2025.10. 5 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
- 9 分前
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【タイトル】
「今は、みことばに目を留めていよう!」
【聖書個所】
Ⅱペテロ1:16~19
【前置】
今日はⅡペテロ1:16~19の箇所から、今年の年間テーマである「私たちをご自身の栄光で輝かせて下さる主の栄光」に関連するメッセージを語る。
【聖書個所】
Ⅱペテロ1:16~19:「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」
【序論】
聖書は、パウロの書いた手紙であってもペテロの手紙であっても、イエス・キリストを信じて救われた私たちに対して、イエス・キリストはその救いの完成のために、言い換えるなら、私たちをイエス・キリストと同じ栄光の姿に変えて下さるために再臨されるという、主の再臨があるということを知って書かれた書物。だから、再臨のことについてはっきりと書いている書簡、例えば、Ⅰテサロニケの手紙のような書簡もあれば、再臨について何も書いてはいないが、それがあるのは当然のこととして書かれている書簡もある。例えば、ローマ人への手紙とか、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙などです。そして、これらの書簡が書かれた目的は、一様にして、それまでの時をどう生きるか、つまり、今日私たちが生きている終わりの時どう生きて行けば良いのかということを教えるためなのである。それをこの手紙の中で言うなら、Ⅴ1~V4:「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」と言って、私たちが救われた理由と目的が語られ、Ⅴ5:「こういうわけですから、あなたがたは、…、」と言って、この後どのように生きれば良いかということについて語られていることと同じなのである。その中の一部が今日の箇所である。
【本論】
ペテロは今日の箇所で、先ずⅤ16で主の再臨について触れ、そこから今年の年間テーマである「私たちをご自身の栄光で輝かせて下さる主の栄光」に関してみことばを記している。V16では何と言っているか?
V16:「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」
ペテロは「私たちは」と言って、自分だけでなく、パウロや他の使徒たちが初代教会の兄姉たちに、「主の再臨があるから、それに備えて相応しく歩むように」ということを教えていたが、それは決して「うまく考え出した作り話に従ったのではありません。」と言い。「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」と言った。これは何のことか?―これは、やがてキリストが再臨されると、その時私たちはキリスト・イエスと同じ姿に造り変えられる時のことを言っている。つまり、ペテロや、ペテロと共にイエス様について行ったヤコブやヨハネが体験した、あのイエス様の姿が栄光の姿に変わった変貌山での出来事のことを言っている。その箇所を開いてみよう。
マタイ17:1~8:「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。」
ペテロやヤコブ、ヨハネが見たのは、イエス様が十字架に架かり、死んで墓に葬られ、三日目によみがえって後に40日の間弟子たちの前に現れ、自分は生きていることを証しし、大宣教命令を語った後に天に帰られた後のイエス様の姿であった。それは、将来のイエス様の姿であると同時に、本来のイエス様の姿でもあった。イエス様は神として、父なる神と共におられた時は神と同じように栄光に満ちていた。イエス様はその栄光の姿を捨てられて、この地に来て下さって、私たちのために贖いをなして下さったのである。その神としての栄光の輝き、白さは、マルコ9:3によると、世のさらし屋、つまり、今日のクリーニング屋によってどんな薬を使ったにしても、決してすることが出来ないほどの白さ、輝きであると言う。
マルコ9:3:「その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。」
これが、イエス様の再臨の後に現れる神の栄光なのである。しかもそこにモーセとエリヤが現れたという。それは、モーセとエリヤが、それぞれ旧約の律法と預言者の代表として、そこに啓示されているメシヤが、彼らの前にいるイエス様であることを示すためであるのと同時に、彼らは私たち信仰者の代表として、やがてイエス様が再臨されると、私たちもイエス様の栄光の御姿と同じほどに神の栄光に輝く者にされるということを示すものでもあった。だから、モーセとエリヤの姿は消え、そこにイエス様の姿だけが残されていたのである。
※そう!やがて主が来られて、私たちが主と同じ姿に変えられて行くと、そこに残るのは私たちの栄光ではなく主の栄光であって、その栄光だけが残るようになるのである。それは、賛美「汝が目を向けて」が歌っていることである。そして、それがまた、今年の年間聖句のイザヤ60:1のみことばが語っていることでもある。
イザヤ60:1:「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。」
これは、「起きよ。光りを放て。」と、私たちに命じている言葉ではなく、終末の時代に、これから主が再臨される時に私たちに起きる、否、神が私たちにして下さる預言の御言葉なのである。私たちが罪のために失ってしまっていた栄光は、神の栄光が私たちの所に来る時、即ち、主の再臨の時、私たちは、起きて、光を放つ者になるのである。だからペテロは、変貌山でそのことを目撃して体験したので、こう言った。
V18:「私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」
何を聞いたのか?―
V17:「キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』」
「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」という言葉は、イエス様の公生涯の始まりのところでも父なる神からイエス様に掛けられた声でもあった。
マタイ3:17:「また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
この言葉は神の子としての、メシヤとしての神の栄光を現わしている。私たちは、これから終末の時に私たちが体験する神の栄光の姿へと変えられて行くということを、神体験として、ペテロがその栄光の姿を見た時に体験することは必要であるとは言わないが、それは素晴らしいことである。
しかし、仮令そのような体験がなくても、ペテロはこう言う。これが今日のポイントであり、最も言わなければならないこと。
【結論】
V19:「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」
「起きよ。光りを放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」と言うのは、結局、それは私たちにとって、主の再臨、「夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上る」というその時が来るまでは、私たちは、「確かな預言のみことば」である聖書の言葉を、この終末の時代である「暗い所」「を照らすともしびとしてそれに目を留めているとよいのです。」ということである。
―祈り―
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