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2025. 5. 4. 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【タイトル】

「いのちの光であるイエス・キリスト」

【聖書個所】

ヨハネ8:12:「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」

【導入】

 今日も、「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」(イザヤ60:1)という年間聖句のテーマから、「どうすれば私たちは主の栄光を輝かすことが出来るか、そのためには私たちはどうしなければならないか」という、私たち側のことではなく、「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」と言われる主が、そのことが出来るようにと、私たちのためにして下さった「主のみわざ」についてメッセージを語る。そのための今日の聖書個所は、ヨハネ8:12です。

【本論】

 「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」と言われた「彼ら」とは、8章前半の箇所で、姦淫の現場で捕まえた女をイエス様の前に連れて来て、イエス様の言葉尻でイエス様を告発しようとした律法学者やパリサイ人たち、また周りの民衆、そして、そこにはイエス様によって、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)と言われた、姦淫の罪で捕まってイエス様の所に連れて来られた女もまだそこに居たかもしれない。そんな彼らに対し、イエス様は「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われたのである。

 先週月曜正午頃、スペインとポルトガルの全土、南フランスの一部で大規模停電が起きた。突然起きたため、大きな混乱が起こった。幸い夜には復旧したので、夜間に暗闇になることはなかったが、交通、通信、電気を使うすべてのインフラがストップしたため、大混乱が起こった。

 イエス様が言われた「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」の「やみ」もそのようなもの。夜のように、光がないという闇のことではなく、どう生きたら良いか、何をしたら良いか、どう生きることが良いことで、どう生きることが良くないことなのか、生きて行くための霊的基準、霊的インフラに混乱、動揺が起きている状態のことである。

 この時のパリサイ人たちは正にそうだった。彼らの思惑がイエス様の言葉によってかわされ、彼らはただ何も出来ずに、皆その場から離れ去るを得なかった。イエス様の言葉が余りにも想定外の言葉だったからである。彼らの思考回路に大停電が起きたかのように、彼らは何も出来なかった。それは、彼らに霊的な闇、罪があったからです。なのでイエス様は姦淫の罪を犯した女に対しても、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われたのである。つまり、「あなたに罪がないということではなく、罪は犯したけれども、私はその罪を無いことにする。だから今からは、決して闇の中を歩いてはなりません。」と言われたのです。そして、闇の中を歩かないで行けるように、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と言われたのです。

※ここに、今年の私たちのテーマである、私たちが私たちの光である主の栄光を輝かして歩むことの出来るための真理が語られている。それは、イエス様が私たちに対しても、「わたしもあなたを罪に定めない。」と仰って下さったことです。なので、もう私たちは罪を犯さないで歩むことが出来、神の栄光を現わして生きることが出来る者のです。これが真理です。このことをもう一つ別の聖書個所で見て行こう。

ヨハネ1:4~5:「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」

 「この方」とは、Ⅴ1:「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と言われているイエス・キリストです。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架で死に、私たちの救いのためによみがえって下さった。そして、私たちのいのちとなって、私たちのうちに住み、私たちの光となって下さった。V14a~c:「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」とは、そのこと。

※誰でも、イエス・キリストを信じる者のうちにはイエス・キリストが、その人の光として生きておられる。そして御自身の栄光を現わしておられるのである。クリスチャンは誰でも、その人の内にイエス・キリストがその人の光として働いておられるので、私たちが頑張って、努力して、何かを一生懸命やって、主の栄光を現わそうとしなくても、私たちはイエス様を信じて、その方と共に歩み、その方に従って行くなら、私たちの光であるその方の栄光が、私たちを通して現われて来るのである。ハレルヤ!

 だから、鍵はそのことを知ること。そして信じること。受け入れることです。イエス様は、私たちがイエス様を私たちの光として輝くために来て下さった。でも、そのことを信じ受け入れなければ、そうならない。自分の力に頼って、つまり罪の中でそうしようと思っても、そうはならない。霊的な意味で、スペイン・ポルトガルのように、大停電になってしまう。だから、イエス様はこう言われた。

ヨハネ3:17~18:「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」

 だから、その光をもって、その光と共に歩くことが大切。それが輝くことである。それによって、私たちの光である主の光は私たちから輝き出るのである。輝かすのは私たちの頑張り、努力ではなく、私たちがただ主と共に歩むことにより、私たちと共におられ、私たちの光である主が輝いて、人々がその光を見ることが出来るのである。

使徒4:13:「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」

※主とともにいる。主と共に歩む。これは信仰の奥義、私たちの光、主の栄光が輝き出る奥義です。

【結論】

 八潮の事故で無くなった運転手が発見された。それに当たって、会社と家族からコメントが出され、会社からは、「本件事故は突然やって来ました。」、家族からは、「道路陥没事故に巻き込まれるなんて、想像すら出来ない出来事でした。…。皆が大好きな父が突如としていなくなってしまった事実を未だに信じることも、受け止めることも出来ません。」と。私たちは、このように、「明日何が起こるか分からない」という世界に生きている。しかし、だからと言って、そのように、明日何が起こるか分からないから闇なのではなく、その中で、どう生きて行ったらよいか分からない、見えないことが闇なのである。

 私たちはそのために、どう生きたら良いかという基準が必要です。それが神の言葉であり、私たちの光であるイエス・キリストです。イエス・キリストはそのために私たちのところに来て下さり、「これが道だ。」と、私たちの光となって導いて下さり、御自身の栄光を現わして下さるのである。だから、私たちはそのお方に留まり、信じ従って歩んで行こう。そうして、その光を輝かすことが出来るのである。

―祈り―

 
 
 

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