【聖書個所】黙示録4:1~3
【タイトル】黙示録(12)「天の御座の幻①」
【本論】V1:「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。『ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。』」
この4章からは、「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」とあるように、実際にヨハネがAD1世紀の終わりにパトモスという島にいて、キリストがヨハネにこれから起こる事として示した、それ以降の終末の出来事、所謂終末預言が記されている箇所に入る。そこに入る前に、「この後、必ず起こる事」としてキリストがヨハネに幻によって示すわけだが、その幻は2つの領域における幻であることを予め知っておいて欲しい。2つの領域とは、「天の領域」と「地の領域」のこと。天で起こることと地で起こることの2つが記されているということである。例を挙げると、天の領域のこととは、今、「見よ。天に一つの開いた門があった。」と読んだように、4章全体は「天で起こること」であり、地の領域のこととは、7:1:「この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。」とあるように、地で起こることが記されていることである。そして特に、第7のラッパが吹き鳴らされた以降の16章以降は、多くが患難期の最後の地上で行なわれる神の裁きによる出来事のことである。では、始めて行く。
V1:「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。」
天には「一つの門」があると言う。多くの門ではなく「一つの門」だと言う。この世の人たちは、「どうして天国に行くためには、イエス・キリストを信じる信仰以外には無いのか」とか、一休禅師が作った道歌、「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」と言うように、最終的にはどんな宗教も同じ神を信じているのだから、どんな宗教でも良いではないかと言う。教会の指導者の中でさえも、宗教多元主義や、エキュメニカル・教会一致運動、WCRP(World Conference of Religions for Peace、世界宗教者平和会議)に属している人たちはそう考えている。
しかしイエス様は、ヨハネ10:9:「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」と言われ、また、ヨハネ14:6b:「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とも言われた。そして、マタイ7:13:「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」と言われたのです。
まさに、宗教多元主義の人たちやエキュメニカル運動の人たち、WCRPの人たち、またイエス様を信じない人たちは、滅びに至る門を通って、滅びに至る道を通っている。しかし、「天に一つの開いた門があった。」とあるように、信じた私たちにはその門はたとえ狭くても、天では開かれているのである。そのことを感謝すると共に、彼らの目が開かれるために伝道し、救いを祈らなければならない。
次に、V1:「先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声」という「初めの声」とは、1:10:「私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。」とある声、キリストの声である。その声が、「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」と言われたのである。すると、V2~V3:「たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。」とある。
前回学んだように、私たちは御霊によって新しく生まれた存在である。だから、御霊に感じることが出来、そのように感じることは大切なこと。パウロも御霊の実を結ぶことについて、ガラテヤ書の中で、御霊に感じ、従って行くことは必要なことであると語っている。
ガラテヤ5:16:「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」
ヨハネもその御霊に感じ、天に一つの御座を見た。それは、今も主が天に座しておられる所である。この天と言うのは、所謂この大空、宇宙という意味の天ではなく、天には第一の天、第二の天、そして第三の天があって、ヨハネが御霊に感じて見た御座は第三の天にある御座である。ここで少し、天について説明しておく。
第一の天、第二の天とは、物理的な天のことで、私たちが見る空と、その向こうにある宇宙のことである。この天は創世記にあるように、神によって造られた。その創世記によるならば、その第一の天の下と第二の天の下にはそれぞれ水があって、第一の天の下の水は一か所に集まって海となり、第二の天の下の水はそのまま保たれていたと言う。
創世記1:6~10:「神は仰せられた。『大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。』神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。神は仰せられた。『天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。』そのようになった。神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。」
そしてノアの洪水の時に、その第一の天の水門が開き、保たれていた第一の天と第二の天の間にあった水が大雨として天から降り、大洪水となったのである。
創世記7:11~12:「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。」
そして、この第一と第二の天の上にある第三の天は物理的な天のことではなく、神が永遠に神として、第一の天、第二の天、地のすべてを支配しておられる神の御座が置かれている所である。それは、黙示録21:2で描かれているように、私たちの救いの完成の時に、聖なる都が夫のために整えられた花嫁のように出て来る天であり、また、私たちが入る新天新地の天でもある。パウロはこの天に幻によって「引き上げられた。」と、コリントの教会に語っていた。
Ⅱコリント12:2:「私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。」
私もこの第三の天かどうか、恐らくそうだと思うが、2回、その天の有様を幻の中で見ている。救われた1986年と、神学校に入った1988年の時。それはとても口では説明し難いほどの栄光と力と輝きと平安と喜びに満ちたところであった。それは、黙示録7:9~12に描かれている天の御座の姿そのものでもった。
黙示録7:9~12:「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。』御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。『アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。』」
またその栄光は、エゼキエルも聞いた「大水のとどろき」のような音でもあった。エゼキエル43:2:「すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現れた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。」
個人的な経験を語ることは、パウロが言っているように注意して控えめに語らなければならないが、やはり目撃したことなので、分かち合わなければならないと思う。しかし、自分にはそのような経験はないと思っても大丈夫である。一番の不思議は、私たちが御霊によって新しく生まれ、霊的にはもう第三の天に生きているということだからである。私たちは神の子として、第三の天、神の国に生きているということ、これが最大の奇跡であり、神からの最大の贈り物である。続けてV3に入る。
ヨハネが見た御座の中にいた方は、Ⅴ3:「碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。」と言う。「碧玉」とは石英の結晶が集まった石で、透明な水晶から始まって、中にある不純物によっていろいろな色合いを持つ石のこと。「赤めのう」とは、石英、玉髄、蛋白石から出来ている石で、全体的に赤い縞模様の入っている石。ルビーとも呼ばれたりする石。「緑玉」とは、文字通り緑色した石で、エメラルドとも呼ばれたりする。
どうして御座がこのようなさまざまな鉱石に例えられているかというと、古代社会が石の持つ美しさだけでなく、石を神として礼拝する文化があったからではないか。いずれにしても、黙示録21章でも、新天新地における神の都は12の宝石と透き通るような純金で出来ていると記されているように、私たちが入って行く都は、この地上には存在しない本当に美しい場所であるということなのである。
【結論】 世の中は、一生懸命働いて「故郷に錦を飾ること」が人生の成功のしるしであるように言う。しかし、私たちの場合は、私たちの功績ではなく、イエス様の十字架の功績に預かって天の故郷である神の都に入ること、それが私たちの成功である。神を信じて救われるということが何よりの成功である。私たちはそのような人生の成功者とされていることを喜び、また感謝しよう。
―祈り―
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