2025. 5.18 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
- 5月26日
- 読了時間: 9分
【タイトル】
霊的戦い(3)「私たちの戦いの武器①―信仰の告白―」
【聖書個所】
Ⅱコリント10:4:「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」
【導入】
聖書は、「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」と言う。この「神の御前で、要塞をも破るほどに力のある戦いの武器」とは何か?―今回から暫くこの武器について学びたい。
【本論】
この箇所と同様、パウロが霊的戦いについて語っているエペソ6章では、次のように言っている。
エペソ6:11~13:「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」
パウロはこのあと一つ一つ、その「神のすべての武具」について語っているが、ここでも、Ⅱコリント10:4で、「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく」と言っていたように、私たちの戦いは「血肉に対するものではなく」、つまり、人と人との戦い、民族と民族との戦い、国と国との戦いではなく、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するもの」だと言っているのである。つまり、戦いの相手は、この世を支配しているサタンであり、サタンに属するすべての悪霊たちであると言っているのです。
以前の黙示録の学び(2024. 8.11、黙示録4:1~3、黙示録(12)「天の御座の幻①」)の中で、天には3つの天があることを学んだ。第1の天は、私たちが見ているこの大空のこと。第2の天は、結果的にその大空の中に含まれて見えるようになったが、というのは、ノアの洪水の時に天の水門が開かれ、第1の天と第2の天の間にあった水が地上に降り注いだので、第1の天と第2の天を分けていた水が無くなり(創世記7:11)、一つの天のようになったからです。そして、その第1と第2の天に、第3の天で神の御座近くで神に仕えていたルシファーが、罪を犯した結果、彼に従った御使いの1/3と共に投げ落とされた(イザヤ14:12~15)ことを学んだ。その天が、エペソ6:12の「天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」の「天」のことである。つまり、第1の天、第2の天のことである。英語の聖書では、この「天」は「heavenly realms」と複数形になっているが、それは、そのためだろう。
そのように、私たちの戦いは、その第1の天、第2の天を含め、この世を支配しているサタンと悪霊たちとの霊的戦いなのである。だとするなら、私たちは姿の見えないサタンや悪霊たちとの戦い、それも、彼らは私たち肉体を持っている者とは違い、壁を通り抜けたり、空高く昇ったり、地の下深くに潜ったりと、私たちよりも力のある者なので、私たちは恐れを抱くだろう。前にも言ったが、私たちはイエス様を信じてクリスチャンになった瞬間から、私たちは否応なしにサタンや悪霊たちとの戦いの中に投げ込まれているので、私たちは「そうしたくない」と思っても、私たちは戦わなければならない。だから、どうしたらいいのだろうかと不安に思うだろう。恐れを持つだろう。
しかし、ここにグッドニュースがある。それは、私たちの信じる主イエス・キリストは、彼らが投げ込まれた第1の天、第2の天、つまりこの世の支配を打ち砕き、彼らに対して既に勝利を、それも圧倒的な勝利を治められたので、もはや私たちは恐れる必要はないということです。
ヘブル4:14:「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、…。」というみことばの通りである。
これは、私たちの主イエス・キリストは、私たちを暗闇の支配から光の支配に、サタンの支配からご自身の支配に救い入れるために第3の天を出られ、それもピリピ2:6~8によるならば、「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」ということであり、そのように、私たちの主イエス・キリストは、神の御子としての栄光をすべて捨てられて、第2の天、第1の天を通り抜け、地上に人の子として来て下さったのである。その目的は、私たち贖いのためです。「贖い」とは「買い戻す」ということ。何を、誰を買い戻すのか?―それは、罪を犯したアダムの子孫として生まれ、サタンの支配下にあった私たちを、言い換えるなら、サタンの奴隷であった私たちを、その主人であるサタンから御自身のものとして買い戻すこと。そのためにイエス様は、もろもろの天を通って来られ、そして私たちを贖うため、ご自身を十字架につけて下さったのである。
当時のローマの支配下にあったエルサレムでは、ローマ法の下で奴隷売買が行われていた。今日では奴隷売買は犯罪だが、当時の世界では法で認められた正式なものだった。サタンもそれと同じように、私たちを贖うために来られたイエス様に対して、「じゃあ、代わりにお前の命をよこせ。」とイエス様のいのちを代価として正式に要求した。それが十字架の上でのイエス様の代価としての死です。
※しかし、イエス様は三日目によみがえって死の力に勝利して下さった。御自身の尊い代価による贖いを完了し、私たちを御自身のものとして下さり、サタンと、天にいるもろもろの悪霊たちに勝利して下さったのです。それだけではなく、イエス様は復活の後、40日間弟子たちの前に現れ、その後、天に上り、地上に来た時とは逆に、第1の天と第2の天を通り、第3の天に帰られて、神の御座の右に着座された。もろもろの天を通って、贖って下さった私たちを伴って、共に着座して下さった。
エペソ2:1~6:「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
※イエス様の救いは、ただ私たちに罪の赦しや永遠のいのちを与えるというだけのものでなく、サタンと天にいるもろもろの悪霊たち、闇の力、罪の力、死の力という力に対する勝利を与えて下さるものでもあったのです。そう!霊的戦いにおける勝利を与えて下さるためのものでもあった。
だから聖書は次のように言う。
ローマ8:33~39:「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』」アーメン!ハレルヤ!
この事実、このイエス様が為して下さったことが、「神の御前で、要塞をも破るほどに力のある戦いの武器」なのです。エペソ6:14~18に記されている「神のすべての武具」なのです。そこには、防護のための武具(V14~V17:真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の大盾、救いのかぶと)も、攻撃のための武具(V17:霊の与える剣である神の言葉)もあるが、これらのどれもが、私たちのためにイエス様が為して下さったことであり、また福音という神の言葉であり、「神の御前で、要塞をも破るほどに力のある戦いの武器」なのです。それぞれの武具についての詳しいことは、別の機会に詳しく見るが、これらはどれもが力強い神の武具、武器なのです。しかし、この圧倒的な武器も、使わなければ武器にはならない。武具にはならない。勝利を得ることは出来ない。では、この武器を使うということはどういうことか?それが、ヘブル4:14の後半の部分です。
ヘブル4:14:「…、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」
そう!―イエス様が私たちのために為して下さったこと、それが語られている聖書のこのみことばを、私たちが信じた福音の言葉を告白すること、それが、「神の御前で、要塞をも破るほどに力のある戦いの武器」、また武具となる、私たちにとっての、霊的戦いにおける力強い武器となるのである。
告白とは、(ギ)「ホモロギア」。「ホモ」は「一つ」、「ロギア」は「ロゴス」(神の言葉)から来るが、その神の言葉、神の言われることに同意すること、同意して言い表わすことが「告白」である。何に同意し、何を言い表すのか?―神の為されたみわざ、福音の言葉、神の言葉にである。
告白することには力がある。それも、信仰による告白には大きな力がある。しるし、不思議という結果の伴う力がある。聖書に12年間長血を患っていた女の癒しの記事があるが、女は、この世の医者では治すことの出来ない病にかかっていたが、イエス様のことを聞き、信仰が生まれた。信仰はキリストについての言葉を聞くことから始まるので、「『お着物にさわることができれば、きっと直る。』と考えていた(言っていた)からである。」(マルコ5:28)と言う。なので、霊的戦いにおいてはイエス様が為された事実と、その事実を聞いて信じる信仰に基づく告白には大きな力がある。
【結論】
今日、健康の問題や経済的な問題、過去を振り返っての後悔や、将来に対する不安や恐れ、心配で心が病んでいる方はいるか?―いるなら、前回の学びの詩篇103:1~5を告白して、そこには、霊、魂、体のすべての事に関する勝利があるので、だから信仰をもって告白し、癒されよう。問題に勝利しよう。後悔や不安、恐れから解放され、全き平安と喜びに満たされよう!
Silent ChristianはWeak Christian、Soundless ChristianはSignless Christianと言われている。だから、大胆に、信仰を持って告白しよう!
詩篇103:1~5:「わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」
信じて告白しよう!ハレルヤ!アーメン!
―祈り―
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