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2025. 3.23 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【タイトル】

黙示録(28)「第7のラッパのさばき⑥―十四万四千人にみる信仰者の姿」

【聖書個所】

黙示録14:1~5:「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。」

【序論】

V1:「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。」

 この箇所もまた、ヨハネが第7のラッパの音を聞いた後、神の裁きの7つの金の鉢が地に撒かれる迄の間に見た幻です。その幻は、「小羊がシオンの山の上に立っていた。」と、具体的に「シオンの山」、それはエルサレムのある山、またエルサレムのこと指しているが、その名前が具体的に記されているので、地上の幻のように思える。しかし、そこに小羊とともにいる十四万四千人が、Ⅴ3では御座の前にいるとなっているので、実際のシオンの山ではなく、霊的な意味でのシオンの山、やがて来る聖なる都エルサレムのことなのかもしれない。また、そこに「小羊」としての、これはキリストを指すものだが、そのキリストが「小羊」として描かれているので、やはり地上の幻のことではないだろう。何故なら、キリストが再び来られる時は、小羊としてではなく、王権を持った獅子として来られるからである。

創世記49:9~10:「ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」

 これはユダ族に生まれて、地上のイスラエルの王国を治めたダビデのことを歴史的には指すが、霊的には終末に訪れる千年王国のことの預言でもある。また、黙示録5:5にも、キリストのことを王権を持っている獅子として記している。

黙示録5:5:「すると、長老のひとりが、私に言った。『泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。』」

 今日の箇所に戻る。そのヨハネが見た、小羊とともにいた十四万四千人の人たちとは、黙示録7:3~4の箇所に出て来た、地に災いをもたらす前に、その災いに遭わないようにと、神が御自身の者であることを示すために額に印を押された人たちのことである。

黙示録7:3~4:「『私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。』それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。」

 この人たちは、その時語ったように、イスラエルの十二部族を指すだけでなく、その後、Ⅴ9:「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」と書かれているように、イエス・キリストを信じて神の者とされた信仰者のことでもある。

 今日は、この小羊とともにいて、「その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。」という十四万四千人の人たちに焦点を当ててメッセージを語る。

【本論】

(1)新しい歌を歌う人たち

V3:「彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。」

 「新しい歌」とはどんな歌か?―「新しい」という言葉は、原語で「カイネーン」という言葉になっていて、これは時間的に新しい古いを意味する「ネオス」ではなく、質的に新しいを意味する「カイノス」という言葉から来た言葉である。そして、その歌は、「しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。」(V3b)とあるように、真にイエスキリストを信じて救われた者以外は歌うことの出来ない歌である。だから、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)とあるように、そこでも「新しく造られた者」、「新しくなった。」が「カイノス」から来る言葉が使われているように、真に救われて新しくされた者しか歌うことの出来ない歌なのである。

 皆さんはその歌を歌っているか?―真に救われた者として歌っているだろうか?―ぜひ、そのような者として賛美しよう!

(2)女によって汚されたことのない人々

V4:「彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。」

 「童貞」というのは、女性と性的関係を持ったことのない人のことである。そしてここでは、その童貞のことを「女によって汚されたことのない人々」と言っている。これは何のことか?―これは単に肉体的関係のことを言っているのではなく、霊的関係のことを言っているのである。何故なら、ここで言う「女」というのは、人の「女性」のことではなく、悪霊たちの支配するこの世のことを言っているからである。

黙示録17:1~5、18:「また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。『ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。』それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、『すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン』という名であった。」、「『あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。』」

 背信の霊、反逆の霊、不信仰と不従順に満ちたサタンそのものと言うより、そのサタンが支配するこの世のことを言っている。闇の世界、不信仰の世界、反逆と死の世界のことである。聖書でバビロンとかエジプトとか言った時、そのような世界、また国を指して言っている。

 そして、そのバビロンは終末になると現れるのではなく、もう既に今日私たちが生きているこの時代世が、この世界がもうすでにバビロンでもあるのです。今のこの世の在り方を見るなら、まさにそうである。偽りの繁栄、虚構の繁栄を求めて、人々はその力に支配され、死に向かっている。

 しかし、この十四万四千人の人たちはそうではないのである。彼らは、「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。」(V4b—c)とあるように、この世を支配する者ではなく、贖われた者として、まことの神であるキリスト、小羊であるイエス様について行くのである。イエス様は弟子たちに、この贖われた者と小羊であるイエス様との関係について、こう言った。

ヨハネ10:1~4、14、27:「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」、「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」、「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」

※そのような者として、私たちはイエス様について行きたい!

(3)偽りのない、傷のない人たち

V5:「彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。」

 「偽りがない」というのは、裏表のない、二心ではない状態のこと。人は、「私は嘘は言いません。」と言うが、それ自体がもう偽りであることは私たちは知っている。何故なら、人は完全に虚偽や表裏のない、言ったことを取り消したりしたことのない生き方をすることは出来ないからです。どこかに、どの程度か分からないが、嘘偽りがある。

 「傷のない」というのは、不完全さのない、罪赦された状態のこと。完全にされた者のこと。しかし、そのような者はこの世には存在しない。しかし、私たちはイエス・キリストを信じることによって、そのような者とされた。だから、そのような者として歩んで行こう。パウロは、コリントの教会に次のような手紙を書いた。

Ⅰコリント5:7~8:「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」

 教会の中に、この世でさえも見ることが出来ないような不品行、バビロンの霊による罪がまかり通っていた。そんなコリントの教会の信者に対して語られたパウロの言葉である。私たちもパウロが言うように、またヨハネが見た十四万四千人のように、罪のパン種のない、純粋で真実なパンとされた者として、偽りと傷のない者として歩んで行こう。

【結論】

詩篇1:1~3:「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」ハレルヤ!

―祈り―



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