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2024. 8.18 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

黙示録4:4~11

【タイトル】

黙示録(13)「天の御座の幻②」

【前置】

 先週は黙示録4:1~3から、「天の御座の幻①」として、ヨハネが見た天にある御座の幻についてみことばを取り次いだ。今日は、その「天の御座の幻②」として、天の御座には誰が居て、何があって、そこではどんなことが為されていたのかという、ヨハネが見た御座の幻についてメッセージを取り次ぐ。

【聖書個所】

黙示録4:4~11:「また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

【本論】

V4:「また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。」

 ヨハネは、神が座しておられる御座の回りに24の座があって、その座に「白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たち」を見た。この長老たちとは誰のこと?―ある注解書は「御使い」だと言い、またある注解書は「イエス・キリストを信じて罪赦され、最後まで信仰を貫き、いのちの冠、義の栄冠をかぶっている信者の代表者たちを表わすと言う。私もそうだと思う。何故なら、「金の冠」は信仰レースの勝者に被せられる勝利の栄光の冠、オリンピックで言えば金メダルだからである。

Ⅱテモテ4:7~8:「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」

 また、着ている「白い衣」はイエス様の十字架の血によって洗われ、しみや傷や汚れのないものとなった救いの衣を指しているからです。

詩篇51:7:「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」

 では、その長老はどうして24人なのか?―これは白い衣と同様に、罪赦された者の象徴であって、24の数字は、イスラエルの12部族の12と、イエス様の12人の弟子の12の2つを足して24にしたもので、最終的に完成された信者の象徴なのである。パウロはエペソ書で、イスラエル人と異邦人との違いを述べ、最終的には両方がキリスト・イエスより神の民として完成させられると言っている。

エペソ2:13~18:「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」

 だから、私たちは最後まで信仰を保ち、白い衣、金の冠を被る者とされように、またその神のみこころを知っている者として、今互いに敵意の中にいるイスラエルとアラブ・パレスチナ・イランのために祈ろう。キリストによる平和が実現するように!

V5:「御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。」

 御座から起こった「いなずまと声と雷鳴」とは、御座に着いている神、キリストの声。ヨハネは初め、神の声を「ラッパの音」のように聞いた。(黙示録1:10、4:1)また、「大水の音」のようであるようにも聞いた。(黙示録1:15)そしてここでは、「いなずまと雷鳴」の音のように聞いたのである。それはこれから起こる患難期の恐ろしい出来事を示す神の声として相応しいものかもしれない。実際にイスラエルの民は、彼らがエジプトを出てシナイ山の麓にやって来、神の臨在がシナイ山の上に現れた時、彼らは「いなずまと雷鳴」の音のような神の声を聞いたのである。そして彼らは恐れた。

主エジプト19:16:「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。」

 このように、神御自身はその臨在において、その現われにおいて、その聖さや偉大さは変わることはない。私たちはその神に救われ、その神に仕えていることを、神の民として、イスラエルの民のように恐れをもって覚えよう。

 また、御座の前で燃えている「ともしび」とは、ここで言っているように「神の七つの御霊」、即ち、黙示録1:4で語られていたように、完全なる御霊、聖霊なる神のことである。三位一体である父なる神、御子なるキリスト、聖霊なる神はいつも共にいるのである。

V6~V8:「御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」」

 V6a:「御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。」とある。先日の台風7号が関東に接近して来るニュースの中では、千葉や茨城県の荒れ狂った海の映像が流れていたが、御座の前の海はそうではなく、波一つ立っていない、ガラスの「鏡のような水面」のような海であり、水晶のように輝き、神に相応しい曇りや不純物など一つもない清い場所が御座の前にはあるのである。そして、Ⅴ6b:「御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。」とあるが、その生き物は何だったのか?―V7:「第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。」

 この不思議な生き物については、エゼキエルやイザヤが見た幻として、エゼキエル書やイザヤ書の中に出て来る。但し、微妙にそれらは違っているので、黙示録のここで描かれている姿に近い箇所を見てみよう。先ず、4つの顔が人間、獅子、牛、鷲の顔を持っている者として描かれているのは、

エゼキエル1:10:「彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。」

 これはケルビムと呼ばれる御使いのことで、4つの翼を持っていたとV6にある。また、イザヤが見た幻は、

イザヤ6:2~3a:「セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満つ。」

 黙示録で描かれていた御座にいた生き物は、イザヤ書で王座に座しておられる主の傍に立ち、主をこのように賛美しているセラフィムと呼ばれる御使いように、六つの翼を持って同じように主を賛美しているので、恐らくセラフィムだろう。天使には9階級あるようで、セラフィムは一番上の階級の御使いで、ケルビムのその下の第2階級の御使いとのこと。いずれにしても、ヨハネはここで、イザヤが見た時と同じように、セラフィムが主を昼も夜も賛美している幻を見たのである。

V8:「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。』」

 これは、やがて私たちが入って行く新天新地、先週学んだ第三の天における御座の前での礼拝の姿、私たちの究極的な礼拝の姿である!だから、そのように主を礼拝し、賛美を捧げよう。しかしその時、私たちにはもう一つ覚えておかなければならないことがある。それがV9~V11に記されている。

V9~V11:「また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

 24人の長老は、主に栄光と誉れと感謝をささげる時、主の御座の前に自分の冠、金の冠を投げ出して言った。V11:「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから」と。

※そう!これが私たちの礼拝には絶対的に、究極的に無くてならないものである。たとえ自分の力で信仰のレースに勝利して金の冠、栄冠が与えられたように思っても、それは結局すべての主の恵み、主のみわざのゆえだからです。

【結論】

 神は私たちの救いのために御子をこの世に送り、送られた御子イエス様は私たちの救いのためにすべての栄光を捨てられ、十字架にかかり、墓に葬られ、よみがえって下さった。このお方の恵みがあったからこそ、私たちはやがて天において栄冠を被ることが出来るのです。しかし、その栄冠は誰によって、誰の働きによって授かったものだろうか?


 オリンピックでのメダル授与式の後しばしば見る光景がある。それは、メダルを受けた選手がコーチや家族の下に行って、その人々にメダルを掛ける光景である。何故そうするのか?―彼らはそのメダルを受けられた理由を知っているからである。そのためにコーチや家族が払った多大な苦労を知っているからである。それと同じで、私たちは栄冠を受けた恵みに感謝し、その栄冠をささげるべき方に捧げるため脱ぎ捨て、「主におささげします。」と、その栄光を主に捧げるのである。それが私たちの天における、この地における礼拝である。パウロはそのことを、エペソ書で語っている。これをもって今日のメッセージを終わる。

エペソ1:3~6:「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」

―祈り―


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