【タイトル】
祈りとみことばの奉仕の結ぶ実
【聖書個所】
使徒6:1~7:「そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。『私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。』6:5この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」
【導入】
この箇所は教会にとって重要な箇所である。どういう点で重要か?―教会には、礼拝、伝道、形成という3つの働きがあるが、特に伝道と形成という点において、それらの働きが実を結ぶために、また、目的が達成されるために、教会が何を最重要点にしなければならないかを教えている箇所だからです。
今年、私たちは法人認証と共に、12名以上の救霊者が起こされることを目標にしている。なので、今日は三教会が集まって礼拝をささげ、みことばを一緒に聞いているので、今日の箇所から、目標が達成されるためには何を最重要なこととして行かなければならないかを学んで行きたい。
【本論】
エルサレムでペンテコステの日に教会が誕生してどの位経ったか分からないが、エルサレムの初代教会はどんどん成長して行き、弟子の数も増えて行った。そのような中で教会に起こった事が今日の箇所である。教会が成長して行くにつれ、ヘブル語を使うユダヤ人、つまり元々エルサレムやユダヤに住んでいた、謂わば地元のユダヤ人だけでなく、当時の共通語のギリシャ語を使う、周辺からやって来たユダヤ人たちも多くいた。因みに、ペンテコステの出来事の時にも、いろいろな国から五旬節に参加するためにユダヤ人たちがやって来ていたことが記されていた。(使徒2:9~11)そのように、教会が誕生して以来、ギリシャ語を使うユダヤ人たちが増えて来ていた。そういう中で、地元ではないユダヤ人メンバーの中のやもめたちが、地元のユダヤ人メンバーから、毎日の配給でなおざりにされているという苦情が出た。ユダヤ人社会では、モーセの律法により、やもめに対して親切にするよう教えられていて(出エジ22:22、…)、ユダヤ人が多くいた初代教会でも、ユダヤ人としての生活規範として守っていた。それで、12使徒は弟子たち全員を集めてこう言ったのである。
使徒6:2b~4:「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
それでⅤ5~V6にあるように、御霊と知恵とに満ちた7人が選ばれ、使徒たちの前に立たされて按手を受けた。すると、その結果どうなったか?
V7:「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」
私たちは、今年12名以上の救霊者が起こされることを願い求めているが、正にそのようなこと、それ以上の数の実が結ばれたのである!ハレルヤ!―ここに、今年私たちの願い求めている目標実現のためのポイントがある。―それは、役割分担と祈りとみことばの働きの重要性である。
キリストのからだである教会を構成する役割にはいろいろな役割がある。それを賜物の視点で語っているのがⅠコリント12章~14章、奉仕の点から語っているのが、エペソ4章、特にエペソ4:11~13です。
エペソ4:11~13:「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」
これは、上から支配するこの世的なトップダウンのピラミッドのことを言っているのではなく、土台をキリストに、その上に使徒がいるというように、ボトムアップによって建て上げられて行く逆ピラミッド型の組織である。或いは、上下ではなく、横に繋がって建て上がって行く組織のことを言っている。そういう役割分担、働きの分担は重要である。それが行なわれることにより、教会は成長して行く。
しかし、今日の私のメッセージのポイントは役割分担の重要性ではなく、祈りとみことばに専念することの方にある。給食の問題が起こった時、使徒たちは何と言ったか?
使徒6:2b~4:「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。6:3そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。6:4そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
これは、役割としての使徒による祈りとみことばに対する重要性のことだけを言っているのではなく、教会の一人ひとりが祈りとみことばに専念することも重要であると語っている。エペソ4:11~13の箇所をもう一度見よう。
エペソ4:11~13:「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」
逆ピラミッド、また横並びのキリストのからだを思い浮かべて下さい。「聖徒たちの奉仕」には、役割分担による奉仕という意味もあるが、祈りとみことばの働きによる奉仕という意味もある。
※祈りとみことばの働きとは何か?―それは神様との交わり、神様との繋がりのこと。それによって、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」(V5)のです。
イエス様が語られたぶどうの木のことも思い浮かべてみよう。イエス様は何と言われた?
ヨハネ15:5:「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
だから、祈りとみことばに専念するということは、神様と交わる、神様とつながる、神様に留まるということで、その結果として、「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達し」(エペソ4:13)、教会は成長して行く。そのような実を結ぶのである。だから、そうして行こう!
しかし、祈りとみことばの働きにはもう一つ重要なことがある。それは、私たちが祈りとみことばに専念するのは、教会成長のためだけではなく、私たち一人ひとりのためでもあるということ。実はこのことの方が、全体としての教会成長よりも重要なことである。
今から20年ほど前、トロントクリスチャンフェローシップ教会で開かれた“Soaking Prayer Center”のセミナーに行った。そこで、“Be still and know...”( 詩篇46:10:「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。・・・。」、「わたしこそ神であることを知れ。」:“I am God.”⇒「わたしを知る。神を知る。」)がプリントしてあるブランケットをもらって来たが、…。何故トロントに行き、また、そのセミナーに行ったかの話をすると長くなるのでやらないが、そこで祈りについて学んで来た。そこで学んで来たことが最近よく分かる。それは、祈りとみことばとの交わりとは、「神との親しい関係を築く」ということ。つまり、「神を知り、神に知られている関係を築く」ということ。それこそが、祈りとみことばに専念した結果、結ばれる実なのである。
マタイ25章に、天の御国の譬え話として、「花婿の出迎えの準備をしていた5人の賢い娘と愚かな娘」の話がある。あの譬え話の結末は?―愚かな娘たちが油を買いに行っている間に婚礼の祝宴は始まり、後から行って戸をたたいても中に入れてもらえないどころか、その主人=花婿=イエス様から何と言われたか?―
マタイ25:12:「しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。」
そして、この譬え話をした後のイエス様が弟子たちに語られた結論は、マタイ25:13:「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」
「ともしび」は「みことば」(詩篇119:105:「あなたのみことばは、私の足のともしび、…。」)。「油」は「御霊」との交わり、「祈り」です。主はそれを、「あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」とあるように、日常的に、いつもみことばと御霊との交わり、すなわち祈りをしていなさいということを語っているのである。その重要性を語っているのである。それをぶどうの木のたとえから言うならば、ヨハネ15:6:「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」ということなのである。つまり、祈りとみことばとの交わりがいかに重要なことであるかということである。
【結論】
だから今年、祈りとみことばに専念しよう。今年の教会の目標実現のために、また、それだけでなく、神様との親しい関係という実を結ぶためにも、もっと神様とつながろう。留まろう。そして、神様を知り、神様に知られるものとなろう!
―祈り―
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