【聖書個所】
Ⅰペテロ5:8
【タイトル】
霊的戦い(1)「身を慎み、目をさましていなさい。」
【導入】
今日は今年のメッセージプランの霊的戦いに関するメッセージです。何故霊的戦いに関するメッセージを学ぶのかと言うと、私たちはイエス・キリストを信じてクリスチャンになった限り、私たちの思いとは関係なく、否応なしに戦いの現場に置かれるからです。
昔、昔式のパチンコ店に何回か行ったことがある。もう50年も前のことなのではっきり覚えていないが、玉が穴に入ると、ジャラジャラ玉が出て来ながら、やたらに盤の上のランプが光ったような記憶がある。もしそうだとするなら、ちょうど人が救われる時も、ルカ15:10の「…、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」とあるように、天国をパチンコに例えて申し訳ないが、人の救いは神にとって大きな喜びだから、喜びのランプが打ち上げ花火のように点きまくるのではないかと思う。その時、サタンもそれを見て「あっ、また人が救われた。」と知り、何とかして神からその人を引き離そうと動き始めるのではないか。そのことを語っているのが今日の聖書個所。では、前置はこの位にして今日の聖書個所を開こう。
【聖書個所】
Ⅰペテロ5:8:「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
【本論】
悪魔は私たちが救われると、私たちを悔い尽くすべき敵として私たちを探し求めながら歩き回るのです。悪魔は、まだ救われていない人たちに対してはそうではない。何故なら、そんな必要はないからである。まだ救われていない人たちは悪魔の手中にあり、敵ではなく、仲間のような者だからである。以前にも言ったが、この世には神の子と悪魔の子しかいない。神を信じて神の子になった人と、未だ神を信ぜずに悪魔の子になっている人との2種類の人である。
Ⅰヨハネ3:8~10a:「罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔ははじめから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。」
私たちは皆、救われる以前は悪魔の種によって生まれ、罪のうちを歩んでいた。だから悪魔の子だった。しかし、そのような私たちをイエス様が十字架のみわざによって悪魔の手から私たちを救って下さった。そのことを語っているのが、エペソ2:1~5である。
エペソ2:1~5:「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。──」
だから悪魔は自分の手から救い出されて行った私たちを取り戻そうと、滅ぼそうとやっきとなって歩き回っているのである。そのことを象徴的に描いているのが出エジプトの出来事である。私たちがサタンであるパロの手から救い出されてエジプトを出た時、パロはそれに気付いてどうしたか?―諦めたか?―否、取り戻そうと追いかけて来た。そのことが出エジプト14:5以降に記されている。
出エジプト14:5~10a:「民の逃げたことがエジプトの王に告げられると、パロとその家臣たちは民についての考えを変えて言った。『われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは。』そこでパロは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いた。【主】がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。それでエジプトは彼らを追跡した。パロの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツェフォンの手前、ピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。パロは近づいていた。」
ちょうど、Ⅰペテロ5:8b:「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」のように、パロは軍勢を率いて追いかけて来た。それを見たイスラエルの民はどうしたか?
出エジプト14:10b~12:「それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、【主】に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。『エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。』」
恐れて、救われたことよりも救われなかったことの方が良かったかのように主に叫んだ。救われるよりも、罪の奴隷でいることの方が良いかのように思った。思わせられた。ここに、霊的戦いがある。
※霊的戦いというのは、何をどう見るか、何をどう考えるかという思考の中の戦いのことです。
以前、人には生存欲求として3つの欲求があると言った。①安心・安全欲求(大丈夫だよ)、②受容・承認欲求(そのままで、いいよ)、③存在価値・生き甲斐欲求(②よりも高次の、より良いと感じる欲求心)。だから、人は安心・安全欲求に従って、生まれながらに危険や苦しみを回避しようとする思考が働く。その思考は「見る、聞く」という五感から情報を得て、働くのである。この時のイスラエルの民は正にそうだった。追っ手を見て、それも大軍勢なのを見て、恐れた。そしてモーセに、また主に「何でこんなことをしたのだ。前のままの方が良かった。」と叫んだのである。
ここで、今日のみことばに戻る。ペテロは、拷問とか迫害という肉体的な苦しみではなく、キリストを信じたゆえに敵視され、差別され、非難されている、言うならば、精神的な苦しみに遭っていた小アジアにいるクリスチャンに向けてこの手紙を書いた。そして、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」だから、「身を慎み、目をさましていなさい。」と言った。
※ここに、霊的戦い、思考における戦いがある。
・「身を慎み」:“Be Sober”=「しらふでありなさい」、「酔ってはならない」ということ。アルコールや薬物、その他、依存症に陥らせる物質や行為は、それをやっているうちはドーパミン(快感ホルモン)や鎮静作用を持つ物質が出て、それによって苦しみや危険は回避される。つまり、安心・安全欲求による働きである。依存が生じる根本原因・理由は、世が考えるような快楽追求ではなく、苦しみ回避の追求なのである。これが依存の本質です。しかし、それでは事態は解決しない。
※だから、聖書は「身を慎み」と言う。何かによって酔ってはならない。誤魔化してはならない。回避してはならないと言うことである。そうではなく、「目をさましていなさい。」と言う。
・「目をさましていなさい。」:物理的に目を覚ましている、起きているということでなく、霊的に警戒していなさい。見張っていなさいということ。警戒、見張りで大切なことは何か?―正確に観察することです。その情報に基づいて、対策、戦略を立てるから。だからありのままを正確に見ることが重要。
蒙韓日合同リバイバル聖会での2日目昼の「霊的戦いセミナー」での滝元望師の三面鏡の話。三面鏡をたまたま見ることになり、自分の髪が薄くあっていることを認めざるを得ない状況になった。つまり、それまでは事実を認めていなかったのである。滝元師はメッセージの初め、開口一番、「おめでたくならないでください。」と言った。「おめでたくならないこと」が鍵が重要であると。つまり、「こうであればいいのに」という現実回避のための願望、思い込み、惑わしに陥ってはならないということを語った。
悪魔はその警戒や見張りに対して惑わしの情報を与えようとする。あのイスラエルに恐れを与えたように、私たちの五感に働きかけ、その偽りの情報によって思考を起こさせ、神の願いとは異なる行動をさせる。それは、最終的に食い尽くすことが目的だからである。その本質は目に見えない霊的なもの。 だからパウロは、ペテロが送った手紙の読者と同じ霊的状況の中に生きているエペソの兄弟姉妹に対して、エペソ5:17~18:「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」と言った。ペテロの「身を慎み」は、ここの「酒に酔ってはいけません。」(しらふでいなさい)ということ。
「目をさましていなさい。」は、「御霊に満たされなさい。」です。それによって、神のみこころが何であって、どうすれば良いのかが分かるからである。だから、イスラエルの民は仮令パロたちが追って来ても、その後モーセが彼らに言ったように、恐れることなく、ただ主にだけに目を留め、主の勝利を見ていれば良かったのである。
出エジプト14:13~14:「それでモーセは民に言った。『恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。【主】があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。』」
その後彼らは海を裂いて紅海を渡り、主の勝利を見た。私たちの場合もそうである。
エペソ2:6:「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」
※私たちは主と共に天の所に座っている。私たちはこの霊的事実をしっかりと知り、この事実に立たなければならない。
【結論】
Ⅰペテロ5:8:「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」
―祈り―
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