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2025. 5.11 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【タイトル】

黙示録(30)「第7のラッパの裁き⑧―最後の7つの災害が起こる直前の幻―」

【聖書個所】

黙示録15:1~8:「また私は、天にもう一つの巨大な驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」その後、また私は見た。天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、入ることができなかった。」

【序論】

 ヨハネはこれまで幻によって天にいくつものしるしを見て来た。しかし、「巨大なしるし」と呼ばれるものはそう多くはなかった。これまで彼が天に見て来た「巨大なしるし」は、①イスラエル民族を表わす「ひとりの女」(黙示録12:1~2)、②そのイスラエル民族から生まれるイエス・キリストを滅ぼそうとしたサタンを示す「大きな赤い竜」(黙示録12:3)等である。

黙示録12:1~2:「また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。」

黙示録12:3~4:「また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。」

 しかしヨハネはここで、第7のラッパが鳴り、最後の7つの災害による裁き、神の怒りが満ちた7つの金の鉢が地に向けてぶちまけられ、地上に起こる7つの災害が起こるその直前に、天に「もう一つの巨大な驚くべきしるし」を見たのである。それは何だったのか?―それが今日のメッセージのテーマである。2つのポイントで見て行く。

【本論】

(1)神の裁きの絶対さ、峻厳さ。―神の聖さと義の絶対さ―

 患難期の最後に起こる地上での神の裁きは、これまでに無かったほどの激しく厳しいものである。その内容は、16章に入って具体的に見て行くが、総じて一言で言うなら、「まあこの位でいいか!」と言うような妥協の余地のない、徹底して行われる完全なものである。「峻厳」という言葉を使ったが、これは、高い山が剣のように尖っていることを「峻」という言葉で表わすが、そのような山を登る時は少しの判断ミスも許されない非常に厳しい登山であること。それと同じように、決して僅かの妥協も許されない、容赦のない裁きであるということである。

※それは何故か?―神が完全な聖さと義を持っているからである。神の前では、罪に関して、またその罪の裁きに関しては、塵一点ほども妥協が無いと言うことなのである。神は罪に対しては決して妥協することなく、またその裁きに関しても、容赦のない完全な裁きを為されるということなのである。それは、イスラエルの民の歴史、例えば、モーセに率いられて歩んだ荒野の生活、また、カナンの地に入ってからの先住民族との戦い、またサウル王から始まって、イスラエルに王が誕生してからの王政の中での出来事等を見れば、如何に神が聖さと義を重く見ていたかが分かる。

 例えば聖絶について見てみると、良くクリスチャンの中でも、「何故聖絶が行なわれるのか」について正しく理解していない場合がある。「何て残酷な…!自己中心、自己満足ではないのか?」と。それは、「聖絶は誰に対するものであるか」ということを神様の視点から見ていないからである。聖絶は、見た目に聖絶されている人たちに対するものではなく、それをするように求められている人、つまり神の恵みによって選ばれたイスラエルの民、クリスチャン、信仰者に対するものなのである。神は、神と私たちとの関係において、私たちが神に対して自分自身を完全に聖絶しているかどうかを、選ばれた者、贖われた者として、自分自身を神に聖別して、自分の肉の性質を聖絶し、従って歩んでいるかを見ているのである。

 イスラエルの王サウルは、神から、イスラエルの民がエジプトを出てカナンに向かう時、その妨げとなったアマレクを容赦なく聖絶するように命令があった時、サウルは、アマレクの王アガクや肥えた羊や牛、小羊とすべての最も良いものを惜しんで残し、値打ちのないものだけ聖絶した。そのため、彼は王位から降ろされたのである。

 サムエルはサウルに言った。

Ⅰサムエル15:22b~23:「するとサムエルは言った。『主は【主】の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが【主】のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』」

 結果、アガクを残しておいたことによって、アマレク人として後に現れたハマンは、再びユダヤ人たちを滅亡させようとした。サウルの自分自身に対する聖絶が不完全であったため、問題の種がいつまでも残ったのである。だから神は、私たちにその聖さと義を求め、また御自身の完全なる聖さと義を持って裁きを行なうのである。

※これは私たちの信仰にとって非常に重要な点である。神との関係の信仰の本質である。

 黙示録に戻り、その完全さが、厳しさが、次の言葉に現れている。

黙示録15:1c~2a:「神の激しい怒りはここに窮まるのである。私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。」

 「窮まるのである。」、正に、これ以上の裁きはないということ。また「火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。」とあるが、以前にもヨハネは、神の御座の前にあるガラスの海のようなものを見た(黙示録4:6)が、その時は、そこには火は混ざっていなかった。、つまり、その時は未だ裁きの時でなかったから。しかし、今は裁きの時で、神の怒りの火が燃えさかっているということなのである。

(2)神の赦しの絶対さ、完全さ。―神の愛と真実の絶対さ―

 しかし、その燃えさかる御座の回りには誰が居たか?

V2b:「獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。」

 つまり、イエス・キリストの血潮によって贖われ、迫害にあっても最後まで信仰を捨てずにいた信仰者たちが、「神の立琴を手にして」その御座の回りにいたのである。そして、Ⅴ3:「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。」とある。「モーセの歌」とは、出エジプト15:1~18や、申命記32章で歌われている、モーセが神の民がエジプトを出る時に為して下さった神の偉大なみわざや、荒野の生活の中で神がご自分の民に示して下さった憐れみや顧みをほめたたえた歌であり、また、黙示録5:9、10、12、13で歌われている小羊イエスによる贖いの素晴らしさを歌った歌である。つまり、神の変わることのない赦しの完全さ、神の愛と真実の絶対さが歌われているのである。

V3~V4:「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」」

 そして、その後、ヨハネはいよいよ神の最後の裁きである7つの災害をもたらす、神の怒りが詰まった金の鉢を、黙示録4:7に出て来た「四つの生き物」のうちの一つが、天にある「あかしの幕屋」から出て来た7人に御使いに手渡すのを見た。

V5~V7:「その後、また私は見た。天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。」

 そして、不信者に対するすべての裁きが終わるまでは、聖所は神の栄光に満たされていて、だれもその聖所に入ることは出来なかったとある。

V8:「聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、入ることができなかった。」

 これも、神の裁きが完全であることを示している。

【結論】

 これらの神の裁きの完全さ、また、神の赦しの完全さを見る時、だからこそ私たちは神に対し、私たちには神の聖さも義もなく、完全な愛と真実もないが、ただイエス・キリストの愛と憐れみ、恵みと慈しみに預かって贖われたが故に、それに頼り、ただ神を神とする信仰によって、つまり、愛によって歩むだけなのである。「愛」とは、愛する人を第一にすること。それが唯一私たちに求められているものなのである。

―祈り―


 
 
 

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