2025. 4.27 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
- 5月4日
- 読了時間: 11分
【タイトル】
黙示録(29)「第7のラッパの裁き⑦―3つの告知と2つの刈り取り」
【聖書個所】
黙示録14:6~20:「また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。『神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。』また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。『大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。』また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。『もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。』また私は、天からこう言っている声を聞いた。『書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』』御霊も言われる。『しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。』また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。『かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。』そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。『その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。』そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。」
【前置】
1ヵ月振りに3月23日に続いて黙示録に入るが、今日は第7のラッパ(黙11:15)が吹かれた後、最後の裁きである神の怒りが詰まった七つの鉢が地に向けてぶち撒かれる迄の間に、ヨハネが天や地に見た幻の箇所から、第7のラッパのさばき⑦として、御使いが地に向けて語る3つの告知、メッセージと、2つの刈り取りについて語る。聖書個所は、黙示録14:6~20です。
【本論】
V6~V7:「また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。『神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。』」
先ずここに一つ目の告知、福音が告げ知らされている。「福音」とは「良き知らせ」、Ⅴ7の「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」という、イエス・キリストの救い主としての十字架と復活、そして裁き主としての再臨、そして、それらを含めて、造り主、救い主、贖い主、そして、最後に正しい裁きを為される裁き主としての神を信じる者は救われると言う福音、良き知らせである。その福音の告知が、天から御使いによって告げ知らされているのを、ヨハネは見たと言う。
この箇所から、教会は患難期前に携挙されるので、患難期では地上では宣教が出来ないので、天から御使いによって行われているのだと、患難期前携挙説を唱える人々は言う。そうかもしれないが、この後、患難期においてもその福音の告知によって神を信じる人々が起こされるので、最終的には、患難期前軽挙説を唱える人々の拠り所としているⅠテサロニケ4:16~17から言っても、生きている人がいる限りキリストは最後の最後まで空中再臨することが出来ないので、やはり、携挙は患難期後に起こると私は思う。いずれにしても、神は患難期であろうとそうでなかろうと、最後の最後まで一人として滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのである。(Ⅱペテロ3:9)
二つ目の告知、メッセージはⅤ8、バビロン崩壊のメッセージである。
V8:「また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。『大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。』」
バビロンの裁きについては、詳しくは17章、18章で見ることになるが、前回言った通り、バビロンとはこの世界、この世を成り立たせている価値観、世界である。神抜きの、神を神としない社会、世界のことである。富と快楽に満ち、それらを神として追い求めている世界のことです。私たちは、神に出会って救われるまでは、そうとは知らずにバビロンに生きていた。しかし、やがて最後にはそのバビロンも神の裁きに遭って滅びるのである。その滅びを告げているのが第2の告知、メッセージである。
第3の告知、メッセージは、Ⅴ9~V11。不信者への裁きのメッセージである。
V9~V11:「また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。『もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。」
V9:「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら」とあるが、その獣である反キリストと、その像を拝み、そうする者には額か手に刻印を受けることについては13章のところで学んだ。その像を拝むことを拒み、その刻印を受けない者は、物を買うことも売ることも出来ず、つまり生きることも出来ないような社会が反キリストによって作られ、また命も奪われるような時が来るということであった。しかし、だからと言って妥協するならば、Ⅴ10~V11:「そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。」と言う。
結局、患難期であろうとも今の世であろうと、人は神を信じるか信じないか、そのどちらかを選択しなければならないし、その選択によって最後の裁きが決まるというのである。今の世であろうと、患難期であろうと、マタイ6:24:「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」ということである。
だから、この箇所の結論は、V12:「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。』」
仮令どんな困難や迫害、場合によっては命を落とすことが起きても、最後まで神に対する信仰を保たなければならないのである。
黙示録2:10:「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」
また、イエス様も弟子たちに次のように言われた。
マタイ18:7~9:「つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」
※厳しいかもしれないが、患難期であろうと今日であろうと、神に対する信仰を保たなければならないのである。そうすれば、次のようになると記されている。
V13:「また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。『しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。』」
V14~V20には、二つの終末の刈り取り、裁きが語られている。初めの刈り取りは、イエス様による救いの刈り取りです。
V14~V16:「また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。『かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。』そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。」
このように収穫の時は必ず訪れる。しかし、その日その時がいつかは私たちには分からない。何故なら、神様は最後の一人まで悔い改めに救いに進むのを、刈り取ることが出来るのを待っているからである。イエス様の刈り取りの譬えの中でそれを見よう。
マタイ13:24~30:「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
二つ目の刈り取りは、永遠の滅びへの刈り取りです。
V17~V20:「また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。『その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。』そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。」
「スタディオン」とは185m。だから、1600スタディオンとは296km。約300kmである。また、裁きの酒ぶねで踏まれて流れ出て来る血の川というか、表現出来ないようなことだが、その高さは「馬のくつわに届くほどになり」とあるので、1m以上もある深さの血の川になり、また300kmにも及ぶというのだから、実際の距離から考えるなら、この都であるエルサレムから300kmと言うと、北はダマスコの先まで、南は紅海に至るまで、東はアラビヤ半島、西は地中海に流れ込む。だから、これは文字通りの実際の距離というより、その裁きの厳しさ、大きさ、完全さを表わすものだろう。このように、最後の最後まで神を拒む者には厳しい裁きという刈り取りが待っているのである。
【結論】
しかし神は、私たちがその裁きに遭うことが無いようにと、御子イエス・キリストを送って下さり、私たちの代わりに「神の怒りの杯、ぶどう酒」(V10)を飲む者として下さった。だからイエス様は、最後の晩餐の席で、マタイ26:27b~V29:「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(その量は、馬のくつわに届く程の高さになり、また1600スタディオンに至るほどの、否それ以上のものではなかったか!)ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」と言われたのである。
だから私たちは、このイエス様の為された尊い贖いのみわざを覚え、イエス様が語られたように、私たちも再び天の食卓でイエス様と共にぶどう酒を飲むことが出来るように、最後の最後まで信仰を保って行こう!
―祈り―
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