【タイトル】
「私たちを輝かせる御霊なる主の働き」
【聖書個所】
Ⅱコリント3:16~18:「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
今日はこの箇所から、今年のテーマ、「私たちをご自身の栄光で輝かせてくださる主」について学ぶ。
【本論】
ある教会に一人のホームレスが訪れた。年配に見えたが、汚れを落としてみたら青年だったということ。そこから導き出される真理は、罪汚れは人の栄光を覆い隠すが、一度(ひとたび)その罪汚れが除かれたら、そこには人の栄光が現れると言うこと。人の栄光というのは、本来、神によって造られた人としての、人が持っているはずの神の栄光のことである。
イザヤ43:21:「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
これが神から人に与えられた栄光です。しかし、人は罪を犯した結果、その栄光を失ってしまった。その栄光を贖い、取り戻して下さったのが私たちの主イエス・キリストです。主イエス・キリストは私たちの罪のために十字架で裁かれ、死んでよみがえり、信じる者に罪の赦し、失った人としての栄光、神の子、神の被造物としての栄光を取り戻して下さった。それが、Ⅴ16で言っていることである。
V16:「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」
※そう!イエス・キリストは私たちが失った栄光を取り戻して下さった。しかし、私たちはその栄光というものがどれほどのものであるか分からない、想像もつかない者である。しかし、神の子としての栄光だから、とてつもなく素晴らしいもの、とてつもなく偉大なものであることは分かる。それがまた、私たちの受けている救い、贖い、回復の素晴らしさ、偉大さでもある。
先日、イチローのMLB野球殿堂入りが決まった。正式には今年の7月27日にニューヨークで式典が行なわれるが、その前にイチローは、14年間在籍していたシアトル・マリナーズの野球殿堂入りを2022年に果たしている。その時のマリナーズの球場でのスピーチで、彼はこう言っている。彼は、2001年~2019年の19年間、MLBで選手生活を送り、初めの12年半をシアトル・マリナーズで、その後、2年半をニューヨーク・ヤンキース、3年をマイアミ・マーリンズ、そして最後の1年を古巣のマリナーズに戻って2019年に引退した。そのマリナーズに戻った時の感想を、イチローはこう言っているのである。「初めに、こんなやせっぽっちの、どうなるかも分からない日本から来た自分を受け入れてくれたこと。そして、ずーっと応援してくれたこと。そして、今までの人生の中でトップ5に入るほどの感動は、2018年に、5年半の間在籍していなかった自分を、まるでそんなことが無かったかのように迎え入れてくれたこと、その時感じた誉れ、感動は一生忘れることは出来ない。」と。
※私たちクリスチャンの誉、栄誉、栄光というものもそれと同じである。私たちの回復した神の子としての栄光、栄誉、誉というのもそれと同じである。私たちの犯した罪のために失っていた神の子としての栄光、失っていた神の被造物としての栄光、それを、イエス・キリストが贖ってくれたのである。それが私たちの救い、贖い、回復です。その栄誉、栄光、誉で輝く姿を、マタイは次のように言っている。
マタイ13:43:「そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」
7
「そのとき」というのは、前の箇所の種蒔き(V3~V23)、良い麦と毒麦(V24~V30)、からし種(V31~V32)、パン種(V33)の譬えを通して語られた、私たちが天の御国に刈り入れられる救いの時のこと。その時、「正しい者たち」である私たちは、「天の父の御国で太陽のように」輝くのです。これは、新天新地で起こることと共に、もう既に起きていることでもある。皆さんは、そのように輝いているだろうか?―そして、今日私たちがもう一つ覚えたいことは、その栄光、誉、輝きは、私たちのものであると同時に、それは主のものであるということ。むしろ、先ずそのことがあって私たちは救われ、贖われ、神の子、人の子、神の被造物としての栄光を取り戻したということを知ろう。
マタイ13:44~46:「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」
この箇所で語られていることは何か?―これは、Ⅴ42以前の、私たち救われた者のことではない。そうではなく、ルカ15:3~32の、いなくなった一匹の羊を見つけた羊のオーナーの喜び(V4~V7)、無くした一枚の銀貨を見つけた女の人の喜び(V8~V10)、帰って来た放蕩息子を迎えた父の喜び(V11~V32)の譬えを通して語られている神様の喜びのことである。これほど神様は、私たちが救われると、その回復した救いの喜びで、神様も輝くのである。
今年の年間聖句のイザヤ60:1~3の後の、Ⅴ4も、正にそのことを預言している。
イザヤ60:4~5:「目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。」
これは終末の出来事の預言であるが、また今日の私たちの御国への救いの預言でもある。その時、誰が、救いの喜び、回復の喜びに満たされて輝くのか?―私たちである。しかし、また「あなた」と言われているシオンの都の王であるキリスト・イエス、父なる神様御自身でもあるのである。ハレルヤ!
【結論】
Ⅱコリント3:16~17:「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。3:17主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
イザヤ60:5:「そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。」
この「喜ぶ」と言う言葉には、脚注の「広くなる」と共に、「自由になる」という意味もある。そう、私たちは皆、イエス・キリストの贖いによって救われ、失った栄光と誉と栄誉と共に、また自由も回復して、ますます主の栄光の姿へと変えられて行くのです。主の栄光の姿を輝かせて行くのです。
Ⅱコリント3:18:「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
※私たちはその自由を、喜びを、パウロが、Ⅴ11~V12:「もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。」と言うように、大胆に働かせ、主の栄光を輝かせて行こう。その時、主は、御自身の栄光で私たちを輝かせて下さるに違いない!
―祈り―
留言