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2024. 9. 1 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

Ⅰペテロ2:1~2

【タイトル】

「神の子として生まれたので②」

【前置】

 先月は、「神の子として生まれたので」というタイトルで、その①として、どうして私たちはキリストの似姿へと造り変えられて行かなければならないのか?ということの根源的理由について語った。それは、私たちはみな御霊により、みことばの種によって神のDNAをいただき、神の子として生まれたので、神の子として造り変えられて行かなければならないのだ、ということだった。今日はその続きとして、では成長して行くためにはどうすれば良いか?という実践面について語る。聖書個所は、前回の箇所の後、Ⅰペテロ2:1~2です。さっそく聖書を開く。

Ⅰペテロ2:1~2:「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

【導入】

 今から約800年前、ローマ帝国の王フリードリッヒ2世はある実験を行った。人間は言葉を教わらないとどうなるかということを知る実験である。生まれたばかりの赤ちゃんを50人集め、世話する人には、ミルクを与えること、オムツを変えること、お風呂に入れるということ等、生存に必要なことは行なわせ、目を合わせること、笑いかけること、言葉をかけることなど、言語的、非言語的コミュニケーションは一切行なわせなかった。その結果、50人の赤ちゃんの内、49人が3歳までに、一人は6歳になって死んでしまったと言う。今ではとても許されない実験だが、これは、「フリードリッヒ大王の実験」ということで、教育学、心理学では有名な実験として知られている。この実験が示すことは、人は生存のための欲求が満たされても、言葉、微笑みと言った社会的欲求が満たされないと生きていけないということである。

 さて先月、私たちクリスチャンは、マリヤのように神の言葉の種を宿して、神の子として新しく生まれた者であることを学んだ。今日は、そのように生まれた私たちにとって、フリードリッヒ大王の実験ではないが、生きて成長して行くためには何が必要であるのか、そのことを学んで行こう。

【本論】

 今日のみことばをもう一度見る。

Ⅰペテロ2:2:「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

 このみことばが教えるように、神の子として生まれた私たちには「みことば」が必要である。

マタイ4:4:「…。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』…。」とある通りである。

 ただ、今日の聖書個所には、もう一つ重要なことが記されている。ペテロは私たちに、その神の言葉を食する前に、或いはそのために、或いは、同時にしなければならないことが記されている。それは、

Ⅰペテロ2:1:「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」ということである。

 これは、私たちはみな神の子として新しく生まれる前は、罪の性質を持った者として生まれていたので、その「生まれながらの体」、それを聖書は「肉のからだ」と言っているが、その体から出て来るものを捨ててしまえということです。私たちクリスチャンは新しく生まれているが、それは私たちの「内なる人」のことで、この世にあっては、私たちは未だ「肉のからだ」を持っているからです。パウロはこのことについて、クリスチャンの成長の問題と関連させて、次のようにコリントの教会に書き送った。

Ⅰコリント3:1~3:「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」

 コリントの教会には、彼らに与えられていた霊的賜物のゆえに、ペテロがⅠペテロ2:1で取り上げていたような「妬みや争い」また、「悪意、ごまかし、偽善、悪口」などがあった。なのでパウロは、それを指摘し、あなたがたは「ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」と言ったのです。「ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」というのは、「まだ救われていない、まだ神の子となっていない」ということを言っているのではなく、「生まれながらの罪人のような状態で歩んでいるではないか、少しも変っていないではないか、つまり、成長してキリストの姿のようになっていないではないか」と言ったのである。だから、本来ならば、人の赤ちゃんの場合には乳離れの時が来たら離乳食を食べさせるし、そして段々大人と変わらない食べ物へと変わって行くように、離乳食を、そして堅い食物を与え、そして成長して、キリストの似姿になることが出来るようにと願っているが、それが出来ないで、「未だ乳を与えているのである。」と言ったのである。

 これはパウロの嘆きでもあるが、また神の嘆きでもある。神様は私たちに成長することを願っている。キリストの似姿へと、キリストの満ち満ちた姿(エペソ4:13)へと、キリストにある成人に達することが出来る(コロサイ1:28)ようにと、キリストの形が形造られる(ガラテヤ4:19)ようにと願っている。では、どうすれば?

ヘブル5:11~13:「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。5:12あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。5:13まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。」

 先ほどのⅠコリント3章のみことばと似たようなことが語られているが、この箇所に、成長を妨げる原因が何処にあるかはっきりと語られている。それは、Ⅴ11:「あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。」とあるように、「耳が鈍くなっているため」ということ。これが成長を妨げる大きな原因です。どんなにみことばを語っても、どんなにみことばを解き明かしても、耳が鈍くなっているため、入って行かないというのである。では、この「耳が鈍くなっている」ということは、別の言い方で言うとどういうことか?それは、「種蒔きのたとえ」で言う、その人の心が「良い地」ではなく、「道ばた」、「岩地」、「いばらの地」になってしまっているということ。

 私たちはこの「種蒔きのたとえ」の言わんとするところは、もうそれこそ耳にタコが出来ているほど何度も聞いているので分かっていると思う。それは、私たちは、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ良い地となるためには、私たちが成長して行くためには、またその状態を保つためには、私たちはみことばを聞いて、見て、本当に悟らなければならないということ。

マタイ13:10~18:「すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。」

 イエス様はユダヤ人の群集と弟子と切り分けて、この譬えを語り、解き明かした。その要点は、弟子はイエス様と共に生活し、傍でイエス様の語ることを聞き、イエス様の為さることを見、時に実際にイエス様の語るように、為さるようにやってみた。それだけ、イエス様との関係が群衆である他のユダヤ人とは違っているということです。だから、Ⅴ16:「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」と言われたのです。

 私たちもそうです。しかし、私たちもそれを理解し、その恵みを感謝し、そしてそれに従って生きて行かなければ、いつまでも「道ばた」、「岩地」、「いばらの地」、「耳の鈍い者」のままで成長して行かない。ちょうど私たちに、私たちが人間として脳が与えられ、さまざまな器官や組織、体が与えられても、それを使わなければ、訓練しなければそれは成長して行かない、強くならないのと同じである。

 一つの例として、筋骨隆々になりたいと、ただ夢見ているだけではそうならないように、そうなるためには筋トレが必要なように、私たちも神の子として成長するためには、与えられている神の子の体の器官や組織を働かせなければならない。使うこと、トレーニングが必要なのである。

【結論】

 私たちのクリスチャンとしての霊的成長もそうである。みことばを内なる人、霊の食べ物として読み(食し)、思い巡らし(耕し)、理解し(消化し)、そして、祈り(御霊との交わり)をすることにより、私たちは成長し、キリストの似姿へと変えられて行くのである。

―祈り―


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