2025.11.30 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
- 2 日前
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【タイトル】
私たちの入った神の安息
【聖書個所】
ヘブル4:10
【前置】
前回、「もう私たちは安息に入っている」というメッセージを語った。そう、私たちはもうイエス・キリストを信じる信仰によって完全に安息に入っている。ただ、聖書が言っている安息というのは、聖書が「わたしの安息」、「神の安息」と言っているように、ただの安息ではなく、「神の安息」という安息であることを今日もう一度覚えたい。そしてその安息の中に入りたいと思う。では今日の聖書個所を開く。
【聖書個所】
ヘブル4:10:「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」
【本論】
聖書は、「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」と言う。この「神の安息」とはどんな安息か?―その安息が分からなければ、その安息の中に私たちは安息することは出来ない。この個所が言う「神の安息」とはどんな安息か?
これは聖書の読み方に関することだが、私たちが聖書を読んで理解出来ない時、一番の方法は神に聞くこと。言い換えるなら、聖書自身に聞くことです。「聖書のことは聖書に聞く」ということである。
では、「神の安息」とは?―それは、「神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」とあるように、神様が6日間働き、7日目に休まれ、安息に入られたということ。それがV4に記されている。
Ⅴ4:「というのは、神は七日目について、ある個所で、『そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。』と言われました。」
これは創世記に記されているみわざのことである。
創世記2:1~2:「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。」
ヘブル4:4の「第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。」の「なさっていたすべてのわざ」とは、神様が6日間になされたすべての創造のみわざのことであるが、ヘブル4:3で語られていたように、信じた者が入る安息のこと、イエス・キリストの贖いのみわざのことでもあるのである。
ヘブル4:3:「信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」
この「安息」というのは、安息に関する一回目の「今日も安息に入っていますか?」の時に語ったように、そこには2重の意味があって、イスラエル人にとっては、信仰があれば入ることが出来たが、信仰がなかったために入ることの出来なかったカナン、安息の地の「安息」のこと、もう一つの意味は、イエス・キリストを信じることで入ることの出来るという永遠のいのち、救いという安息のこと。その二つの意味の安息がここで重ねて語られている。そして聖書は、ヘブル4:3:「「信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。」とあるように、どちらの安息にしても、信仰がなければ入ることが出来ない安息です。聖書は、信仰がなければ「神の安息」に入ることは出来ないと言っている。
今日、皆さんは神の安息に入っているか?―聖書は、神がすべてのわざを終えて安息したようにと言っているが、そのように、すべてのわざを終えて安息しているだろうか?―ユダヤ人は、すべてのみわざを終えて休むという点では、厳格にその教えを守って休んでいる。現代でも安息日になると、すべての社会的機関はストップする。人々は、火を点ける、電気を点けるというような労働とみなされる39の事柄を行わない。
しかし、本当の聖書的安息とは、労働しないことなのだろうか?何かをしないことなのだろうか?―イエス様もそれについては、ある安息日にパリサイ派の指導者の家で食事をしようと家に入られる時、そこに居た水腫を患っていた人を抱いて癒されたが、それを批判気に見ていた律法学者やパリサイ人たちに、「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」と言って、黙らせた。(ルカ14:1~6)
私たちは本当の聖書的安息とは、本当の聖書的安息日とはどういうものかを知っている。今日のユダヤ人でも、真にイエス・キリストをメシヤと信じているメシアニックの人たちもそれを知って礼拝をしている。そしてその日には、「シャパット・シャローム」(平安な安息日を!良い安息日を!)と挨拶をし合って、礼拝する。「シャバット・シャローム」は、韓国の挨拶、「アンニョイ・ハシムニカ」(ご飯食べましたか?元気ですか?おはよう。こんにちは。こんばんは)のようでもあるのです。
このように、「神の安息」というのは、「何もしない」というのではなく、何かをしてもしなくても、すべてが大丈夫、すべてが完全、すべてが良い、完了しているという、神様の完全さの中に、信仰によって生きることなのである。それが「神の安息」です。創造にみわざにおいて、神様はすべてを造られて、最後に「非常によかった。」(創世記1:31)と言われた。またイエス様は、十字架の上で贖いのみわざを為された時、それを終える時に、「完了した。」(ヨハネ19:30)と言われた。神様の創造のみわざも、贖いのみわざも、すべてのみわざも創世の初めから神様の救いの計画にあっては、みな終わっているのです。それをヘブル4:3は言っている。そして、その神の安息のみわざの中に入るのに必要なのが、信仰なのである。
ヘブル4:3:「信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。」
昔、詩篇の作者は、次の詩篇を残している。
詩篇46:1~5a:「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。」
あなたは今日、その神の安息に入っているか?何があっても揺るがない神の平安、安息の中に入っているか?
【結論】
今日、もう一度、新たに神の安息を覚えよう。神の為されたすべてのみわざを覚えよう。神はすべてのみわざを終えて、神は御自身の安息の中におられる。今がその安息の時、今が恵みの時、救いの時です。
ヘブル4:10~11:「 神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」
―祈り―
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