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2024. 8.25 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

マルコ11:20~24

【タイトル】

「信仰から出て来る言葉の力」

マルコ11:20~24:「朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

【序論】

V20:「朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。」

 イエス様はエルサレム入城後、弟子と共にベタニヤに滞在していた。ベタニヤにはマルタやマリヤ、死人から生き返らせてもらった彼らの弟ラザロの家があったからである。そしてその期間はヨハネの福音書12:1によると、イエス様がベタニヤに来られたのが過越しの祭りの6日前となっているので、恐らく4~5日である。そのような日のある日の「朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。」とある。「いちじくの木が根まで枯れていた」とは、完全に枯れてしまっていたということ。何故そんなことが起きたのか、それは、その前日に起きた出来事と関連している。何があったか?

マルコ11:12~14:「翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。」

 「翌日」とは、イエス様がベタニヤに来て、エルサレム入城を果たした日の翌日のこと。イエス様はその日ベタニヤを出ると空腹を覚えられた。それで周りを見回すと、遠くの方にいちじくの木が見えたので、何か食べられそうな実でもありはしないかと来てみたら、葉の他には何もないのが分かった。それでその木に向かって、「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」と命じたのである。これは隠喩として、いちじくの木がイスラエルを現わしていて、見た目には信仰深く見えても、内面的には神のみこころから遠く離れてしまったイスラエルに対する神の裁きの言葉である。しかし、今日は違うテーマなので、今日はそのことには触れない。今日この箇所から私たちが学びたいのは、タイトルにあるように、信仰から出て来る言葉の力についてです。

【本論】

 私たちの口から出て来る言葉には2種類の言葉がある。先ず一つ、「信仰から出て来る言葉」です。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)という言葉がある。また、「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」(ルカ6:45)という言葉があるように、口でどんなに「私は神様を信じます。」、「私はイエス様を信じます。」と言っても、心で本当に信じなければ、その人は救われない。しかし本当に信じているのならば救われる。なぜなら、その人の口から出て来る言葉は心の中から出て来る言葉だからです。みことばが言うように、その人は、その信仰から出て来る言葉のゆえに救われるからです。

※心の中の言葉と口から出て来る言葉とが一致している時、心の中の言葉と口から出て来る言葉が一つになっている時、つまり、心の中にある信仰から出て来る言葉には力があるのです。

 もう一つの「私たちの口から出る言葉」とは、既にもう出たように、心の中にはその信仰はないのに、口だけの言葉になっている、つまり、本当に信じているという信仰のない言葉です。信仰から出ていない言葉です。その言葉には、どんなに力強いように見せても力はないのです。

※だから、心の中に本当に信じる信仰があること、そしてその信仰から出て来る言葉を語るということは重要です。なのでイエス様は弟子たちに、Ⅴ22:「神を信じなさい。」と言われた。「信じる」ということ、「信仰」ということについては何度も言っているように、それは神との関係です。神と繋がっているか、神に連なっているかということです。特にこの場合、「神に連なっている」という関係は重要です。二人三脚を考えてみても、飛行機の連帯飛行を考えてみても、一糸乱れなく連なっていることは重要です。そうでなければ、それらは実現しないからです。

 そのように、神様との関係において一糸乱れない関係、連なっていることは重要です。その時に神の大きな力が現われるのです。だからイエス様が言われるように、Ⅴ23:「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」

※何故なら、私たちが連なっている神様は全能なる方、「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37)という方だからです。私たちがその方に連なっている時、その方の力は私たちを通して流れて行きます。その方の力が現れます。その一つの良い例として、

マルコ5:25~30:「ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。」

 彼女は、自分の持ち物を全部使い果たしてしまうほど、あの病院、あの医者、あの薬、この薬と、いろいろなことをやったけれども、全然良くならず、かえって悪くなる一方だったと言う。しかし彼女はイエス様のことを耳にして、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)とあるように、イエス様に対する信仰が与えられ、それからは、Ⅴ28:「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る。』と考えていたからである。」とあるように、「考えていた。」ということは「言っていた。」、「告白していた。」ということだが、そのように彼女は心の中でも、口の中でも、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と言い続けて来たのである。それで、イエス様の衣に触った時、イエス様からその力が流れて癒されたのである。

 このように、信仰から出る言葉には力がある。それは神の言葉、神の口から出る言葉だからです。信仰は神に連なることだと言った。「神に連なる」とは、神の横に居て、あたかも軍隊において伝令官が上官の言ったことをそのまま一言たりとも変えることなく言うようなことです。それが神に連なることであり、神を信じることです。そうするなら、神の言葉は全能者の言葉、この全宇宙で最も力ある主権者なる神の言葉だから、必ずそうなる。神が「光よ。あれ。」と言った時に光が出来たように(創世記1:3)、また、「…、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:11)とあるように、神の口から出る言葉は必ず実現するのです。

 ただ、それがいつ実現するのかは、私たちには分からない。「時」については、イエス様が使徒1:7で語っているように、父なる神の主権の中にあることだからです。だからイエス様も、Ⅴ14:「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」と言われた。いつ起こるか分からないが、しかし、必ずそうなるとイエス様も信じて、「今後」と言って、いちじくの木に命じられたのである。未だ実現を見てはいないが、もう実現したかのように、その絵を見て命じたのです。だからイエス様は次のように言われた。

V24:「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と。

 皆さん、神はどういう方だと考えるか?―時間とか空間とかに支配される神だと思うか?「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)というみことばがあるが、このみことばが意味することは、神は永遠に変わらないということと共に、神には昨日も今日も明日もないということ。生まれながらの私たちには昨日、今日、明日という時間があり、その時間軸、つまり4次元の世界の中で生きているが、神には昨日という過去も、今日という現在も、明日という将来もないのです。神は過去、現在、未来を貫き、それらの時間を超えて存在しておられる方であり、万物の、万事の、すべての時のアルファでありオメガである方、永遠から永遠に変わらない方だからです。神には永遠という時しかなく、その永遠という時のすべてを支配しておられる方だからです。

 だから、Ⅴ24:「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と言うのです。

【結論】

 今日、皆さんの前に山はあるか?―解決しなければならない山はあるか?―病いのいやし、経済問題、どんな山であっても、神にとっては山ではなく、病でもなく、問題でもない。だから、私たちは神を信じ、神に連なって、心の中で疑わずに、神にはどんなことでも出来ると信じて、その山に向かって、「動いて、海に入れ。」と命じれば、その山は動いて海に入る。

 だから今日、心の中で疑わず、信じて告白しよう。神の言葉を宣言しよう。神の言葉は必ず成ります!

―祈り―


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