2025.10.12 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- treeoflifechristch
- 6 時間前
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【タイトル】
黙示録(41)「結びの言葉②―最後の警告と祝福―」
【聖書個所】
黙示録22:8~21
【前置】
黙示録の講解説教の最終回、黙示録22:8~21のところから、前回に続いて黙示録の結びの言葉としての2回目、「最後の警告と祝福」というテーマで語る。
【聖書個所】
黙示録22:8~21:「これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。すると、彼は私に言った。『やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。』また、彼は私に言った。『この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。』『見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。』自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。『わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。』御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」
【導入】
この箇所には黙示録の結論として、3つの警告とその警告に従うことによって受ける一つの祝福のことが記されている。
【本論】
(1)一つめの警告:神を拝め。神以外のものを神としてはならない。
V8~V9:「これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。すると、彼は私に言った。『やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。』」
ヨハネは新天新地における聖なる都、キリストの花嫁である私たちの幻を見た時、また、その時に御使いが語りかけた言葉を聞いた時、その御使いの足元にひれ伏して拝もうとした。それは、それが余りにも神々しかったからだろうと思うが、そんなヨハネに、Ⅴ9b:「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」と御使いは警告した。これは、聖書の教えの基本であり、また私たち信仰者にとってイロハとも言える十戒の第一戒と第二戒、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」と、「偶像を造って、偶像を拝んではならない。」という二つの戒めから来るものである。しかし、私たちはそのことは分かっていても、なかなか守れない。すぐ神から離れ、神以外のものを神として拝んでしまうのである。
「拝む」というのは、(ギ)「プロスクネオー」で、これは二つの言葉、「~に向かって」を意味する「プロス」という言葉と、「キスをする」つまり「愛し敬う」ということを意味する「クネオー」という言葉で出来ている。だから、「拝む、礼拝する」ということは、文中にも「ひれ伏して」という言葉があるように、「ひれ伏して、跪いて、額づいて、『私はあなたのものです。』と、すべてを捧げ、自分に対する支配権を委ねることである。私たちは信仰告白の祈りをする時、「私の罪のために死んで下さったことを感謝します。私は救われました。あなたを私の神、私の王とします。どうぞ私の心に入ってください。私の王として私を治めてください。」と祈る。だから、神を信じる、そして、その信仰から来る神を礼拝するということは、神にすべてを委ねること、自分の支配権を神に与えることです。これが十戒の第一戒、第二戒で言おうとしていること。
そしてそこから来る重要点は、だからもし私たちが神を信じるなら、神以外に自分を支配させてはならないということなのである。しかし残念ながら多くの人は、神以外のものを神としないと言いながらも、それに支配されている。問題や状況、目に見えるものや耳に聞こえるもの、つまり五感から入って来るもの、特に視覚や聴覚から入って来るものに支配されてしまいやすいのである。アダムとエバがそうだった。だから先ず、神を神とし、神に従おう、神を礼拝しよう。
(2)2つめの警告:預言の言葉を封じるな。みことばを語れ。
V10~V11:「また、彼は私に言った。『この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。』」
御使いはヨハネに、また私たちに、Ⅴ10b:「この書の預言のことばを封じてはいけない。」と言う。言い換えるなら、「神の言葉である聖書を開き、神の言葉を語れ。」ということ。どうしてか?―V10c:「時が近づいているからである。」―何の時か?―終わりの時が近づいているからである。終わりの時になると、Ⅴ11:「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」とあるように、そのような霊的状態になるからです。だから私たちは、この世から救われてこの世に遣わされ、そしてみことばを伝える者、語る者とされたのである。パウロはそれを自分の召命として、ローマに送られる前に、カイザリヤで総督フェストとアグリッパ王、その妻ベルニケに向かって語っている。ダマスコ途上で主に出会い、主から召命を受けた時の言葉である。
使徒26:15b~18:「…。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』」
私たちは皆このような召命を受けている。だからパウロは愛弟子のテモテに対し、終わりの時代のクリスチャンとしてどうあらねばならないかを教え、警告するために次のように語っている。
Ⅱテモテ4:1~4:「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」
これが今日私たちに語られている、そして、今日の黙示録の結論のメッセージです。
(3)3つめの警告:この預言の書に言葉を付け足しても、この預言の書からことばを取り除いてもならない。みことばを変えてはならない。
V18~V19:「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」
これは文字通り、聖書の言葉に付け足しも削減も加えてはならないということであるが、それだけではなく、Ⅴ18a:「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。」とあるように、聞いている私たちが、みことばを読む私たちがそれに自分勝手な解釈を加えてはならないということでもある。先週、「今は、みことばに目を留めていよう!」というテーマで、Ⅱペテロ1:16~19からメッセージを語ったが、その後でペテロは次にように語っていた。
Ⅱペテロ1:20~21:「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
「人の私的解釈」とは、前にあったように、「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くようになる。」ということでもあるし、聖書を読む時に、聖書を語る時に、前後関係、文脈を無視して勝手な解釈を施すということでもある。
だから黙示録は結論として、V18~V19:「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」と言うのである。
そして最終的な結論として、これらの警告を守る者は、それによって一つの祝福を受ける。それは、神を信じ、主イエスを信じることによって受けることの出来るすべての主の恵みです。
V12~V14:「『見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。』自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。」
「わたしの報い」とは、最後まで神に背く者に対する神の正しい裁き、V15:「犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。」という神からの報い、しかし、信じる者には、Ⅴ14:「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れことが出来る」という幸い、祝福である。また、
V16~V17:「『わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。』御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」
私たちはすべての祝福を、イエス様が為してくださったみわざに伴う恵みとして受けることが出来るのである。
【結論】
そして黙示録は、次の言葉をもって締め括っている。これが最後の結びの言葉です。
V20~V21:「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」
私たちの救い、贖い、私たちの霊的立場、天にあるすべての相続財産、霊的祝福等々は、すべて主の恵みによるからです。主の御名を崇めます!
―祈り―
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