2025.12. 7 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
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【タイトル】
光りを待ち望む者の幸い
【聖書個所】
イザヤ9:1~5
【前置】
アドベントの2週目に入った。今日はアドベントとしてのメッセージと共に、今年の年間テーマである、世の光である主が私たちをご自身の光で輝かせて下さるというテーマも併せてメッセージを語る。
【聖書個所】
イザヤ9:1~5:「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。」
【本論】
イザヤ書は5番目の福音書と呼ばれている。何故そのように言われるのか?―福音書は新約聖書の中のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの書簡のことで、ヨハネの福音書は他の共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカとは少し書き方は違っているが、どれもイエス・キリストの生涯とその働きが記されている書簡で、イザヤ書もそれらが記されているからである。そして、そこで語られているメッセージは、今日の箇所を読んで分かるように正に福音です。福音というのは、「グッド・ニュース」、「良い知らせ」ということ。何がグッド・ニュースで、何が良い知らせなのか?―
V1:「苦しみのあった所に、やみがなくなる。」、「先には(以前は)ゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」
「ゼブルンの地とナフタリの地」というのは、「後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」の「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤ」のこと。つまり、「先にはガリラヤは、はずかしめを受けたが、後には光栄を受けた。」ということ。そしてそのように、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(V2)また、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(V3)と言う。
V4:「あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。」
「ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。」というのは、士師記7章に記されているギデオンとその300人の勇士によるミデヤンに対する勝利のこと。そして、「戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。」(V5)とあるように、最終的には平和がもたらされるというのである。これは、どれをとってもグッドニュースではないか!―「以前はこうだったが、今ではこうなった。今はこうだが、後にはこうなる。」と、良い知らせが告げられている。
具体的にはこれは、BC721年に北イスラエル、この箇所では「ゼブルンの地とナフタリの地」と呼ばれている所、また、「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤ」と呼ばれている所であるが、その地がアッシリヤによって滅ぼされ、人々はアッシリヤによって各地に移住させられ、彼らはそのために苦しみや辱めに会ったが、しかし「後には光栄を受けた。」また、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。」とあるように、そのような苦しみ、悲しみ、辱めから解放されるいう預言が語られているのである。
そしてこの預言は、マタイ4章でマタイが、イエス様の救い主としての働きと関連させて引用したように、イスラエルの民に対する救い主の誕生、イスラエルの民だけではなく、「異邦人のガリラヤ」とあるように、異邦人、全世界の人々に対する救い主の誕生の預言として語られた言葉でもあった。
マタイ4:12~17:「ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、『ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。』この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」
以前ニュースで聞いた話だが、地震の被災地で、暫くの間電気が来なくて暗闇の中を過ごしたが、電気が来て明かりが点灯した時の喜びは大きなものであったと。しかし、預言されている救い主の誕生の光というのは、被災後の電気の復旧による光とは比べることの出来ないほどの光である。それは物理的な光ではなく、霊的な光、何かがあればまた消えてしまうような一時的な光ではなく、一度照ったら、何があっても消えることのない永遠の光だからである。だから、イザヤ9:2では「大きな光」、マタイ4:16では「偉大な光」となっている。
このような光、イエス・キリストの誕生とその宣教の働き、救いのみわざの光を見ることの出来る者は幸いです。その光を見たひとりの人を見よう。その人は、「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げ(つまり、預言)を受けていた。」(ルカ2:26)シメオンです。
ルカ28~32:「すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。』」
ハレルヤ!―何と素晴らしい賛美、何と素晴らしい信仰告白だろう!―このシメオンの賛美の中、信仰告白の中に、今日のメッセージタイトルの「光、つまり、イエス・キリストの誕生と、その働き、その救いのみわざを待ち望む者の幸い」を見ることが出来る。どのような幸いか!
①光を待ち望む者には、「御言葉が成就する」という幸いがある。そのような幸いに預かることが出来る。
彼は勝手に「主のキリストを見るまでは、決して死なない。」と思っていたわけではない。それは聖霊の御告げ、神の約束、預言であった。預言、神の言葉であれば必ず成就するのである。
イザヤ55:11:「…、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」
そして、これが私たちの信仰生活です。信仰生活は、私たちの生活の中に神の言葉、神の計画、神のみこころが成就することです。信仰という「神様と私たちとの関係」の中で、主のみこころが、主の御計画が成就することです。そして、それによって生きるということが私たちの信仰生活なのである。
だから、イエス様が弟子たちに、「祈りを教えて下さい。」と訊ねた時、イエス様は彼らに、主のみこころを優先させる「主の祈り」を教えられたのです。「御名があがめられますように。」、「御国が来ますように。」、「みこころが天で行なわれますように、地でも行われますように。」というように。
信仰生活とは、私たちの信仰生活に御言葉が成就することである。そして、これは信仰者として、「何を神様に求めたら良いか、どのように生きたら良いか?」ということを神様に訊ねることでもあるのです。何故なら、神様は私たちを、神中心、キリスト中心、みことば中心に生きるようにと、私たちを造り、贖われたのだからです。だからそのようにして生きて行こう。
②光を待ち望む者は、「平安な一生を送ることが出来る」という幸いがある。そのような幸いに預かることが出来る。
神様は私たちに、どれほど平安であって欲しいかと願っていることか!心騒がしてはならないことを願っていることか!―最後の晩餐の席で御自分が父の許に行くことを告げた時、イエス様は弟子たちにこう言った。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)。と。また復活後、弟子たちがユダヤ人たちを恐れて戸を閉めた中にいた時、イエス様は彼らの中に現れて二度言った。「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20:19、21)
また、信じる者の内に結ばれる御霊の実の一つも平安である。これは神の性質として結ばれる愛、喜び、平安の中の実である。今日、どれほど多くの人がこの平安を知らずに、持たずに生きていることだろう?―病気、健康、経済問題、国家間の問題、日々の生活の中の小さなことに関しても、多くの人はこの平安を知らずに、持たずに生きている。しかし、私たちは違う。主は来られて私たちのすべての咎を負って下さり、すべての病を癒してくださり、私たちを永遠の滅びから救い、恵みと憐れみとの冠を被らせ、私たちの一生を良いもので満たして下さることを知っている。そして、私たちの若さは、わしのように新しくなることを知っている。これは、主を待ち望む者に与えられる、詩篇103:3~5に約束されている幸いです。
【結論】
光を待ち望む者、光である主を待ち望む者には、このような幸いがある。それを覚え、シメオンが主をほめたたえたように、主をほめたたえて、賛美しよう。
ルカ29~32:「『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。』」
―祈り―
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