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2024. 9.29 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

黙示録6:9~17:

【タイトル】

黙示録(16)「封印を解くことによる患難期の始まり②」

【聖書個所】

黙示録6:9~17:「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

【本論】

V9~V11:「小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。」

 前回は、Ⅴ1~V8で、巻き物の第一の封印が解かれた時の出来事―反キリストの現われと共に起こる戦争や飢饉、地震や疫病等による多くの人の死―の描かれているのを見た。今日はその続きで、小羊であるキリストが第五の封印を解いた時、ヨハネは「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましい」、つまり、殉教者たちの魂が「祭壇の下にいるのを見た。」と言う。この祭壇は、やがてエルサレムに築かれる第3神殿の祭壇のことで、あの「荒らす憎むべき者」(マタイ24:15)、「荒らす忌むべき者」(ダニエル9:27、11:31、12:11)と言われている反キリスト、歴史的にはアンティオコス・エピファーネスが、その神殿で「我こそキリストである。私を拝め。」と言い、「もし自分を拝まない者がいれば、その者を殺害する。」と言って、彼に従わない者たちは殺される。その殉教者たちのことである。またその中には、患難期の時だけでなく、今日のその信仰のゆえに、世界各国で殉教した人々も含んでいるだろう。オープンドアーズという、世界のキリスト教徒への迫害を監視し調査している団体によると、2023年では、世界のクリスチャンの内、7人に一人が深刻な迫害下にあるという。その数は30年前の倍になっていると言う。また、20世紀の1世紀だけで信仰のゆえに殉教した人の数は、それまでの1世紀から19世紀の数の合計よりも多いとも聞いた。それほど現代は終末に終わり、即ち患難期に近づいているのである。

 なので、それらの人々は、Ⅴ10:「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」と、神に訴えるのである。すると神は彼らに、V11:「すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。」と言う。

 これは、もっと多くの人が殉教者として死んで欲しいと神が願っているということでなく、その信仰のゆえに殉教するかもしれないが、それだけ多くの人が悔い改めて、キリストを信じる者になって欲しい、それだけ真の信仰者が起こって欲しいと、神は願っているということを示している。

Ⅱペテロ3:9:「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

 「その約束のこと」とは主の再臨のこと。こうして、患難期であっても人々は神を信じることが出来るのです。何故なら、患難期ではあっても、地上では聖霊なる神様が、またイエス様がキリストを信じる者と共におられ、殉教しても主を証しする人がいるからです。イエス様はこう言われた。

マタイ28:18~20:「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』」

 患難期は世の終わりではない。患難期が過ぎて千年王国が訪れ(黙示録20:4~5)、千年王国が終わってサタンが再び現れ(黙示録20:7)、しかし、サタンは火と硫黄との池に投げ込まれて、その後、大きな白い御座による裁き(黙示録20:11~15)が終わってから、世の終わりが来て、新天新地が来る。それまではキリストはこの地にあって私たちと共にいるのである。そして聖霊様も共におられて、宣教のわざは続いているのである。ある注解によると、7章に出て来る14万4千人の民は宣教師であると言う。また11章に入ると、二人の預言者が現われるが、彼らはその信仰とその証しのために「底知れぬ所から上って来る獣」によって殉教することが記されている。なので、患難期ではあっても、宣教の働きは進められ、そのために殉教も起こるのである。こういう意味でも、患難期にもキリストを信じる人々がいるということで、患難期前に教会が携挙されるということは考えずらい。

 いずれにしろ、神は、患難期でもこのように死に至るまで忠実で、最後には勝利を得るスミルナ教会のクリスチャンのように(黙示録2:10)、また、黙示録20:4~6:「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」とあるように、たとえ迫害にあっても、最後には復活し、永遠の滅びである第二の死に完全に打ち勝つ信仰者が起こされることを願っているのである。私たちもそのような者でありたい。

V12~V14:「私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。」

 第六の封印が解かれると、次のような天と地にいろいろな自然現象が起こる。地震や火山噴火の時の火山灰により、また、隕石が地表に落ちることにより、地表に大量の塵が舞い上がって太陽が隠れること(V12:「太陽は…黒くなり」。また、月は皆既月食の時、太陽から赤い光だけが届いて赤く見えること(「月の全面が血のようになった。」)そして、隕石の落下のこと(V13:「天の星が落ちた。」)洪水による山崩れや、温暖化による北極や南極の氷解、また、アルプスやヒマラヤの氷河が氷解が起きること、また海面が上昇して島が消失すること(V14:「すべての山や島がその場所から移された。」)。

 これらの現象、出来事が余りにも恐ろしいので、V15~V17:「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」と言う。

※まさにその通りであって、仮令どんなに高い地位にあっても、どんなに富や力があっても、どんな人もこの神の裁きの前には、主の恐ろしい日の前には、無力なのである。

【結論】

 このような患難時代は必ず来る。だから、いつそれが来ても良いように、私たちは備える者でありたい。その備えのメッセージは、前回のマタイの福音書の続き、

マタイ24:42:「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」

※目をさましていることの重要性。「目をさましている」とは、ずーっと起きているということでなく、霊的に覚醒していること。つまり、みことばと御霊との交わり、神との交わりによって、神と一つとなっていること。神とつながっていること。神を信じることである。

Ⅱペテロ3:11:「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」

 「聖い生き方をする敬虔な人」も、「目をさましている」ということと同じように、神とつながっている、神のみこころを知り、悟り、一つとなっているということ、神を信じるということである。

※どんな時であっても、いつ患難期が訪れてもよいように、神を信じて、備えていよう。

―祈り―


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