【聖書個所】
黙示録6:1~8
【タイトル】
黙示録(15)「封印を解くことによる患難期の始まり①」
【聖書個所】
黙示録6:1~17:「また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で『来なさい。』と言うのを私は聞いた。私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、『来なさい。』と言うのを聞いた。すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、『来なさい。』と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。『小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。』小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、『来なさい。』と言うのを聞いた。私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。」
【序論】
今日から19章の終わりに掛け、これから起こる患難期、即ち、神のさばきの出来事が記されている巻き物の封印が解かれ、それらが予告編的に明らかにされ、第7の封印が解かれた後のラッパが吹かれる毎に、その出来事が本編として進行して行き、そして第7のラッパが吹かれた後の神の怒りの鉢が地に向けてぶちまけられる度に、それらが完結して行くのを、私たちもヨハネが幻で見たように見て行くことになる。しかし前回も言ったが、次のことは忘れないで欲しい。それは、何か恐ろしそうな者が現われ、恐ろしそうなことを語り、恐ろしそうなことを行うとしても、それらはすべて、不信仰者や、悪しき者に対する神による裁きであって、それは同時に、信仰者にとっては救いの完成、神の救いの計画の成就に向かって行く出来事であるということである。カルバリーチャペルのチャック・スミスは、だからこの巻き物は、神様が造られたこの天と地の権利証書だと教えている。つまり、神が造られた天と地は、初めアダムに管理の権利証書が与えられていたが、サタンに騙されてその権利が奪われたので、終わりのアダムであるイエス様が来られ、十字架と復活の贖いによってその権利証書が取り戻され、そして、権利証書に記されている不信仰者や悪しき者、最終的にはサタンへの裁きと、信者の完全な救いへの過程が記されているもの、それが巻き物であり、また黙示録であるということ。だから、黙示録は、また巻き物に記されていることは恐ろしいことではない。それらはすべて、神の主権の下にあることです。そのことを、今日の聖句の初めのⅤ1に見ることが出来る。
V1:「また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、…。」
この巻き物の封印を解いたのは誰か?―悪魔か、悪霊たちか?―否、神であり、キリストです。もし私たちが巻き物の中味を知ることが恐ろしいと思うなら、まだ私たちの信仰は全きものとなっていない。神を信じた者には、この黙示録、この巻き物に記されている神の裁きは及ぶことがないからです。
Ⅰヨハネ4:16~18:「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」
皆さん、神を信じているか?―信じていれば大丈夫!―では始めて行く。キリストが贖って下さったどんな権利が私たちに回復するのか見て行こう。
【本論】
V1:「また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で『来なさい。』と言うのを私は聞いた。」
この「四つの生き物」とは、黙示録4:6~7に記されていた生き物のこと。
黙示録4:6~7:「御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。」
このうちのどれがこの「四つの生き物の一つ」かは分からない。しかし、この「四つの生き物の一つが、雷のような声で、「来なさい。」と言うのをヨハネは聞いたのである。この「来なさい。」は、意味としては、「Come and see:来て、見なさい。」(欽定訳)である。それでヨハネは、
V2:「私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。」
ここだけ読むと、この白い馬に乗っている者は、正義の味方のように見えるが、そうではなく、この後に続く、Ⅴ4:「赤い馬」に乗っている者、Ⅴ5:「黒い馬」に乗っている者、Ⅴ8:「青ざめた馬」に載っている者と同様、神の裁きのために、それぞれに限られた範囲で地上に危害をもたらすために神の許しの範囲で地上に現れた悪しき者たちである。特に、この「白い馬」に乗っている者は、黙示録19:11で、患難期の最後にこの地を裁くために再臨されるキリストを真似た反キリストである。
黙示録19:11~13:「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。」
サタンが神の真似をするように、反キリストはキリストの真似をする。そのような反キリストが患難期の始まりに、キリストであるかのように現われることは、ダニエル9:24~27で学んだ。
ダニエル9:24~27:「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」
特に最後の、V27:「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」の「荒らす忌むべき者」が、実際の歴史的人物としてはシリヤのアンティオコス・エピファーネスであり、終末預言的には、患難期の始まりに、このようにイスラエルと平和条約を結び、あたかも平和の使者、キリストであるかのように現れる反キリストを預言している箇所であると学んだ。そのことは今日の黙示録6章と重なる。そして、患難期の始まりには何が起こるかということがイエス様も語っていたが、その語られていたこと通りのことが、今日の箇所に語られているのである。それが、第1の封印から第4の封印が解かれて起こることである。
マタイ24:3~8:「イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。『お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。』そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。(黙示録6:2:「白い馬」に乗っている反キリストのこと)また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。(黙示録6:4:「赤い馬」に乗っている者が起こす戦争等)これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききん(黙示録6:5~6:「黒い馬」に乗っている者の量りが意味する飢饉。通常、小麦は1デナリで8桝買えるものなので、酷い飢饉を表わす。「オリーブ油とぶどう酒ぶ害を与えてはいけない。」は、神には癒しと救いの計画があることを示す。参考:ルカ10:34:「良きサマリヤ人」の中の「オリーブ油とぶどう酒」の意味する癒しと救い)と地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみ(患難期の裁き)の初めなのです。」
黙示録6:7~8の「青ざめた馬」に乗っている者である「死」は、これまで出て来た戦争による死、ききんによる死に加え、地震などの自然災害による死、病気による死など、神の裁きによる死をまとめたものである。
【結論】
患難期はいずれ来る。なので、結論としては、イエス様が言われるように、Ⅴ6:「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。」、Ⅴ13:「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」ということです。
※何故なら、飢饉が起こる時に、「一つの声」である主の声が、「オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」と言われたように、また初めに、患難期は滅びる者、不信仰者(注意!―未信者ではない。未信者は未だ信仰を持ちチャンスがある)にとっては恐ろしい時であるが、信仰者である私たちにとっては、救いの完成に至る時のためであるからです。
―祈り―
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