【タイトル】
黙示録(23)「ラッパのさばき⑥―終わりの時の神の3つのさばき―」
【聖書個所】
黙示録11:15~19
【前置】
昨年の12月15日の時以来の黙示録の講解に入る。今日は黙示録11:15~19、ヨハネが天に見た巻き物の7つの封印のすべてが解かれ、そして、天で御使いによって6つのラッパが吹かれ、そのラッパによる裁きの預言が前回の黙示録11:14まで語られていた。そして、それは第2の災いまでのことだった。今日の第七の御使いの吹く7つ目のラッパが吹かれると、いよいよ患難期後期に入って、地上で起こる第3の災いの出来事の黙示に入って行く。しかし、第2の災いが終わり、すぐに第3の災いに入るのではなく、神はその間にヨハネに見せるべき幻、黙示があった。それが12章から15章に記されていること。それらはまた次回以降に。前置はここまでにして、早速今日の箇所に入ろう。
黙示録11:15~19:「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。『この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。』それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、言った。『万物の支配者、今いまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。』それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。」
【本論】
第7のラッパが吹かれ、これから患難期後半に入り、いよいよ神の裁きの様相は熾烈を極めて行くことになるが、その前に、神はこのように言われた。もう一度、Ⅴ15を見てみよう。
V15:「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。『この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。』」
第7のラッパが吹かれ、これから患難期後半に入り、患難期が終わってイエス・キリストの地上再臨が起こり、そして千年王国の時がやって来て、それから初めてキリストの地上支配が実際に始まるのだが、ここでは既に、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」と言っていることに注目しよう!―これは、黙示の預言の言葉として、まだ起こってはいないが、もう既に起こっていることとして語られていることである。
前回もメッセージの前で少し言ったが、神の預言の言葉は、私たちの歴史という時間軸の中ではこれから成就、実現していくことだが、神の次元から言うなら、もう実現していること。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)。神には始めもなく、終わりもない。キリストが、十字架の上で、「完了した。」(ヨハネ19:30)と言われた瞬間、もう天では、神の私たちに対する救いのみわざ、また万物に対する贖いのみわざは完了しているのである。
イエス様の十字架の上のみわざにより、原福音(創世記3:15)として預言されていた悪魔の私たちに対する法的な支配力は打ち砕かれ、私たちは悪魔の支配から解放され、神のものとなった。法的な支配と言ったのは、解放される前までは、アダムの罪のために、私たちは法的には悪魔の奴隷であった。それに対しては、神も法的には何も出来ない。神は法を守る義なる方だから。イエス様の十字架による贖いが完了するまでは、悪魔に私たちに対する法的所有権があったのである。しかし、今は違う。
エペソ1:20~23:「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
だから、この時の、第7の御使いが7つ目のラッパを吹き鳴らした時も違うのである。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」アーメン!
そして、天では続けて神の御前に座している24人の長老、これは、黙示録4:4に出て来た金の冠を被った24人の長老だが、これらの長老は、その箇所の学びの時(2024年8月18日)に語ったように、信仰のレースを最後まで戦った信仰の勝利者のことである。信仰が完成されたユダヤ人と異邦人を合わせた信仰の勝利者のこと。その長老たちがこう言ったとある。
V16~V17:「それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、言った。『万物の支配者、今いまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。』」
彼らは、信仰のレースを走り切る時、どれほど多くの患難に出会ったことだろう。何故なら、聖書はそう書いてあるから。
ヨハネ16:33b:「あなたがたは、世にあっては患難があります。」
しかし彼らは、その後のイエス様のみことばに従い続けて歩んだので、最終的に、信仰の勝利者となったのである。
ヨハネ16:33c~d:「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
※そして、神に感謝をささげたのである。私たちもそのような者とならせてもらおう!
V18:「諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。』」
「諸国の民」とは、異教徒、つまり神に従わない不信者のこと。彼らはキリストが勝利をとり、キリストが全地を治める者になったので、怒ったとある。正に悪魔と同じである。
思いたくはないかもしれないが、この世には、神の子と、そうでない子、つまり、悪魔の子、悪魔に支配されている子の2種類の子しかいない。
Ⅰヨハネ5:18~19:「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」
だから、悪魔の子は神の子に逆らい、攻撃をする。神に怒り、私たちに怒る。しかし、私たちは世に勝っているので、悪魔の子に負けることはない。ハレルヤ!そして、終わりの日には、神の御怒りによる裁きが来るのです。ここに3つの神の裁きがある。判決において3種類の裁きがあるという意味ではなく、神の裁きに関して、3つの時があるということ。
①死者のさばき:「死者のさばかれる時」:これは、誰にでも起こる裁きのことです。信者であろうと、不信者であろうと、皆神の前で裁きを受けると言う意味のこと。
ヘブル9:27:「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」と言う「さばき」のこと。これは、信者であろうと不信者であろうと、皆は神の前で裁きを受けるのである。そして、その裁きには2つの裁きがある。
②信者の裁き、信者が受ける報いとしての裁き、救いの完成のこと:「あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時」:この裁きは、信じた後に、私たちがどのように歩み、どのように神から与えられた働きをしたかに応じた裁きである。報酬、報いを与えるための裁きである。これに関しては多くの聖書個所があるが、そこで、その裁きの鍵になる重要なことは、どれだけやったかと言うことよりも、どういう心でやったかという心の中の、働きの動機、働きの霊的本質が問われていると言うことです。
タラントのたとえ(マタイ25:21:「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」)や、マタイ7:21:「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」とあるように。
※イエス様から教えられているように、忠実な働きをして行こう! もう一つの裁きは、
③不信者に対する裁き:「地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時」:この裁きは、言うまでもなく、サタンや反キリスト、偽預言者、偽るもの、不信者、殺す者、滅ぼす者など、裁きの結果、第二の死と呼ばれる永遠の滅びの中に投げ込まれる裁きのこと。
黙示録21:8:「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」
【結論】
私たちは、どのようなことがあっても、あの24人の長老のように、最後の最後まで信仰のレースを走り切ろう!
V19:「それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った」
すべては変わることのない神の契約によって行われる。だから、神の言葉に従い、最後まで走り切ろう。最後に、この黙示録21章に記されている神の契約の成就の時のみことばを見て、祈る。
黙示録21:1~7:「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』また言われた。『書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。』また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。』」
―祈り―
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