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2025.11.23 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【タイトル】

教会になくてはならない一つのこと

【聖書個所】

ピリピ3:13~14

【前置】

 2022年から法人化を目指す歩みが始まり、いよいよ認証も下りようとしている。あとは登記だけ。ここまで主が私たちを導いて下さったことに感謝し、皆さんの協力、祈りにも感謝したい。今日は、こうして私たちは法人となり、この世的に一人前になるわけだが、霊的にも一人前になって行くために必要な、なくてはならないことについて聖書から学んで行きたい。聖書個所はピリピ3:13~14です。

【聖書個所】

ピリピ3:13~14:「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」

【本論】

 11月21日、今年の6月3日に亡くなった長嶋茂雄の追悼式典が東京ドームで持たれた。その中で語られた北大路欣也の追悼の言葉、「私も、その役者魂に手が届くまで懸命に努めます。」が深く心に残った。その言葉は、長嶋が今年の自身の誕生日に北大路欣也に送った手紙の中で、「いろいろあった89年の人生の中で一つだけしっかりと体に沁み込んでいるものがある。それは野球魂というもので、89年の野球人生をそのように歩めたことを誇らしく思う。」と書いた言葉に応えて北大路欣也が語ったもの。どちらもすごいと思う。「一生」という人の人生の中で、一つのことを追い求めて行くこと、一生掛けても惜しくないというものに出会って、そのために一度限りの人生を掛けることは素晴らしい。またそれが出来たら何と幸いなことだろうと思う。

 パウロもそのように真に価値あるものに出会い、それを知ったので、今日の聖書個所にあるように、「それを追及している、その一事に励んでいる」と語った。それは何か?―それが今日のメッセージのテーマで、これから私たちの教会が一人前になって行くために必要な「なくてはならないもの」です。

 パウロは何を持って、一生かけて追い求めて行くと言ったのか?パウロにとって一生掛けて追い求めても惜しくないと思うほどに価値のあるものとは何だったのか?―そして、教会にとって「なくてはならないもの」、「これこそ教会だと、教会を教会足らしめているもの」とは何か?―それはキリストです。

ピリピ3:5~8b:「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」

 パウロは、自分の出生と自分のして来たことに誰よりも誇りを持っていたが、キリストに出会い、キリストを知ったことの故に、それまで自分が誇りにしていたものは「ちりあくた」、「何の価値もないごみくず」と言い、続けてこう言っている。V8c~11:「それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」と。つまり、「キリストのようになり、キリストのように生きて行きたい、キリスト中心に生きて行きたいのだ。」と言っている。「キリスト中心に生きて行く」、これこそが今日の教会に、そして私たちの教会がこれから一人前になって行くために「なくてはならないもの」、「いつの時代にも必要な普遍的なもの」、「教会足らしめるもの」、「教会の本質」です。では、「キリスト中心に生きる」ということはどういうことか?

 それについて語るには、この書簡を何故パウロはピリピの教会に送ったかについて触れなければならない。パウロはピリピの教会に対し、パウロの伝道の助けになってくれていることについて、ピリピ1:3~5:「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。」と感謝を表しながら、一方で、この時ピリピの教会がキリスト中心ではなく、自分中心になって対立していたので、対立せずにキリスト中心の生き方をして、一致を保つようにという勧めをした。

ピリピ2:1~5:「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」

※ここにキリスト中心の生き方が示されている。―愛を持って遜り、一致すること。その愛は、Ⅴ3~V4:「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」という、「キリスト・イエスのうちにも見られるもの」(V5)だという「キリストの愛、神の愛、アガペーの愛」のことです。

 その愛を分かり易く教えているのが、「良きサマリヤ人」の譬えでイエスが教えている愛です。「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」とイエスに訊くためにやって来た律法の専門家に、律法の「主を愛することと、隣人を愛すること」を語った後、「では、私の隣人とは、だれのことですか。」(ルカ10:29)とイエスに訊いた律法の専門家に答えたイエスの「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)という言葉、これがキリスト中心の愛です。

※律法の戒めで2番目に大切な戒めの「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」ということは、「あなたがその隣人になりなさい。」ということであり、「私の隣人は誰?」ではなく、「私は誰の隣人に?」という自己中心から他者中心、キリスト中心の愛を持つことなのです。それが「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」ということなのだ、と教えているのです。

※そしてパウロが、その愛が教会に必要なのだと教えている。教会の一致、教会形成、教会がキリストの体として成長し、神の栄光を現わして行くためになくてはならないものなのだ、と教えているのです。

 教会にはいろいろな働きがある。それをパウロはⅠコリント12章で、「キリストのからだの中の各器官の働き」だと教えている。単独の働きもあれば、協同の働きもある。そして、その体がキリストのからだとして健全に機能して行くために何が必要かということも教えている。それが、ピリピの教会に対して教えていた他者中心の愛、キリスト中心の愛なのである。

Ⅰコリント12:20~25:「しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、『私はあなたを必要としない。』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない。』と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」

 そして、その結論として、Ⅰコリント12:31:「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」と言い、Ⅰコリント13章に繋げている。そして、そのⅠコリント13章の結論が、Ⅰコリント13:13:「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」にある。

※教会にはやらなければならないこと、必要なことはいろいろあるが、本当に必要で、なくてはならないものは、「信仰と希望と愛」で、その中でも一番優れている「愛」は教会の本質であり、教会を教会足らしめるものです。それをイエス様は、「よきサマリヤ人」の譬えに続くマルタとマリヤとの関係の中で教えられた。

ルカ10:38~42:「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』主は答えて言われた。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』」

 マリヤはキリストを愛すること、マルタを愛することを選んだのです。対立、不一致、分裂ではなく、一致、遜り、愛することを選んだのです。

【結論】

 これが教会にはなくてはならないもの、どうしても必要な一つのものです。だから、他にいろいろと出来ないことがあるにしても、これがあれば、教会は成長して行く、一人前の教会になって行くのです。何故ならばパウロが言うように、そうするなら、キリストがそのようにされるからです。

ピリピ3:12:「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」

 だから、Ⅴ13~V14で言うように、遜って、この一事に励もう。キリスト中心になって、キリストの姿に変えられるようにと言う目標目ざして、一心に励もう。

―祈り―


 
 
 

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