2025. 4. 6 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
- 4月13日
- 読了時間: 8分
【聖書個所】
ヨハネ11:38~44
【タイトル】
「あなたは神の栄光を見る。」
【聖書個所】
ヨハネ11:38~44:「そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。イエスは言われた。『その石を取りのけなさい。』死んだ人の姉妹マルタは言った。『主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。』イエスは彼女に言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。『父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。』そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』」
【序論】
この箇所は、イエス様が死んで四日目になったラザロをよみがえらせた箇所。もうじき私たちはイースターを迎えるが、イースターの時によく読まれる箇所である。しかし、本当のイースターの意味は、ただ死んだ者が生き返ることではなく、永遠のいのちを持って生き返ることです。イエス様が、ヨハネ11:25~26:「…。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」と言っているように、「死んでも生きている。」ということ、また、「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」ということである。つまり、肉体を持って生き返るということではなく、霊的に生き返る、霊的によみがえって新しく生まれるということです。何故なら、この後、聖書には書いていないが、ラザロはどうなったか?―死なずに永遠に生きているのだろうか?今私たちがイスラエルに行ったら、生きているラザロに会えるのだろうか?―否、ラザロはその後、誰もが迎える肉体の死を迎え、恐らくマルタやマリヤと共に、彼の家の墓に葬られているのです。だから、イエス様が言った、Ⅴ25~V26:「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」というのは、肉体のいのちのことではなく、霊的いのちのことを言っていたということが分かると思う。
しかしこの時、マルタもマリヤも、またイエス様と一緒にいた弟子たちも、誰一人としてそのことを悟っていなかった。だから、イエス様がマルタに、Ⅴ40:「…。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』」と言ったのです。
今日はこの箇所から、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。」(Ⅴ40)ということについて、今年の年間テーマである「もう主の栄光(いのち、力)は私たちのところに来ている。だから、その栄光(信仰の光、いのちの光)輝かそう!」ということと併せて語りたい。
「神の栄光を見る。」ということは、私たち信仰者にとって重要なこと。なので、実際にそれはどういうことなのか?―神の栄光を私たちはどこに見るのか?―神の栄光をどのように、何の目で見るのか?そういうことについて語る。このことを本当に理解してもらいたいからである。
【本論】
V38:「そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。」
ここでは、イエス様の「憤り」に関して、「またも」と記されてある。では、この前の「憤り」はいつあったか?―それは、Ⅴ33:「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、」の時である。これらのイエス様の「憤り」は何に対する憤りなのか?―イエス様がこの時、何に対して憤られたのかを知ることはとても重要!―これが分からないと、今日のメッセージは何も分からない。
イエス様のこの「憤り」について、ある注解書は、「ラザロを死に追いやった病気に対する憤りである」と言ったり、「ラザロを病気によって死に追いやった死の力そのものに対する憤りである」と書いている。また、ある聖書では、この「憤られた」と訳されている原語の「エンバリマオマイ」を「感動した」(口語訳)、「強く心を打たれ」(リビングバイブル)と訳していて、マルタやマリヤ、また人々の流した涙に対する感情的な反応のようにしているが、この「エンバリマオマイ」という言葉は、この新改訳聖書がV33で訳しているように「霊的に憤る」という意味の言葉なのである。そういう意味で、何に対して憤ったのかを含めて原語に近い意味で訳しているのは、尾山令仁先生が監修した現代訳ではないかと私は思う。現代訳ではこうなっている。
現代訳聖書:ヨハネ11:33:「イエスは彼女が泣き、彼女と一緒に来たユダヤ人の指導者たちも泣いているのをご覧になると、一方では彼らの不信仰に対して憤りを覚え、また、もう一方では彼らの悲しみに深く心を動かされ、」また、
同:V38:「イエスは、彼らの不信仰に対して、またも憤りを覚えながら、墓の所に来られた。」
※そう!イエス様は彼らの不信仰に対して、霊の憤りを覚えられたのである。信仰は霊的な事柄です。この時、彼らは未だ霊的な意味では真の信仰を持っていなかった。霊的な意味では、未だ目が開かれていなかった。この世に起こる病気も死も、さまざまな出来事も、肉(生まれながら)の目で見て、肉の頭で考え、肉の心で見ていたからである。それは、11章3節以降の、ラザロの病気のことがイエス様に伝えられた以降の、弟子たちとの会話の中で、また、今日の箇所のマルタとの会話の中でも分かる。
V39~V40:「イエスは言われた。『その石を取りのけなさい。』死んだ人の姉妹マルタは言った。『主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。』イエスは彼女に言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』」
マルタは、ラザロが死んだので、その死んだ体のことしか頭になかった。マルタにとってのラザロの死は、誰もがいずれは迎える肉体の死のことであった。だからイエス様はマルタに、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と言ったのである。イエス様は、ラザロの肉体の死ではなく、霊的死のことを言われたからです。
イエス様がラザロの病気のことを聞いた時、すぐに行かずに、2日経ってから、ユダヤのラザロの所に行こうと言った時の弟子たちとの問答を見てみよう。
V11~V14:「イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。『わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。』そこで弟子たちはイエスに言った。『主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。』しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。『ラザロは死んだのです。』」
弟子たちは、イエス様が語るラザロの眠りや死を、肉体的な眠り、肉体的な死としてしか受け取ることが出来なかった。
※信仰が無ければ、神の栄光を見ることはないのである。信仰とは何か?―神様との関係、それも、恵みによって与えられる神様との霊的な関係です。私たちは信仰が与えられて、霊の目が開かれ、神を知り、神を体験し、神の栄光を見ることが出来るのです。
※その信仰を、その目を持つことは非常に重要。なので、ラザロを生き返らせたとき、イエス様は次のように言った。
V44:「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』」
ただ肉体をもって生き返っただけでなく、目の覆いが取りのけられて、霊の目が見えるようになることが重要であることを教えている。何故なら、それによって神の栄光を見ることが出来るからである。
※では、その私たちの霊の目が開かれるのはいつか?―そして、神の栄光を見ることが出来るようになるのは、いつか?―それが今日の結論です。
【結論】
それは、イエス様が、Ⅴ40:「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と言われたように、イエス様を信じた時。その時、聖霊様が、イエス様が私たちの内に住まわり、霊的交わりが始まって、私たちの内で、神様を見ることが出来るようになる。神様を知る、体験する、神の栄光を見ることができるようになるのです。
ヨハネ1:12~14c:「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」
V14a~c:「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」はキリストの受肉、肉を持ってこの世に生まれたことを指しているが、それは同時に、信仰者の中に住まわれるということも指している。そして、神が私たちの内に住まわれる時、私たちは神の栄光を私たちの内に見る、知る、体験することが出来、神との交わりを通し、神を知ることが出来るのです。それによって、私たちは神の栄光を知り、体験し、神の栄光を輝かすことが出来るのである。
イザヤ60:1:「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。」
私たちは救われて、神の栄光、イエス様の栄光、主の栄光はもう私たちのところに来ている。その栄光を見て、知って、体験して、そして現わして行こう。輝かせて行こう!
―祈り―
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