【聖書個所】
ヨハネ5:1~9a
【タイトル】
「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
【聖書個所】
ヨハネ5:1~9a:「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』病人は答えた。『主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。』イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」
【導入】
今日はこの箇所から、今年の年間聖句、イザヤ60:1:「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」が伝えるメッセージ、「主の栄光がもうここに来ているから、私たちはその私たちの光を輝かそう!」という今年のテーマについて語る。皆さんはもうその光を輝かせているか?―まだならば、今日のメッセージによってそうなるように!
【本論】
V1:「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。」
「その後」というのは、2章の「ガリラヤのカナでの婚礼の席で水をぶどう酒に変えた奇跡」と、4章の「カぺナウムの王室の役人の息子を癒したという奇跡」を行った後のこと。そして、「ユダヤ人の祭り」とは、2章と6章に過越しの祭りのことが出て来るので、その中間となると、五旬節の祭りか仮庵の祭りになるが、そのどちらかか?―しかし、イエス様の公生涯は3年または3年半と言われているので、これがどちらかの祭りとなると、ヨハネ12章からイエス様が十字架に架けられる時の過越しの祭りが始まるので、公生涯は2年となってしまう。なので、この祭りはやはり過越しの祭りと考えた方がよい。こういうことを考えながら聖書を読むことも必要である。
さて本論に還るが、どちらにしても、イエス様はその祭りの時にエルサレムに来て、5つの回廊が付いている「あわれみの家」を意味するべテスダと呼ばれる池に来た。そこには盲人や足萎え、やせ衰えた者など、大勢の病人が臥せっていた。何故そんなに大勢の病人がそこに居たのかというと、この池は間欠池で、御使いが天から時々降りて来て、池の水がかき回された時に最初に池に入った者が癒されるという伝説があったので、癒しを求めて大勢の病人がやって来ていたのである。そしてここに、38年もの間病気にかかったままの人がいたが、この後イエス様によって癒されるという3番目の奇跡が起きるのである。その出来事から、今年のテーマのメッセージ、「私たちはもう主の栄光を受けているので、その栄光を輝かそう!」というテーマについて語る。
鍵の言葉は、Ⅴ8:「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」です。何故イエス様は彼にそう言ったのか?その前にイエス様は、彼が38年の間ずっとそこに居るの見、また知って、彼に、Ⅴ6:「良くなりたいか。」と訊ねた。この「良く」というのは、原語で「ヒュギエース」という言葉で、意味は、「完全、健全」という意味。これはただ「病気がない状態」というだけでなく、人は霊、魂、体の3つの部分で成っているが、そのすべてが健全で完全であると言う状態を意味する言葉で、つまり、「完全な癒し、救い、罪の赦し」を意味するのである。なので、イエス様はこの時彼に、「あなたは完全になりたいか?救われたいか?罪の赦しを受けたいか」と訊かれたのです。しかし、彼の答えは的外れの答えだった。彼は癒しのためにここに来たにも拘わらず、癒されない理由を言い訳のように述べただけ。だから、イエス様は彼に「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われたのである。
※イエス様はこの時、彼に何が欠けていて、何が必要であるかをご存じだった。それは、単に体の癒しでなく、霊、魂、体の全体が完全にされること、救われること、罪が赦されることが彼に必要であることを知っていた。それは彼の的外れの答えからも分かる。そして、38年間もそこに留まり続けていたということからも分かる。罪というのは、的外れ、そして、ローマ14:23c:「信仰から出ていないことは、みな罪です。」とあるように、神に対する不信仰は、みな罪です。イスラエルの民はエジプトを出た後、どうして40年間、正確に言うと、シナイ山で律法を受けた後、カデッシュ・バルネアに行き、そこからそのまま約束の地に入ることが出来たのにも拘わらず、その後、荒野の生活を38年間もしなければならなかったのか?それは不信仰の結果だった。
申命記2:14:「カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営のうちから絶えてしまった。【主】が彼らについて誓われたとおりであった。」
このべテスダの回廊にいたこの人も、38年間そこに留まっていた。これは象徴です。イエス様はこの時、彼には信仰が必要であることを知っていた。初めにイエス様が彼に、「良くなりたいか。」と訊ねたのもそのため。しかし、彼にはその時、その言葉を受け取る信仰が無かった。その時までの38年間、彼が頼りにしていたものは、伝説、人の言葉、人の助けだった。神ではなかった、なのでイエス様は、彼に「起きて、そんな不信仰の床を取り上げて、歩きなさい。」と言われたのである。
もう一か所、「起きて、床を取り上げて、歩きなさい。」と同じようなことを言われている箇所を開く。
ルカ5:17~26:「ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした。彼らの信仰を見て、イエスは『友よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。『神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。』その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。『なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。』と言って、中風の人に、『あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。』と言われた。すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、『私たちは、きょう、驚くべきことを見た。』と言った。」
この箇所でイエス様は、どうして心の中で理屈を言っている律法学者やパリサイ人に、Ⅴ23:「『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。」と言われたのか?それは、彼らが心の中で理屈を言っているように、神以外には罪の赦しを与えることの出来る人はいない。だから、Ⅴ24:「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。』と言って」とあるように、「中風の人に、『あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。』と言われた。」のです。
この時イエス様が彼に言われた「あなたの罪は赦された。」は、正式に言うと、「あなたの罪はもう赦されている。」という意味の言葉です。言い換えるなら、「あなたの霊、魂、体、全身はもう癒され、完全です。もう健全です。」そのことを知れ!そのことを悟れ!ということです。そして、もし悟るなら、もし知るなら、「あなたは、起きて、寝床をたたんで、家に帰ることが出来る。」ということを言われたのです。だから、イエス様は、律法学者やパリサイ人の前で、Ⅴ24:「中風の人に、『あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。』と言われた。」のです。
※この人も、あの38年間、べテスダの池の回廊に臥せったままでいた人と同じように、そのことを悟り、信仰を持って起き上がり、寝床をたたんで、家に帰る信仰が必要だったのである。
【結論】
私たちはどうか?このべテスダの池の回廊で、床の上に38年間も臥せったままにいた人のようでないだろうか?今、私たちはどうか?この人のように、神がどういう方であるかも悟らず、また私たちは今どういう者になったのかも悟らず、不信仰、不従順の床に臥せったまま、縛られたままでいることはないだろうか?誰かがやってくれるのを待っていればいいと、何もしない床に寝ていることはないだろうか?
私たちは今日、起き上がろう。主はもう既に私たちに栄光を照らし、私たちを完全な者、健全な者にして下さっているのだから。だから起きて、今横たわっている床を取り上げて、歩き始めよう。
詩篇103:1~5:「わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」
※この約束はこれから起こることではない。もうそうなっているという神の言葉です。これを信じて、悟って、受け取って、そのように歩むなら、ルカ5:26のみことばは実現する。
ルカ5:26:「人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、『私たちは、きょう、驚くべきことを見た。』と言った。」アーメン!
―祈り―
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