちではなく、キリストです。キリストの光です。認められるのはキリストであり、崇められるのはキリストです。私たちではない。

 そして、聖書がキリストの輝く所としているのは、V6~7a:「「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。」とあるように、「やみ」である暗闇のこの世界であり、「土の器」である私たちの中からです。一隅で輝くことも必要だが、一隅だけではないのである。マタイ5:14~16:「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」とあるように、キリストがこの世界で輝いて、崇められるのです。その輝く光は私たちのものではなく、神のものです。


Ⅱコリント4:7b:「それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」最後に、


(3)何のために輝くのか?

 「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」の教えでは、一隅を照らすことが周りを明るくする。それだけでも国の宝だが、それがもっと寄り集まれば、もっと国宝になるという教えです。だから、「もっと照らせ、もっと輝け!」という教えになる。それは、人の行いに頼る宗教の教えです。私たちも一歩誤るとそのような宗教的な教えに嵌りやすい。また、そのような教えは、人が崇められるという偶像礼拝にも繋がる。またそのような教えは、用いようによっては危険な教えになる。戦時中の「愛国忠義」の教えと重なって、「国のためには」という大義の下、人命が軽視されることになるからです。偶像礼拝と言う意味を含め、靖国神社がその良い例です。

 しかし、聖書が教える、そして今日私が語る「私たちの心を照らす、これ即ち国宝なり」は、キリストがこの世で、そして私たちの中から輝き出ることで、国宝、即ち、神の国の、天の御国の宝のようになるということです。キリストは、私たちにとって天の御国の宝のような存在。その輝きは神の栄光で輝いている。変貌山の出来事がそれを教えている。また、次のようにも言われているからである。

ヘブル1:3:「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」

 やがて私たちが天に行くと、そこで私たちは高価な宝、高価な宝石で満ちている天の御国を見る。

黙示録21:11:「都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」

 碧玉とは石英の一種で、「メノウ」とか「ヒスイ」とか言われるもの。しかし、地上の碧玉は透き通っていないのでこの世の物とは違うだろう。そして都の土台石は12の宝石で出来ており(黙21:19~10)、12の門は真珠(黙12:21)、都は大通りを含め純金で出来ていると言う。(黙21:18、21)。そして、「小羊が都のあかり」(黙21:23)だと言う。つまり、キリストは天では高価な宝石、天の御国の宝なのである。因みに、先ほどの天の宝石の聖書個所を見ると、ダイヤモンドは天にない。ある科学者によると、ある光を当てるとダイヤモンドは真っ黒に映り、普通見る輝きが無いと言う。天ではこの世の宝は価値はなく、宝でないことを教えているようだ。

【結論】

 まとめると、私たちにとっての宝、宝石、価値あるものは、私たちの心を照らして下さっている神、キリストである。このキリストは、私たちの心を照らし、私たちの光として輝くために来て下さった。天の栄光を捨て、この闇の世界の中に来て下さり、十字架のみわざ、復活のみわざを成し遂げて、今は天の御座におられ、私たちを神殿として下さって、その中で輝いているのである。キリストが私たちを通してご自身の光を私たちの光として輝かせて下さっているのである。この恵みを覚えて感謝し、ますます神を崇めよう。キリストの光が輝くように求めよう。

―祈り―



 
 
 

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